7話
祈夜の嫌な予感は少しずつ現実になった。
あれから1週間後、クラスの出し物も決まり文化祭まで残り1ヶ月となったその日の朝、食事を終えてリビングで登校の支度をしていると、テレビから緊急速報を知らせる音が流れてきた。
アナウンサーの緊迫した声に、体が凍りつく。
『先程、午前7時25分頃、鬼灯駅付近で傷害事件が発生しました。被害者は十数名に上ると見られます――』
鬼灯駅は祈夜の家からバスで10分程先にある最寄りの駅だ。
目撃情報によれば、ホームで電車を待っていた高校生、それも女子生徒だけが、電車を降りてきた何者かに刃物で次々と切りつけられたという。
犯人は混雑に紛れて逃走。現場となったホームと電車の乗降口は血で赤く染まり、被害者の中には意識を失うほどの重傷を負った生徒もいるらしい。
祈夜はテレビ画面に映された事件現場からの中継映像を食い入るように見つめた。
もしこれが鬼の仕業なら、何か証拠になるものが“視える”かも知れない。
だが残念なことに、祈夜の目には怪しいと思うようなものは何も映らなかった。
ふと隣を見やれば、たまたま早く迎えに来ていた煉がテレビに向かって険しい顔をしていた。
「煉は、どう思う?」
尋ねると、彼はうーん、と思案顔をした。
「どうだろうな。今の段階ではまだ断定はできないね」
煉は祈夜の質問の意図をしっかり汲み取ったようだった。
この傷害事件は明らかに人間業ではなく、鬼が関わっている可能性が非常に高い。
それは祈夜も煉も先日起こった事件から既に感じ取っていて、祈夜は暗に「鬼の仕業だと思うか?」と煉に問うたのだ。
「まぁ…今度はこの近くじゃありませんか」
台所から穏やかではない声を聞き付けた七禾が、ニュースを目にして口元を両手で覆った。
その声は悲壮感に満ち、瞳は不安げに揺れている。
「今日は学校をお休みした方が良いのではないですか?」
「駅を利用するわけではないので、僕達はまだ大丈夫ですよ。でもほのかは休ませてもらえますか? 七禾さんに1人で外を歩かせるわけにはいかないし、迎えに行って帰る途中に万が一のことがあっても困りますから…」
「ありがとうございます。でも私のことならお気になさらないで下さい。私よりも祈夜さんの方が心配ですわ」
「私…?」
思いがけなく名前が話題に上り、祈夜は数回瞬きをした。
「先日から女子高生ばかりが狙われているようですもの。私やほのかさんよりも、祈夜さんが狙われる可能性の方がとても高いと思います」
「それはな…」
「ええ、僕もそう思ってはいます」
それはない、と否定しようとした祈夜の言葉は煉に掻き消された。
「犯人は制服姿の女の子ばかりを襲っていますから、祈夜が襲われないという確証はありません。ですが今は普段通りに生活する方が寧ろ安全だと思います。これまでの事件は駅で起こっていますし、わざわざ学校という逃げ場の少ない閉鎖的な空間に来るとは思えません」
「そうでしょうか…。この犯人はあえて見つかりやすい駅という場所で、人が最も多く利用する朝の時間帯に事件を起こしています。どうやら襲う相手も制服姿の女性であれば無差別のようですし、学校へ来ないとは言い切れないのではないですか?」
「…そうですね。それも考えられないことではないですが、鬼灯駅周辺には他にも学校がいくつかあります。僕達の通う学校は駅から離れたところにありますし、犯人が標的にするには時間があります。それにもし万が一のことがあっても、祈夜の傍には僕がいますから」
心配いらないと自信に満ちた笑顔を見せる煉に、七禾はようやく安堵の表情を見せた。
話題の中心にいるはずなのに、祈夜はすっかり蚊帳の外だ。
まるでいつかのデジャヴのような状況で、祈夜はひっそりと溜め息を吐いた。
(煉に守ってもらうほど、弱くないんだけど…)
口には出せない本音が心の泉に落ちる。
彼に守られる状況に陥ることは、できるなら一生なくていいと思うくらいに不満で不愉快なことだ。
だが不思議と、嫌ではない。
複雑な思いを巡らせる祈夜は、宥めるように頭を撫でてくる煉の手のひらを振り払えなかった。
事件の影響で、高校は臨時休校にならないまでも集団下校が必須となった。
生徒会では篠﨑が同じ方面のまどかと晴菜を家の近くまで送り、駅を利用する桃子とマナは煉が駅まで送り届けることに決まった。
樫月の屋敷は祈夜の住む家と同じく、駅とも篠﨑達の家とも反対の方向にあるのだが、あいにくと今の生徒会メンバーの男性は煉と篠﨑の2人しかいない。
鬼が絡んでいる可能性がある以上、煉が学校と駅を往復することになった。
そして必然的に溢れてしまった祈夜はというと、桃子とマナを送り届けて引き返してきた煉を学校で待つ、ということになった。
祈夜はどうせ一緒に帰るのだから煉と行動すると提案したのだが、彼は「お前は学校で待っているんだ。いいね。」と有無を言わせない口調で却下した(それを見ていた他の生徒会メンバー達は驚いていた)。
