4話
翌日、帰りのホームルームを終えてすぐに生徒会室へ向かうと、既に生徒が一人座っていた。
祈夜がドアを開いた音で振り返ったその手には食べかけの菓子パンらしきものが見える。
口いっぱいにパンを頬張っていた女子生徒は、祈夜に気がつくと慌てたように高速で咀嚼し始めた。
「あの、気にせずゆっくり食べて…」
咽つまりを心配して声をかけたが、時既に遅かった。
彼女は己の胸をどんどんと叩きながら苦しそうな声を上げ始め、間もなくして牛乳パックの中身を勢い良く吸い込んだ。
「はぁっ!あ…危なかった…!」
「ごめんなさい、驚かせたみたいで」
「あ、いいの!こっちこそごめん!花蘭さんだよね?」
「はい」
「私は竹内マナ。会計やってるんだ。同級生だし、敬語はなしにしようよ」
にかっと爽やかな笑顔を向けられて、祈夜の緊張した頬が少し緩んだ。
「ありがとう」
「みんなそろそろ来るはずなんだけど。昨日は私以外みんな来てた?」
「ううん、会長さんも風邪でお休みでし…だったよ」
「でしだったよ」
マナがすかさず揚げ足を取ってからかう。
少し恥ずかしくなって、「お休み、だったよ」と言い直したが、「風邪かぁ、大丈夫かなー会長」とスルーされてしまった。
どうやら竹内マナという女の子はマイペースな性格らしい。
「あのさ、花蘭さんて自分から代理に立候補したの?」
「? いえ、先生に頼まれて…」
「ふーん。本当は煉先輩がいるからなんじゃないの?」
「え…?」
思いがけない言葉に驚いて目を丸くすると、マナは意外そうな顔をした。
「違うの?」
「考えたこともないけど…どうして?」
「いや、どうしてはこっちの台詞だよ。付き合ってるんじゃないの?」
「?! 付き合ってない!」
「うそでしょ?」
「本当に!」
「信じらんないなー」
「本当に違うの!血の繋がらない親戚みたいなもので!」
「へー。でも結構噂になってるよ?」
「うわさ?!」
「え、知らなかったの?」
驚愕を隠せないまま、こくりと頷く。
昨日煉は何も言っていなかったし、涼香が茶化しているだけだと思っていた。
「マジか~。だったら誤解されないようにしたら?」
「誤解って言われても…」
「まぁ自覚がないんだからわかんないよね。まずは呼び方変えるとかさ。先輩を呼び捨てにしてると結構目立つし、名字で呼んだらいいんじゃない?樫月先輩って」
「樫月…先輩」
いまだかつて口にしたことのない音の響きに戸惑う。
「みんなそう呼んでるし、その方が自然だよ」
今更畏まるのも気恥ずかしいが、そうすることがみんなにとって"自然"で、噂がなくなるならした方がいいに決まっている。
呼び方を変えることに抵抗感を覚えながらも、祈夜はマナの提案に頷いた。
今日祈夜に与えられた仕事は、過去の文化祭資料のまとめと整理だった。
とはいっても一昨年までの分はまとめられているので、その資料を基に去年の資料を付け足せばいいだけだった。
会計の円藤まどかと、書記の篠﨑悠星(ユウセイ)から説明を受けながら、1年生庶務の安部晴菜(ハルナ)と2人でデータを入力していく。
「よーし、オッケー。じゃあこれ印刷して、まとめて副会長に渡してくれる?」
まどかと悠星にそれぞれ内容をチェックしてもらうと、悠星がそんな指示を出した。
副会長、の言葉に内心ドキリとする。
いまだかつて煉には抱いたことのない、後ろめたいようなばつが悪いような、恥ずかしいような、そんな感覚が生まれる。
