3話
「まぁ、生と怪、ですか」
午後6時半過ぎ。
呟くように七禾が言った台詞に、祈夜はちょうど飲み込もうとしていた里芋の煮っ転がしを咽に詰まらせて咳き込んだ。
5分程前、みんなで声を揃えて「いただきます」をした後、初めはほのかの小学校の話をしていた。
「学校はどうだった?」
と、向かいに座るほのかに聞いてみると、彼女は期待通りに目をキラキラさせて答えてくれた。
「楽しかったです!たくさん友達ができました!」
「そっか、よかったね。友達たくさんできて嬉しいね」
「はい!ゆうこちゃんと、えりなちゃんと、ゆうとくんとりゅうとくんと、まことくんとれいかちゃんとしおりちゃんとこうへいくんと、きょうすけくんとゆみちゃんとひびきくんと…」
「……」
「…つぐみちゃんと、お友達になりました!」
(ク、クラスメイト全員…?)
「すごいなほのか!お友達の名前みんな覚えたんだね」
「はいです!」
脅威の記憶力に呆気に取られてしまったのは祈夜だけで、他の聴者は当然のように受け入れたようだ。
「流石はほのかさんですわ。そんなにお友達を作るなんて、母は誇らしいです」
「えへへ…」
目尻を下げる母と褒められて嬉しそうに笑う娘の姿は、本物の親子のように見える。
数週間一緒に暮らして、初めこそ疑う気持ちが強かったが、こんな風に仲睦まじいやりとりを毎日見ているとこの2人が偽りの関係だとは信じ難くなってきた。
「祈夜さんはどうでしたか?」
「えっ?」
「今日は学校で何かありましたか?」
祈夜の複雑な心境を知ってか知らずか、珍しくそんなことを聞いてくるものだから、すぐに返答ができず固まってしまった。
――何かあったかと聞きたくなるような顔をしてしまっていたのだろうか。
――それとも話の流れで何気なく聞いてみただけなのだろうか?
七禾の意図がどちらなのか図りかねて、何と答えようか目をぱちぱちさせていると煉が助け船を出した。
「祈夜は今日から生徒会の手伝いをすることになったんですよ」
そうしてそれを聞いた七禾の反応が、さっきの台詞だった。
七禾の向かいに座った煉は、怪訝な顔をする彼女の様子を見て可笑しそうに笑っている。
煉は宿泊さえしないものの、この家で夕飯を食べることは特段珍しくなかった。
「イントネーションが違いますよ、七禾さん」
「わたくし、そのような言葉は初めて聞きますわ」
「"生徒会"。その学校に通う生徒達で、学校のために色んな活動をする組織のことです」
「組織…レジスタンスのことですか?」
「なんでその言葉は知ってるの」
首を傾げた七禾に、祈夜は思わず突っ込みを入れる。
すると隣から煉のくすくす笑いが聞こえてきて、ハッと我に返る。
煉と七禾が会話をしている時はなるべく邪魔をしないようにしていたのだが、油断していた。
「七禾さんにもそんな言い方したりするんだね」
からかうような質問には答えず、祈夜は誤魔化すようにお吸い物に口を付けた。
あさりの旨みが口内に広がり、今朝庭から採って来たという三つ葉の香りが鼻をくすぐる。
「ふふふ、祈夜さんはいつもわたくしにはこんな感じですのよ」
「へぇ、意外だなあ。ずいぶん打ち解けているんですね」
「そうなんです。祈夜さんは恥ずかしがり屋さんですから。こういった表裏のないやりとりをすることで、良い関係を築けているのですわ」
「…七禾、余計なこと言わないで…」
確かに七禾には何の気も遣わないでいられるし本音も言いやすいが、一族の仇である鬼族に対して気を許しているなど、なんたる屈辱か。
断じて認めたくない気持ちと、気恥ずかしい気持ちが混ざり合って、祈夜は不機嫌そうに抗議した。
「ところでその生徒会、というところは一体何をする組織ですの?」
「そうですね…」
だが2人は祈夜の小さな異議申し立てを華麗にスルーして会話を続けた。
「例えば、学校で行われるイベントを企画したり風紀を守るための規則を決めたり、部活動の活動状況を調査して活動費を見直したりしていますね。学校運営に重要な役割を持つ生徒の集まり、といったところです」
「ずいぶんお詳しいんですね」
「1年生の後期から生徒会の仕事をしていますから。大抵のことは知っているつもりです」
「まぁ、そうでしたの」
