8話
「あなた…何者?」
祈夜は警戒心を露わに店員の男を睨みつけた。
彼は初めて訪れた、名乗りもしない客の祈夜を花蘭の血族だと言い当てた。
それだけでも人間の本能として警戒するに値する発言だが、祈夜はその"眼"で彼を"視た"瞬間から、その正体を見抜いていた。
この優男が纏う生命の色は、七禾と同じ深紅――鬼の色だった。
「そう怖がらないで下さい。私は貴女に危害を加えるつもりはありませんよ。いつ店に来てくれるかと待ち遠しかったもので、こうして会えて嬉しく思っているくらいですから」
「…私を待っていたって?」
「ええ。店の場所をここにしたのもその為です。何かのきっかけで、学校帰りの貴女に会えるかと思いまして」
男の好意的な微笑みに、祈夜はぞくりと背筋を凍らせた。
己の知らない所で、己が好意を抱いている者ならいざ知らず、全く顔も名前も知らない者から目的はどうあれいつの間にか標的にされていたと知って、恐怖心を抱かないわけがない。
それは受け取り方を間違えられれば、ストーカーで通報されかねない行為だ。
とはいえ、この男の目的は単なる歪んだ恋愛感情ではないようだ。
そんなに会いたかったのなら、わざわざ店を訪れるのを待たなくても声をかければ済むのではないだろうか。
相手が『鬼』だという時点で、どんな出会い方を選んでも祈夜が警戒しないことはないのだから。
「…何が目的なの。こんなところに店を開くなんて七面倒くさいことをしなくても、私に会いたいのなら会いに来ればよかったじゃない」
「この店を開いたのは、貴女に会うためだけではないのですよ。どちらかといえば自分のためですね」
「え…?」
「私は菓子作りが好きでしてね。数十年前でしょうか。初めて人間の作る"けぇき"というものを食べた時に感銘を受けまして、菓子を作り始めるようになったのです。最近では私の作った美味しい菓子を人間が喜んで食べる姿を見ると喜びを覚えるようにもなりましてね」
「…もしかしてここのケーキ、全部あなたが作ったの?」
「ええ。全て私の自信作です。一番のおすすめは苺のものですね。菓子に合う苺を探すのにも苦労しましたし、その苺に合うクリームを作ることにもかなりの試作を重ねました。どの産地の卵を使うかで、味が微妙に変わってくるのですよ。もちろん生地に使う原料もこだわっています。これぞまさしく完成された洋菓子。姫にもぜひ味わっていただきたい」
にこにこと聞かれてもいないことを嬉しそうに語られ、何やら毒気を抜かれてしまう。
男の様子からして、この場を取り繕うためだけに嘘を吐いているわけではなさそうだ。
(最凶と謳われた鬼…が、ケーキ作り…)
泡立て器を片手に卵を泡立てる男の姿。
繊細な手つきでゴムベラで生地とメレンゲを混ぜ合わせる姿。
こんがりと焼き上がったスポンジに生クリームを丁寧にナッペしている姿。
寝かせた後のタルト生地を麺棒で平らにならしていく姿。
可愛らしく切ったフルーツを飾りつけている姿。
鬼の男が製菓に勤しむ姿を想像して、祈夜は困惑してしまった。
言葉どおり、この鬼は人間に危害を加えるつもりはないのかも知れない。
思わず警戒心が薄れてしまいそうになって、祈夜は慌てて気を引き締めた。
どんな格好でどんなことをしていようとも、この男は鬼であり、花蘭の宿敵なのだ。
それも七禾と同じく人間に近しい姿をした高位の鬼。
いつ何時本性を現して、息の根を止めてくるかわからない。
(油断は禁物ね…。このケーキにも何が入っているか…)
「フフ、怪しげなものは何も入れていませんよ。後々店の評判に関わりますからね」
「?!」
まるで心の中を読まれたようなタイミングのよさに、祈夜は弾かれたように顔を上げた。
男が目を細めてこちらを見つめている。
