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2.遺恨

「池尾様、何のお話でしたの?」


 泥酔した彦三郎を送り届けて家に戻ると、そこで初名が待ち受けていた。

 酒にも強くない彦三郎だが、自分の酒量は弁えている。ああまでの酔態を晒すのは稀有であり、初名もそれが気にかかったと見えた。

 つまるところ、果し合いの一件はそれほどの心労なのであろう。城でも自宅でも気を抜けず、彦三郎はようやくここへ息継ぎに来たのだ。


「何、いつもの昼酒さ」


 思いながらも知らぬ顔で、景久はそのように返す。が、無論信じる初名ではない。


「嘘です」


 と即座に切り捨てられた。あまりの思い切りの良さに、秋月先生に指南を頼むべきかもしれんなどと、景久は益体(やくたい)もない事を考える。この踏み込みの度胸は、小太刀を使うのに向いている。


「だって、固い顔をしていらっしゃいましたもの」

「俺がかね?」

「いいえ。お二人ともがです。いつもはもっと楽しそうです」

「目の利く事だ」


 皮肉ではなく、景久は素直に感嘆をする。

 初名の慧眼(けいがん)通り、二人の酒は愉快なものではなかった。



 *



 彦三郎が立ち合う者の名を、後藤左馬助(さまのすけ)という。

 江戸詰めを終え、数日前に藩に戻ったばかりの男だった。齢は景久や彦三郎と変わらず、まだ二十にも届かぬ若輩である。

 だが、音に聞こえた武辺者(ぶへんもの)らしかった。

 刀法のみならず柔術槍術鉄砲術、挙句は手裏剣術までもを修め、いずれも一流の域に達しているという。まるで武の塊のような生き物で、文弱な彦三郎が打ち当たって敵う相手ではない。始める前から勝負は見えている。

 ならば何故このような果し合いが両名の間に生じたかといえば、それは池尾と後藤、双方の父の代に遡る。


 池尾新之丞と後藤将監(しょうげん)は、公私ともに犬猿の仲として知られていた。

 その発端が奈辺(なへん)にあったかは、最早両者自身にもわからぬところだったろう。それほどに二人の間の感情はねじれ、こじれていた。

 双方の家が家老格であったのが、この乱麻を更にもつれさせた一因だった。

 権力を好む取り巻きがそれぞれにつき、それぞれの悪口を吹聴しては足を引きあっていたのだから、致し方ないと言えば致し方のない顛末である。

 だがこの争いは十年ほど昔、新之丞の勝ちで決着を見た。

 池尾の家は藩政の中核を占めて磐石の地位を築き、後藤の子とその一派の多くが江戸勤めとなった。つまりは藩から遠ざけられたのである。

 よくあるといえばよくある権力闘争だが、しかしこの折の経緯(いきさつ)がよくなかった。


 池尾と後藤。両者の明暗を分けたのは、新之丞と将監の果し合いであったのだ。どちらも藩の要職にありながらの事で、最早乱心と呼ぶ他にない所業である。

 真剣を用いての立ち合いの末、新之丞は生き、将監は死んだ。その死は病死として届けられ、後藤の家はその子に恙無(つつが)く継がれた。

 たが世間は聡く、また口の軽い者は決して少なくない。おそらく池尾を恨む後藤派の仕業もあったろう。真相はやがて巷説として、諸人の知るところとなった。

 が、藩はこれを揉み消した。

 家中不行(かちゅうふゆ)(とど)きは改易にも繋がりかねぬ劇物である。(まつりごと)(たずさ)わる誰も彼もが、将監の死を見ぬふり、知らぬふりで押し通した。


 後藤左馬助はこの将監の子である。

 十年余の間、江戸で牙を研ぎ続けてきた恨みの子である。

 当然ながらそれを知る池尾としては、彼を江戸より戻す気はなかった。

 でありながら左馬助の帰還が成ったのは、(ひとえ)に新之丞の病にある。英傑といえども人の子。池尾新之丞は近年肺を(わずら)い、伏せる事が多くなっていた。

 これを狙い澄ましたように、左馬助は動いた。藩へ戻る事叶わねば公儀に我が父の死の不審を訴えると、彼はそう言い出したのだ。

 いわば、脅しだった。

 もし実行すれば左馬助自身も痛い目を見る諸刃である。だが古来より、この種の駆け引きは失うものが少ない方が有利と定まっている。七坂藩は、これに拒む事ができなかった。

 そうして七坂の地を踏んだ左馬助の次なる要求こそが、池尾彦三郎との果し合いであったのだ。

 無論、家中の私闘が厳禁である事に変わりはない。しかし池尾の跡取りとはいえ一藩士たる彦三郎と、藩そのものとは引き換えられぬ。この一件が黙認されるのは目に見えていた。