祈夜はいつも通りの調子で「わかりました」と返事をしたが、心臓は緊張でバクバクしていた。
印刷のボタンをクリックして、情報を受け取ったプリンターが動き出したのを合図に立ち上がる。
間もなくして音は止んだが、祈夜はプリンターの前から動かなかった。
しばし逡巡して、意を決して顔を上げる。
どうかしたのかと声をかけようとしていた3人は、祈夜が振り返ったので言葉を飲み込み、不安げに目配せした。
その表情は硬く、何やらただならぬオーラを放っている。
「…あの」
「ん?」
マナと何やら立ち話をしている煉の背中に声をかける。
煉に声をかけるのがこんなに怖いなんて。
感じたことのない気持ちに戸惑いながらもなんとか声を出すと、何も知らない彼はいつも通りの自然さで振り返った。
(おかしい…この違和感はなに)
煉と目が合った途端、頭が真っ白になる。
(ええと、何を言うんだっけ。煉…じゃなくて、かしづき、かしづき…)
視線を逸らさずに見つめ合いながら、必死で頭の中で言葉を組み立てる。
煉は不思議そうに祈夜の様子を見ている。
明らかに態度がおかしいのはわかっていたが、取り繕う余裕はなかった。
「か、樫月先輩!これ終わりました!!」
緊張と羞恥心から予想以上に勢いがついて、けんか腰になってしまった。
印刷したばかりで皺のなかったプリントも、煉の腕に当たってくしゃりと折れている。
煉は目を見開いて固まっているし、祈夜の後ろ姿を見守っていた3人も、提案したマナですら驚いた顔をした。
生徒会室全体に奇妙な空気が流れたが、それはすぐに壊された。
煉が堪えきれずに吹き出して、声を上げて笑い出したのだ。
ハッと顔を上げてみれば、声のボリュームは抑えているものの、その肩は隠せないほどに大きく震えている。
一気に恥ずかしくなって、祈夜は自分でも顔が赤くなるのがわかった。
「わ、笑わないで…!」
「っはは、ごめん…っぶふ、あははは…!」
「そんなに笑うこと?!」
「だって、その呼び方っ初めてだろ?樫月先輩って、ぶふふ!びっくりして、さ。ハハハ…ッ」
どうやら祈夜の「樫月先輩」呼びは煉の笑いのツボに入ったようで、やりとりの間にも笑い声を漏らしている。
なんとなく面白くなくなって、むっとした顔をすると、煉はようやく笑うのをやめた。
「ハハハ、あー面白かった」
「…どういたしまして」
「ごめんってば。怒らないでよ。プリントありがとう、花蘭さん」
不意打ちのカウンターに、今度は祈夜が瞠目して固まる。
煉が初めてだったように、祈夜もまた彼に「花蘭」と呼ばれるのは初めてだった。
違和感と一緒に感じたのは、胸の小さな痛み。
(あれ…)
どうしてだろう。
煉の目はいつも通り穏やかで優しいのに、突き放されたような心地がする。
「はい…」
半分上の空で返事をしたせいで、思いの外小さな声になってしまった。
「…なんて。冗談だよ」
そんな祈夜の気持ちを察したのだろうか、煉の言葉に顔を上げると、彼はどこか寂しそうに微笑っていた。
「名字で呼ばれるのもたまには悪くないけど、やっぱり名前の方がいいな。僕も祈夜って呼びたいし、いつも通り名前で呼んでよ」
それは祈夜にとって、とてもありがたくて嬉しい申し出だった。
けれど、すぐ首を縦に振れない理由もある。
「でも、噂になってるみたいだから…」
――誤解されないようにしたら?