人間としても鬼祓いとしても未熟な祈夜の考えることなど、お見通しというわけだ。
戦う前から負けた気がして、悔しさに奥歯を噛み締める。
「まあそう怖い顔をせずに。折角ですから少し休んでいってください。紅茶と焼き菓子をご馳走しますよ。その間にご注文いただいた洋菓子をお包みいたしましょう」
男の余裕さが祈夜のプライドをちくちくと刺激してきて、祈夜は顰め面にならないように無表情を努めた。
だが祈夜の感情に男は気づいているのだろう、笑顔の合間に覗く真紅の瞳から反応を面白がっている様子が伝わってくる。
そのことに気がついた途端、更にむかむかと怒りが込み上げてきたが、祈夜はそれを押し殺すように深く長い溜め息を吐いた。
この男に正面から立ち向かっても、今の祈夜に勝ち目はない。
それならここは大人しく従うのが最良の選択だろう。
「それでは、ありがたくご相伴に与ることにします」
「是非に」
男は満面の笑みを浮かべた後、恭しく頭を垂れた。
その日から、祈夜は学校帰りにカフェ・モナルダに立ち寄ることが増えた。
当面の間、文化祭関も含めてすべての活動は17時半までとなり、生徒会の集まりがある時はモナルダで煉を待つことになった。
初めての集団下校で祈夜が学校からほぼ閉め出された状況に陥ったことに、煉はひどく責任を感じている様子だった。
『そろそろ、お迎えが来る頃ですよ』
ケーキの会計を済ませた後、カフェの隅の席で紅茶とフィナンシェをご馳走になっていると、それまで奥に引っ込んでいた男が何故か予言めいたことを言いに来た。
読みかけの本から顔を上げて外に意識を向ける。
店の窓からは煉の姿が見えず、祈夜は半信半疑で店を出た。
施錠された校門の前まで戻った時、ちょうど煉が急ぎ足でこちらに向かってくる姿が見えた。
『祈夜…!遅くなってごめん!』
門が閉まっていることに気が付いた途端、その瞳に後悔の色を滲ませて駆け寄ってきた。
祈夜が無事なことを確かめると、突然ぎゅうと抱きしめられたので咄嗟にケーキの箱を庇う。
そのクリーム色の箱を目にした煉は、不思議そうな顔をした。
『…ケーキ?』
『学校の裏にカフェを見つけて、行ってみたの。煉の分も買ったよ』
『カフェ…?そんなところあったかな?』
『去年、オープンしたばかりみたい』
『ふうん…。でも、祈夜が待てる場所があってよかったよ。今度からそのカフェで待つようにしようか』
カフェにはそれ程興味がない様子の煉は、それ以上は聞かずにケーキの箱を祈夜の手から取ると、当然のように空いたその手を握った。
もっと早く学校に戻れるはずが、駅で事件を目撃した時の話をしている男子大学生達がいて、その人達から詳しい話を聞いていたらしい。
時計を見てみると19時を過ぎていた。
モナルダで時計を見たのが18時前だったので、あれから1時間以上経っていたようだ。
思いがけなく長居をしていたことに気づいて、祈夜は複雑な気持ちになった。
時間が気にならなかったということは、それだけ居心地がよかったということだ。
それも両親や祖父母、一族の仇である鬼がすぐ傍にいるという状況で、だ。
言葉通り彼は祈夜に紅茶と焼き菓子の代金を求めず、また来て欲しいと笑顔を見せた。
淹れてくれた温かいアッサムも、アーモンドがたっぷり練り込まれたフィナンシェもとても美味しかった。
そのこともまた、鬼に借りを作ったような、負けたような気がして落ち着かない心地になる。
「今日は試作の甘味をご馳走しますよ。余ったフルーツを使って、色々と試しているところでしてね」
そう言って、鬼の男――藤懸は、もはや定位置となった隅の席に腰かけた祈夜のテーブルの前に小ぶりのワイングラスを差し出した。
グラスの中はカスタードクリームや生クリーム、スポンジ、フルーツの層が幾重にもなり、一番上は一口大にカットされたフルーツで彩られていた。