 後藤閥のこの攻勢は、新之丞の病身と世代交代に伴う池尾の揺らぎに折悪しく重なったかに見える。

 が、実状は異なるはずだった。左馬助らは、機を窺い続けていたのだ。

 江戸詰めの(かん)に公儀に通じる人脈を作り、七坂においても様々に蠢動(しゅんどう)し、入念な下準備を行ってきていたのである。

 それが証拠に、今の池尾に手を差し伸べる者はない。

 もし池尾家に(くみ)すれば、左馬助は間違いなくそれを敵対行為と看做(みな)すであろう。如何なる難癖をねじ込まれるか知れたものではなかった。

 故に家格の高い者ほど、保身から門戸を閉ざす。

 彦三郎が常に政治的中立を保つと目される佐々木の家以外を(おとな)わなかった所以(ゆえん)である。



「まあ、そういう次第でな。俺は近々、左馬助と果し合う事になる。父と同じく、真剣でだ」


 (かぶり)を振る彦三郎に対し、景久は「ふむ」と頷くばかりである。

 知恵者の親友が断言するのだ。ならば世の中はそのように動くのであろう。


「どうあろうと命のやり取りになるのかね」

「なる」

「生き延びるだけも、難しいか」

「難しいだろうな。何せ俺は池尾の跡取りだ。左馬助としては、なんとしても息の根を止めておきたかろう」

「では──」


 どうにか打開策を捻り出そうと、景久は頭と舌を必死に回す。


「では先生から、梅明かりを伝授してもらうのはどうかね。彦、お前は頭が回る。お前にも使えるかもしれんぞ」

「梅明かり、か」


 それは秋月の道場に通う者ならば、誰もが名を知る秘剣であった。

 心構えとして最初に伝授をされ、そして真髄とされる技法である。


 人には必ず前兆がある。

 動作を起こす前には、きっと五体のいずれかに予兆が現れる。

 夜闇に滲む梅明かりから、花の在り処と形を知るように。

 わずかに発される動き未満の揺らぎから兆しを嗅ぎ取り、予測される数手先の未来に対応する。

 梅明かりとはそうした観法であり、言うなれば(さと)りの剣だった。


 この性質上、相手について深く知れば知るほどに推察は深く早く正確となる。

 もし百戦百勝の域にまで精度を増せたのならば、それは敵手を理解しきったという事でる。そこにもう争いの必要はない。

 そうした、偃武(えんぶ)の剣でもあった。

 左馬助を打ち殺すのではなく、()にも(かく)にも果し合いを生き延びる防ぎの技としては最適であろう。


「無茶を言うな、景。俺の力量は知っているだろう。今更励んでも間に合うまい」


 悟ったような澄まし顔で彦三郎は笑った。そして、続けて告げる。


「だが立ち会い人は、その先生にお願いするつもりだ。秋月先生になら、奴輩(やつばら)も無闇な手出しはできまい。だから景、お前は関わってくれるな」


 竹馬の友であるから、彦三郎は景久をよく知っている。

 眼前で友人が斬り死にするのを看過できる性分ではない。果し合いに立ち会わせれば、必ず勝負に割って入ってしまう。景久自身の為にも、佐々木の家の為にも、それは望ましくなかった。

 また平素は茫洋として見えるが、いざ動かば雷速を凌駕する男だとも感じている。もし後からこの一件を耳にすれば、仇討ちと称して後藤の家に斬り込みかねない。

 だからこそ今日、彦三郎は言い聞かせに来たのだった。


「いいか、景。お前は決して何もしてくれるな。俺はこんな事にお前を巻き込みたくないのだ。こんなつまらんいざこざで、友に累を及ぼしたくはないのだ」



 *



 肩を借りながらの帰途、彦三郎は幾度も繰り返し景久を(さと)した。

 こちらも年来の付き合いだから、彦三郎の思惑はわかっている。わかった上で、困った男だと思った。

 彦三郎は物の道理がよく見える。そして見え過ぎる分だけ潔い。悪く言えば諦めが早いのだ。


「実はな」


 それらの感慨全てを押し殺して、景久は初名に笑んで見せる。いつもの通りに。


「彦が家を継いだ後、俺を引き立ててくれるようにと頼み込んでいたのだよ」

「兄上」


 初名の声が冷たくなった。

 歩幅を広げて自室に急いたが、無駄な事である。初名はぴたりと後について離れない。


「何を隠してらっしゃるのですか」

「うむ。実はな」

「実は?」

「彦が家を継いだ後、お前を嫁に貰ってくれるようにと談判をしていたのだよ」

「兄上」


 初名の声が、更に冷えた。

 景久の嘘などお見通しであるらしい。兄の面目は、さて、どこへ失せたものであろうか。

 不貞腐れて部屋に寝転がると、すぐに脇腹を踏まれた。


「どうして兄上はいつもそうなのです。わたしに隠し事ばかりをするのです。兄上! あーにーうーえー!」


 ぐりぐりと足蹴にされて、景久は「ああ」とも「うう」ともつかぬ声で呻く。そうして体を丸め、初名からは見えぬ影で、もう一度真顔でううむと唸った。

 だが幾度唸ってみたところで、良い知恵は少しも浮かばなかった。

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