マナの声がまだ耳に残っている。
誤解されたくないなら、誤解されるような行動をしなければ良い。
その通りだと思うし、そうしなければいけない気がする。
だけど本当は、祈夜も煉と同じ気持ちだった。
できるなら今まで通り、煉には名前で呼ばれたい。
「花蘭さん」と呼ばれた時、断片的に残っている幼い頃の記憶が脳裏に過ぎって、あの頃の孤独感が呼び覚まされたような心地がした。
傍にいるのに心がとても遠くにいってしまって、世界に1人取り残されたような心地がしていた、モノトーンの6年間。
何もかも色褪せて見えていた。
どんな音も聞こえにくくて、時々鋭くなって胸に突き刺さった。
さみしい。かなしい。
こわい。くるしい。
どうして。きえたい。
そんなことを、毎日毎日繰り返し考えていた。
誰も答えをくれないし、誰も手を差し伸べてくれない。
ただただ生きながら、命の終わりを待っていた。
あの頃にはもう――戻りたくない。
そう思うのに、視線はいつの間にか下がり、瞳は光をなくしていく。
鳶色の目は影を帯びて、暗く深い、深い色へ――。
「…そうだね、噂になってるね」
真剣な、それでいて柔らかさのある声が頭上から聞こえて、ハッと意識を浮上させる。
祈夜のこころの中にある暗く冷たい箱の蓋が少し開かれて、その隙間から淡い光が差し込んだ。
「僕達のことをあまりよく知らない人は、勘違いするかも知れない。だけど、噂するのは自由だし、そんなこと気にしなくてもいいんだよ」
その光は大きくなって、箱の中を煌々と照らし出していく。
温かい風が流れ込んできて、箱は次第に角をなくし、四方の壁も脆くなって崩れ始めた。
――うん。と、頷きたい。
でも、今ここで頷くことはできない。
煉の後ろには噂を信じていたマナがいる。
呼び方を変えたらと提案してきたのは彼女なのだ。
それにきっと自分が知らないだけで、煉との関係が気になっている人や誤解している人はたくさんいるに違いない。
祈夜自身はどんな誤解をされても問題ないが、自分以外の誰かも関わってくるとなると話は別だ。
他の人に、特に煉に迷惑をかけるようなことはできる限りしたくない。
でもこの気持ちを伝える上手い言葉が見つからない。
無言で目を伏せて首を振ると、何かを察した煉は目を細めた。
「わかった。祈夜が気になるんなら、みんなに聞いてみよう」
はっとして煉を見上げたが、彼は祈夜の返事を待たずに周りに声をかけていた。
「ねえ、僕達が名前で呼び合うのって気になる?」
「ちょ…」
制止の声は言葉にならずに消えてしまう。
困惑する祈夜を余所に、煉はふっと口元に笑みを浮かべた。
勘づかれたのだと気がついたが、もう遅い。
焦った祈夜は何か弁明しなくてはと口を開くが、その前に意外な答えが後ろから聞こえてきた。
「俺は正直、呼び方とかあんま気にしないですけどね」
答えたのは悠星だった。
「全く気にならないって言ったら嘘になりますけど。ずっとそうしてきたならわざわざ変えなくてもいいんじゃないですか?俺も名前で呼ぶ女子はいますし」
予想外の返事に驚いて振り返ると、まどかも悠星をフォローする。
「そうね。篠﨑君は私のこと名前で呼ぶもんね」
にっこりと貼り付けたような笑顔を見せるまどかに、悠星はなぜか苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「私は気になっていたけど、言われてみたらそんなに気になることじゃなかったかも。変えたら逆に違和感がある…かな。さっき喧嘩してるのかなって思っちゃいました」
まどかの言葉|(喧嘩しているのかな)も予想外で、祈夜はどう反応して良いのか益々混乱する。
その横で笑い声が上がったので、驚いてびくりと体が震えた。
「あはは、喧嘩!そうだよな。僕もいきなり畏まって呼ばれたから、一瞬なんかしたかな…って思っちゃったよ」
可笑しそうに笑う煉の手が祈夜の頭に伸びる。
ぽん、と頭の上に手を乗せられて、反射的に振り返ると、彼は穏やかに微笑っていた。
「ね? 無理して呼び方を変える必要はないよ」
「…うん」
「お前は色んなこと考えすぎなんだよ。もっと我儘でいいんだから、ね?」
少し腰を屈めて祈夜の瞳を覗き込みながら、幼い子どもをあやすように何度も優しく頭を撫でる。
名前を呼び合うよりも遙かに気になる上に誤解を招く行動に、納得しかけていた周りの視線が揺らぎ始めた。