「所謂"ふーどろす"というやつです。姫にぜひ感想を聞かせていただきたい」
「……その、姫っていうのはやめてくれない?」
「おや、姫と呼ばれるのはお嫌でしたか」
「そもそも私はお姫様なんかではないし、貴方にそう呼ばれると嫌味に感じるの」
「嫌味のつもりはありませんでしたが…そうですね、ひ…貴女が嫌なことはしたくありません」
「ありがとう。普通に名前で呼んでもらって構わないから」
「では、今後は"お嬢"と呼ばせていただきますね」
「なんで?! そこは祈夜でいいじゃない。人の話聞いてた?」
思わず勢いよく突っ込むと、藤懸は相変わらず愉快そうに笑っている。
「女性を敬って呼ぶ時には"お嬢"と呼ぶのだそうですね。私が好んで見ている必殺坊々将軍、鬼太郎犯科帳では、女性のことをそう呼んでいますよ」
「こっちは時代劇…」
ある日のデジャブを感じて、祈夜は額に手を当てた。
七禾もお笑い番組に影響を受けていて、時々ほのかと楽しそうに漫才ごっこをしている。
長らく人間と関わりのなかった鬼には、テレビというものが珍しく、映像で見る娯楽がとても新鮮で面白いらしい。
藤懸も七禾と同じ感覚なのだろう。
けれど彼の好む時代劇では、甘味はケーキというより饅頭だろうし、飲み物も紅茶より緑茶、カフェより茶屋かと思うのだが、いったいどこから影響を受けたのだろう。
知りたいと思うものの、これ以上鬼に気を許したくない、親しくなりたくないという鬼祓いの矜持が好奇心をねじ伏せる。
「ああでも…おりく、と呼ばれる女性もいましたね。お嬢がお気に召さないようでしたら"お祈夜"はいかがですか?」
「お嬢でいいわ」
ふむ…と思案顔で提案した男の言葉に被せるように、祈夜は即答した。
おきよと呼ばれるくらいなら、お嬢の方が断然ましである。
姫でもお嬢でも、どちらも人に聞かれたら振り向かれることは間違いなしだが、藤懸と2人で外を歩くことなどないので、まあいいか、と諦めた祈夜だった。
祈夜がモナルダで放課後を過ごした分だけ、文化祭の準備も進んでいった。
祈夜のクラスの出し物はコスプレ喫茶。
喫茶で提供する飲み物の種類や、教室内のレイアウト、コスプレ衣装、出し物担当の役割分担などなど、話し合うことはたくさんあった。
祈夜の衣装は、本物だから!非売品だから!と特別感をアピールして涼香を説得したおかげで、花宵神社の巫女装束で落ち着いた。
煉の母親の鎭子さんにも許可を得ている。
ただし貸し出してもらうのは緋袴だけで、上の白衣や肌着、草履は自分のものだ。
髪を結う丈長も自分で作ったものなのだが、そのことは敢えて言わないでおく。
祈夜の担当は涼香や他数名と共に内装で使うお花紙やテーブルクロス、メニュー表などの雑貨の制作と、当日の給仕(1時間の交代制)になった。
生徒会の仕事もあるため作業の途中で抜けてしまうこともあって、他の生徒からは非難の目を向けられたり、実際に祈夜のいないところで批判する声が上がっていたらしい。
だが涼香がその場を収めてくれたようで、後になって他の生徒達の噂話で知った祈夜は、落ち着いたら涼香にお礼をしようと心に決めた。
生徒会も活動が制限されてしまい忙しそうで、メンバーは焦りからか日に日に顔が険しくなっていた。
祈夜に任せられることは掲示物の張り出しや、各委員会の進捗状況を確認しに行ったり、印刷機でひたすらにプリントを印刷するなど1人でできる仕事ばかりだったので、忙殺されることはなかったがメンバーと一緒に生徒会室で何か作業をすることもなかった。
その日も、印刷機から吐き出される紙を眺め、カチャン、カチャンと規則的に響く音を聞きながら、インクの香りのする部屋で独りぼうっとしていた。
