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1.白梅

 見るともなしに、梅を見ている。

 縁側で頬杖をついたまま、景久(かげひさ)はひとつ大きな欠伸をした。

 庭で咲き誇る白梅は、景久の母が佐々木の家に嫁いできた折に植えたものであるという。

 梅より後に生まれた息子に景久と日当たりの良い名を授け、忘れ形見となった娘には初名(はつな)とそのままの命名をするのだから、親父殿は亡母にぞっこんであったのだろうなあと景久は思う。

 母の記憶は、景久にもわずかしかない。だがこの初春の日差しのぬくもりめいた人であったような気がしている。それは午睡を貪るに丁度良い塩梅で──。


「……上! 兄上!」


 うとうとと心地よく漂う意識を引き戻したのは、ぐりぐりと脇腹に当たる小さな足裏の感触だった。

 目を開けば、腰に手を当てた初名がこちらを見下ろしている。


「一体何をなさっているのです。今日は藩学へいらっしゃるのではなかったのですか?」


 景久が「ああ」とも「うう」ともつかぬ呼気めいた声を上げると、妹は頬を膨らませた。

 更にぐいぐいと片足で兄の腹を踏む。


「お答えいただけますか、兄上。何を、なさって、いたのですっ」


 仕方がないと諦めて、景久はぐだりと身を起こした。胡座をかいて座り直し、


「この時期はな、母上の梅を見る事にしているのだよ」

「嘘をおっしゃいませ。花のない時分から、兄上はいつもここに転げていたではありませんか。そしてわたしに踏まれていたではありませんか」

「その頃は枝を見ていたのさ。花の在り処はどこなのだろうとね」

「また、そんな屁理屈ばかり」


 口では(とが)めるように言いながら、初名は景久の隣に端座した。そうして梅の花を見る。

 初名は出来た妹である。

 幼い頃から女中のよね共々、佐々木の家の台所を切り盛りしている。兄の贔屓目であろうが器量も大層に良い。今年で十四になるから、そろそろ縁談の口もある事だろう。

 世話を焼かれるばかりの兄としては良縁に恵まれてもらいたいところであるのだが、過日そのように申したところ、


「世間には順番というものがあります。兄上が早く片付いてくださらないと、わたしは行き遅れてしまいますよ」


 と声を立てて声を立てて笑われてしまった。兄の面目は丸つぶれである。


「聞けば秋月先生の道場にも、このところ顔を出してらっしゃらないそうではありませんか」


 しかもどこで聞き込んでくるものか、初名は妙に景久の行状(ぎょうじょう)に詳しい。お陰でやはり、兄の面目が丸つぶれである。


剣術(やっとう)の腕前だけで渡れる世ではもうないのだよ」


 抗弁めかしつつも心底から呟くと、「兄上」と初名は呆れ声を出した。


「そういう物言いは、実際に腕前のある方が仰るから映えるのですよ? それにならば尚の事、勉学をなさいませ」


 ぐうの音も出ぬ正論である。

 外には楚々として大人しい娘として知られる初名であるが、兄にばかりは遠慮がない。ぽんぽんと言いたいように物を言う。口では到底敵わない。

 景久は再び「ああ」とも「うう」ともつかぬ呼気めいた唸りを発して、そっぽを向くように(たい)を丸めた。


「……もうっ。兄上。あーにーうーえー!」


 その背を両手のひらで、初名はぐいぐいと揺する。

 そこへ、声がかかった。


「いつもながら、睦まじい事だ」

「おう、彦」


 察していた景久は何ともなく片手を上げて応じたが、初名は「あ!」と言ったきり、真っ赤になって固まっている。

 やがて我に返ると、恥ずかしいところを見られたと思ったのか、一礼するや奥へ逃げてしまった。

 笑ってそれを見送って、彦三郎はどっかりと手荷物と一緒に縁側へ腰を下ろした。


 彦三郎は、永代家老たる池尾(いけのお)家の三男坊である。

 池尾の家では長男次男が夭死(ようし)しており、待望の跡継ぎ息子でもあった。

 父である新之丞(しんのじょう)は文武に秀でる傑物だが、残念ながら虎の子は虎、とはいかなかった。柔和な外見と眼差しから察せられる通り、彦三郎に武芸の才はまるでない。

 よって、景久ともども剣名は振るわない。振るわぬどころか、秋月道場の末席を二人で争う有り様である。

 だが抜群に学問ができた。

 のみならず風采がよく弁が立ち、立ち振る舞いも涼やかで、年頃の娘衆から目配せされる身分であった。どうやら初名もその例に漏れぬらしく、彦三郎が来ると妙に機嫌が良い。


 勉学もぱっとせず、浮いた話に縁のない景久とは逆さまのような人物だが、どうした事か、この二人は恐ろしく馬が合った。

 幼い時分、秋月の道場で面識を得て以来、変わらぬ友誼が続いている。彼が佐々木の家にこうしてぶらりと現れるのも、日常茶飯の事であった。

 それだけに、顔色も察しやすい。


「厄介事かね」


 座ったきり語らぬ彦三郎に、居住まいを正した景久が問う。すると彼は「ああ」と短く頷いた。


「ああともだ。今日は愚痴を零しに参上したのだ」

「なら帰れ。手土産もなく話を聞いてやる親切者なぞここにいないぞ」

「だが、昼酒を好む穀潰しはいるのだろう?」


 彦三郎が持参の陶器瓶を掲げて見せた。揺すればちゃぷんと良い音がする。上等の酒が入っているに違いなかった。


「斯様なもので、いつも俺が釣れると思ってもらっては困るね」

「残念だ。では持ち帰って、地蔵にでも供えるか」

「いや、待て。待て。勿体無いにも程がある。地蔵に舌はないのだよ」


 軽口を交わしながら景久は立ち、(くりや)から猪口(ちょこ)を取って戻る。


「俺にしか言えんような腹蔵(ふくぞう)かね?」


 その片一方を渡しながら、問うた。


「ああ。実はな、景。俺は果し合いをせねばならんらしい」

「……それはまた物騒だな?」

「実に物騒だ。しかも面倒でもあってな。今俺が他家を(おとな)えば、池尾の助太刀を受けたなどとねじ込まれ、そこも波を被りかねん」

「その点、うちは問題ないのかね」

「清兵衛殿は見事だ。どの(ばつ)にも属さぬまま、実に巧みに魑魅魍魎の合間を泳ぎ抜けておられる。つまらん政治で転覆する船ではない」


 ふむ、と頷きながら、景久は得意顔をした。親父殿を褒め上げられて、誇らしくならぬ息子はない。


「それに秋月の恥かきたる俺とお前の語らいでは、な。助っ人云々と騒ぎ立てる阿呆も出るまい」

「俺では、ものの役に立たんか」

「ああ。数にも数えられんだろう。だがなればこそ、こうして赤心を吐き出せる」

「酷い口だ。お前、本当に俺の友かね」

「友だとも。だから見ろ。こうして肴の手土産もある」


 苦笑する景久の杯に、彦三郎が注いだ。受けて、景久も返杯をする。


「それなら今日の俺は地蔵だ。好きなだけ、ぶちまけていくといい」


 彦三郎が僅かに笑い、白梅を仰ぎ見た。まだ冷たい風の中を、いくつかの花びらが舞っている。

 含むようにゆっくりと酒を干し、それから彼は景久に向き直る。

 やがて、重い口が開いた。

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