「夏の文化祭に向けてそろそろ準備が始まるのでこれから帰りが少し遅くなるかも知れませんが、祈夜はこれまで通り僕が家まで送り届けますから安心して下さい」
「それは頼もしいですわ。最近、テレビで物騒な事件をよく見ますから…。毎日平和そのものですが、いつ何が起こるかわかりませんものね」
「そういえばここ最近になって増えましたね…」
会話を聞きながらもくもくと食事をしていた祈夜は、周りに悟られないよう、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。
同居を始めてまだひと月にも満たないというのに、すっかり七禾は祈夜の保護者役だ。
図々しい彼女の言動には度々神経を逆なでされているが、そんなことより何よりこの状況を受け入れてしまっている自分自身に怒りが湧いて来る。
心のどこかで嬉しいと感じてしまう気持ちが少なからずあることも尚更腹立たしい。
――誰のせいでもない、自分の心が弱いせいだ。
ぶつけどころのない苛々を、一口大に切られた豚肉の生姜焼きを乱暴に口に入れることでなんとか収めた。
「ねえさま、元気ないですか…?」
そんな祈夜の様子を向かいで見ていたのだろう、ほのかが目敏く尋ねてきた。
瞠目して、自分と似た鳶色の目を見つめる。
まさか本当のことなど言えるはずもなく、祈夜は笑って首を振った。
「そんなことないよ、ほのか。ちょっと嫌なニュースを思い出しただけ」
「いやなニュース?」
「うん」
「どんなニュースですか?」
ほのかの質問は、話をしていた2人の耳にも届いたらしい。
いつになく真剣な顔で七禾が聞いて来るので、何となくやましい気持ちになる。
「えーっと、何日か前の…高校生が電車を待っていたら知らない間に怪我をしてた、ってやつ…」
「それなら知っていますわ。電車に乗ろうとしたところを背後から何者かに斬り付けられたという事件ですね?」
咄嗟に吐いた嘘とはいえ、祈夜は実際にこのニュースが気になっていた。
事件は最寄り駅の隣の駅。駅前に大型のショッピングモールがあって、先週の日曜日に涼香と買い物に行ったばかりだった。
だが気になった理由は、何度か利用したことのある駅だからというだけではなかった。
「ちょうど乗降の時で人が流れるように移動しているときに襲われたそうですね。誰も犯行を目撃していなかったようで、捜査が難航していると新聞にも書いてありました」
「そうみたいですね。でも誰も目撃者がいないなんて奇妙じゃないですか?その生徒は入院するほどひどい怪我を負ったようですし」
「ええ、制服に血が滲むほど深い傷だったようです。それも明らかに刃物で斬られたような切創だったそうですわ」
「それなら尚更、そんなに深い傷を誰にも見られずに乗降の一瞬で付けられるものでしょうか。犯人が人間かどうか疑ってしまいますね」
煉の言ったことは、祈夜もこの事件を知った時に思ったことだった。
犯行は電車の乗降時、凶器は少なくとも肉まで切り込めるような大きさの刃物を使い、何百あるいは何千という視線から逃れて一撃で致命傷と言っても過言ではない傷を負わせている。
どう考えても、犯行が人間業ではなかった。
人間でないのなら、考えられるのは呪詛や悪霊といった類か、あるいは人間を憎む存在――鬼族の仕業だと考えざるを得なかった。
鬼族は花蘭の、祈夜の両親と祖父母によってほぼ殲滅されたと聞いているが、目の前の例もある。
七禾のような――人型を保てる程の力を持つ鬼が生きているのなら、当然その配下にも鬼がいると考えた方が自然だ。
「まったく恐ろしい出来事ですわ。ほのかさん、母様が迎えに行くまでは絶対に学校の外へ出てはなりません。いかなる理由があろうと、門の外へは出ないように」
「はい。どんな時も、かあさまを待ちます!」
「約束ですよ。祈夜さんも、必ず煉さんと一緒に帰って来て下さいね」
「私は…」
「勿論です。喧嘩をしたとしても、手を引いて帰りますよ」
私は大丈夫、と言おうとして、煉に遮られてしまった。
彼はにこにこしながら「喧嘩したことなんてないけどね?」と笑顔を向けてくる。
(心配してくれるのは嬉しいけど、自分の身くらい自分で守れるのに…)
そんなもやもやとした気持ちを抱えながら、祈夜は煉の言葉を素直に認めて頷いた。