これも祈夜にとっては不満だったが、庇護モードに入った煉には逆らえない。
祈夜はしぶしぶ図書室で本を読みながら待とうと決めたが、当然図書室も下校時間に合わせて閉館することになり、煉が戻ってくる前に退出しなければならなくなった。
(体育館も早く閉まっちゃったから体力づくりはできないし…。かといって教室で呪符を書くわけにも…)
廊下の窓から所在無げに校庭を眺めながら、時間の潰し方をぼんやりと考える。
あの惨劇で鬼は全滅したと聞かされてはいたが、祈夜はずっと鬼祓いとしての鍛練を続けていた。
呪符作りもその一つだ。
自分が一人生き残ったように、鬼族にも生き延びた者がいて密かに復讐の機会を伺っているかも知れない。
そう考えると何もせずにいることはできなかった。
幼くて記憶も朧気とはいえ、祈夜だって大切な家族や仲間を殺されているのだ。
その悔しさや憎しみを忘れて平和な生活に染まり、いざその時がきたら何もできずに死ぬ。
それだけは誇り高き花蘭の血を継ぐ者として、決して迎えたくない憐れな末路だ。
死んだ家族や先祖にも顔向けできない。
そして今、七禾が現れ、鬼の残党が動き出しているかも知れない状況で、こうして何もできないまま過ごす時間は非常にもどかしくもあった。
(何かもっと、できることを考えないと…)
焦燥感を抱きながら、ほとんど人気のなくなった校内を歩き回る。
だが間もなくして守衛のおじさんに出くわしてしまい、早く下校するようにと注意を受けてしまった。
事情を説明して待たせてもらうこともできたが、職員室へ行くのも説明するのも億劫に感じて、仕方なく校舎の周りをぐるりと散策することにした。
校舎の裏側にあるグランドやテニスコート、いくつか並んだプレハブ倉庫を眺めながら、ゆっくりと歩みを進める。
けれど思ったよりも時間は進まず、あっという間に校庭に戻ってきてしまった。
(駅までは歩いて15分くらいで…すぐ引き返したとしても最低30分はかかるよね。あと何周すれば煉は戻ってくるのかな…)
時計の針を見つめて溜め息を溢したその時、どこからかカランカラン…と小さな鐘の音が聞こえた。
ふとフェンスの向こうに視線を向けると、校舎から道路を挟んで向かい側にあるマンションの1階に、木目調のドアが見えた。
ドアの上には「Café Monarda」と書かれた大きな看板がある。
半透明のガラスブロック窓にはパールイエローのバルーンカーテンがかかり、いかにも女性受けしそうな外観だった。
中の様子は窺えないが、清潔感があって雰囲気もよさそうに思えた。
(あんなところにカフェなんてあったんだ…)
新たな発見に胸が踊る。
校舎周りを眺めるのもうんざりしていた祈夜は、ほとんど躊躇いなく校門の外へ出た。
煉に怒られるよりも、退屈の方がよほど堪える。
恐る恐るドアを開けてみると、最初に目に飛び込んできたのは宝石のようなケーキが並んだショーケースだった。
魅入られるようにそっと中へ足を踏み入れる。
壁側の棚には篭に入った焼き菓子が並び、蔦の葉で装飾されていてなんともお洒落だ。
明るい色の造花や青々とした観葉植物が所々に置かれている。
カーテンが見えたところはカフェスペースのようで、欧風の椅子やテーブルに小花柄の青いテーブルクロスが映えていた。
頭上から微かに流れる穏やかなピアノ曲が耳に心地良い。
「いらっしゃいませ」
店内をきょろきょろと見回していると、いつの間にかショーケース越しに人影があった。
気配に気づかなかったことに驚きながらも声の主に視線を向けたその瞬間、祈夜は反射的に全身を強張らせた。
声をかけてきた店員と思わしき男性は、店の制服だろうか、白いシャツに黒のエプロンをつけている。
髪型は西洋の映画に出てくる執事のような完璧なオールバックで、客を迎え入れる微笑みは非常に紳士的に見える。
「ああ、驚かせてしまいましたね。どうぞ、もっとお近くでご覧下さい」
入り口付近で立ち尽くしていた祈夜を、ショーケースの方へと促す。
容姿も声も所作も、全てが整った男だった。
どくりどくりと心臓が早鐘を打つ。
祈夜は動揺を隠して、何気ない顔でケーキを覗き込んだ。
先程までは輝いて見えたケーキ達が、男の登場で輝きが半減してしまったように見える。
とにかく、まずは何か頼まなくては。
ケーキは上段にタルトが、下段に定番のケーキが並べられていた。
どうやらタルトを推しているお店らしい。
苺や洋梨などの果物と、チーズやチョコレートのタルトもあって、どれも気になる。
どうせなら、ほのかや七禾の分も買おう。
「ええと…タルトブルダルーを1つと、タルトフレーズ、タルトタタン、タルトフュルイを1つずつ」
「…ほう。姫はフルーツ系がお好きですか」
「…!」
突然口調が変わった男を振り仰ぐ。
さっき見た時と変わらない笑顔があって、祈夜の鉄壁の無表情が崩れた。
「ひめ、って…」
「もちろん、貴女のことですよ。花蘭の姫」