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「リリス、少し座ってくれないか」
殿下がそうおっしゃったのはちょうど殿下の結婚式の始まる朝のことだった。
この国の朝は特に寒い。
流石の殿下も今は窓を開けていない。
それでも肌寒いのは、暖炉の火が弱いせいだろうか、それとも先ほどまで殿下が窓を開けておられたのかもしれない。
今日の私はいつもの制服とは違う正式な式典のための正装に身を包んでいる。
いつものひっつめ髪ではなく今日は髪結いの方に頼んだきっちりスタイル。
姫君直伝の化粧も決め込み、中々様になっているというのに私は邪魔なはずの度なし瓶底メガネを着用していた。
姫君が見れば台無しだと窓から放り投げられてしまうやもしれない。しかし、私はどうしても外すことができなかった。
「絶対泣く…」
そう、側近がおいおいと泣いていては華々しい式の妨げや、私自身の仕事の妨げになってしまう。
年々ただでさえ涙もろくなってきているのに敬愛する殿下と尊敬する姫君がご結婚なされるなんて、泣いてしまう。いや、泣かないようにするにもそんな顔は隠しておきたい、その一心で私はこの瓶底メガネを外すことができなかったのである。
私の仕事が始まる。
式典の会場に先乗りするために殿下を迎えに行き、馬車に同乗する。私はもちろん馬車の外側の席だ。
花嫁とは式までにその姿を見てしまうのはあまり良くないとされているために姫様との接触もしない移動で先乗りをしなければならない。
そして殿下の控え室でお着替えしていただき、後は時を待つ。
王族とはいえ、結婚式の流れ自体は変わらない。しかし王族だからこその警護や失態がないように細心の注意をせねばならない。
そんな慌ただしい一日が今始まろうとしていた。殿下に呼び止められたのはそんな時だった。
「リリス、側近になったときのことを覚えているかい?」
殿下は窓の外に目を向け私に語りかけた。
「もちろんでございます。」
忘れるはずもない。
国家公務員の合格発表の式典で、私は殿下にスカウトされた。あの日がなければ今の私はいない。
『僕の側近になってくれないか』
ど田舎出身の私は当時皇太子殿下のお顔を知らず、若いのに側近募集をしているとはどういう境遇の方なのかと訝しんだものだった。
しかし、早く仕事をしたかった私は二つ返事で側近となった。
花嫁修行的な部分も大きかった学校に通い続けるよりも出世に興味があったから。
「私は幸せになれると思うかい…?」
殿下がこちらを見る。
少し寂しげに笑う殿下の後ろからは朝日が射していてなんだか神々しいと思ってしまった。
「殿下でしたら、良い家庭を築けると信じております。」
「…良い家庭か、てっきり鋭いツッコミを入れられるかと思ったよ。『幸せなれるかじゃなくて姫君を幸せにできるかでしょ!』ってね。」
「そんな…結婚とは、どちらかに寄りかかって幸せにするためのものではありませんから…姫様と殿下が双方穏やかに暮らせるかどうかでございます。」
「寄りかかるね…」
「未婚ですのでわかりかねますが、支えあうとはそういうことだと存じます。」
殿下が穏やかに笑う。
私の答えに納得していただけたのだろうか。
いつもの違う雰囲気の殿下に私は少し不安を覚えた。
メガネをくい、とあげる。
「では、殿下。今馬車の確認をして参ります。準備できていればご出発ですので、そのおつもりで。」
す、と部屋を出て行く。
頭の中は今日の段取りでいっぱいだった。
かちゃり、と静かに閉められたはずのドアの音がやけに部屋に響く。
「私は君を支えたかったよ」
他に誰もいない控え室で花婿はぽつりと、呟いた。