今、祈夜の頭の中では、一仕事を終えて生徒会室の前まで戻ってきた時に、部屋の中から聞こえてきた言葉が繰り返し再生されていた。
「満井君の代わり、ぶっちゃけ花蘭さんじゃなくてもできたよね」
「まあ…庶務員の代わりだしね」
「あの『私はお手伝いで来てます』感がどうかと思うんだよね。 言われたことしかやらないし。もっと考えて動ける人いるよね?」
「んー…俺らは実際にお手伝いしてもらってる立場だし…」
「花蘭さんが煉先輩に頼んだって聞いたし、自分からやりたがったんならもっと積極的にやってもいいよね」
「ふーん…自分からやりたがるタイプではなさそうだけどね~」
「私らの前ではそうかもよ。この前、煉先輩が『お前はここで待ってろ』って、結構強い言い方してたじゃん。実はかなりの我儘なのかもよ」
「確かにあの時はビビったな~。副会長ってこんな言い方もするんだ?!と思ったもんね」
「煉先輩にあんな言い方させるなんて、普段から我儘言いまくってるんだよ」
声の主は、マナと悠星だった。
その場には他にまどかと晴菜がいると気配で感じ取れたが、彼女たちは口を噤んでいる。
煉と桃子は席を外しているようで、だからこそ祈夜のことが話題に上ったのだろう。
自分のいないところで、生徒会の面々からも非難の声が上がっているとは思いもしなかった祈夜は、それがサボりと指摘されそうだとは思ったものの、すぐにドアを開けられなかった。
それでも長い時間戻らないのは変なので、適当なところで部屋に入ると、話し声はピタリと止んだ。
悠星の気まずげな視線と、少しは仲良くなれたと思っていたまどかと晴菜のよそよそしい雰囲気、そして無視を決め込んだらしいマナから滲み出る敵意がひしひしと感じられた。
(私…が、生徒会の空気を乱しているんだろうな…。手伝いに来たのが私じゃなかったらきっと、もっと和やかに、わきあいあいと作業していたんだろうな…。クラスの皆だって、私が抜けるから負担が増えるとか、私はほとんど何もしないって話しているみたいだし…。もしかしたら涼香も心のどこかでそう思っているかも知れないな…)
そんなことを考えると、底なし沼に落ちたように、どこまでも気持ちが沈んでいく。
誰を信じて、誰と関わっていけばいいのかわからなくなる。
信じられるのは、煉と、自分を育ててくれた樫月家の人達と、そしてほのかと、七禾と…――!。
咄嗟に脳裏に浮かんだ鬼達の顔に胸が苦しくなって、祈夜は思わずその場にしゃがみ込んだ。
(なに、馬鹿なこと考えてるの?! 七禾は鬼よ!! 私の大好きな家族を殺した鬼! 花蘭の仇…!)
心を許してはいけない、復讐の対象である鬼のはずなのに、祈夜はいつの間にか七禾に気を許し、家族として受け入れてしまっていた。
その上、七禾の次に挙げようとした人物の名前を思うと、息苦しさに涙が出そうになる。
モナルダの藤懸。
あの男も鬼だ。
祈夜の、一族の仇だ。
でも、彼も七禾もありのままの祈夜を見てくれる。
ありのままの祈夜を受け入れて、愛されていると勘違いしそうな程の愛情をくれる。
一緒にいても、マナや他の生徒会の面々とは違う。
気を張ることもなく、自然体の自分でいられる。
同じ人間と過ごす時間よりも鬼と過ごす時間の方が、心は凪いで居心地が良い。
(私は…! 私は鬼を殲滅しなくちゃいけない…! いつかは七禾や藤懸とも戦わなくちゃいけない…! ほのかを本当の家族のもとに返さなきゃいけない…! でも、煉は……煉は七禾が好きだから、七禾を倒したら煉が敵になるかも知れない…。煉も私の傍を離れたら……、わたし……わたし、は…)
ぐるぐると思考の渦に吞み込まれた祈夜は、印刷機が止まったことには気が付かず、頭上からチャイムの音が鳴り響くまでずっと蹲っていた。