室内に新たな動揺が走る中、早くも耐性が付いたらしい悠星は煉に呆れたような目を向けた。
「むしろ気になるのはそっちですよ、副会長ぉ~」
「何のこと?」
煉が不思議そうな顔で答える。
「またまたぁ、わかってるクセに。スキンシップですよ。副会長、祈夜ちゃんにスキンシップ多くないですか?」
全員の視線が煉に集中する。彼は今気付いたと言わんばかりに「あぁ」とわざとらしく(祈夜にはそう聞こえた)声を上げた。
「つい癖でね。見たら撫でたくなって」
「犬猫じゃないんですから」
「そういうんじゃないよ。兄妹みたいな感じなんだけど…うまく言えないな。とにかく可愛くて仕方ないんだよね」
「かわっ?! そういうこと笑顔でサラッと…!恥ずかしくないんですか?」
「恥ずかしい?全然?」
「うわー!これほんまもんの天然タラシですわー」
悠星の反応に、誰かが小声で突っ込む「なぜそこで訛る」。
「タラシではないと思うけど…」
「いやいや、そんなこと言われたら大抵の女の子はドキっとしちゃいますよ。副会長、顔はいいんですから」
「それ褒めてるの?」
「あんまりそういうことばっかしてると、女の子に敵作りますよ」
「さすが、経験者は言うことに重みがあるね」
「ちがっ…!経験してませんから!! 祈夜ちゃんが誤解しちゃうって言ってるんです!」
「はは。心配してくれるのはありがたいけど、それはないよ。それに僕のは、目に入れても痛くないって感じだし」
「孫可愛がるじいさんかい!」
「あーそうそう、それに似てるよ」
始終ほのぼのした雰囲気で答える煉のペースに呑まれて、悠星の突っ込みは徐々に失速していく。
それを待っていたかのように、今度は煉が切り込みにかかる。
「そういえば篠﨑、いつから祈夜のこと"祈夜ちゃん"って呼ぶようになったの?昨日は名字にさん付けだったよね?」
予想外の質問だったのだろう、悠星は完全に勢いを失くして、たどたどしくなった。
まるで彼女の父親に詰問される彼氏のようだと、誰かが思った。
「あー特に理由はないんですけど。名字にさん付けだと、俺の性格的に違和感あるな~と思って」
ハハハ…となぜか誤魔化すように笑う彼に、煉も笑顔で返す。
「そう。それならいいけど、親しくなるのは呼び方だけにしなよ。変な真似したら許さないからな」
「怖っ!目が笑ってないです! ――って祈夜ちゃん冷静すぎでしょ!」
突然話を振られて、祈夜はきょとんとする。
悠星との会話中ずっと煉に頭を撫でられていたが、拒絶することも恥じらうこともなく、されるがままになっていた。
「少しは動揺しようよ!」
「動揺…? どうして?」
「どうしてって…撫でられてるんだよ、頭を!何とも思わないの?」
「何とも…。思わないです、けど…」
「?!」
「ほら、言っただろ。祈夜は誤解なんてしないよ」
「なんで?! おかしい!おかしいですよ!!」
動揺しろと言っている本人が動揺して声を荒げる。
「花蘭さん、本当に照れたりとか…しないんですか?」
頭を抱えて取り乱した悠星に代わって、今度は晴菜が再確認するように聞き直してくる。
「照れる…? 私が、煉に?」
祈夜は今まで聞かれたことも考えたこともないことを聞かれて、いまいち理解できずに首を傾げる。
不思議そうに聞き返された晴菜はたじろいだ。
「まさか、これって普通なんですか…?」
「普通…ですね。煉が過保護なのは昔からです」
「過保護」
何故か驚いた様子で言葉を繰り返す彼女の反応を怪訝に思いながらも、祈夜は頷く。
隣では何が可笑しいのか、煉がくすくす笑っている。
「何笑ってんですか、副会長」
さっきの反撃とばかりに、悠星が痛いところをつついた(と思った)。
だが煉は動揺もせず、いつもの、にこにこと人の良さそうな笑顔で
「いや、嬉しいなと思って」
と答えたので、彼は漸く自分の敗北を認めた。
「過保護ってことは、僕の愛情が伝わってるってことだからさ」
「あーそうですか。副会長が親バカだってことがよくわかりました」
「はは、親バカね。まあそういうことにしておいてよ」
煉は悠星の嫌味をさらりとかわし、これまでのやりとりを聞いていた面々に爽やかに笑いかけた。
「そういうわけだから、よろしくね」
もちろん、自分の後ろにいるマナにも振り返って、無言で念押しする。
マナは複雑な感情を隠しきれずに、それでも頷いて、曖昧に笑い返した。