2話
あれから全力疾走したおかげで、朝のホームルームは滑り込みセーフだった。
祈夜はよろよろと教室に入ると、己の座席だけを視界に入れてなだれ込むように椅子に腰かける。
ぜいぜいと整わぬ息のまま机に突っ伏して、心臓が落ちつくのを待った。
全身から噴き出した汗で肌に制服が張り付いて、何とも居心地が悪い。
「おはよー、祈夜。どーしたの~?寝坊した~?」
後ろの席で気だるげに頬杖をつきながら、その背中ににやにやと小声で話しかけるのは、一年に引き続き今年もクラスが一緒になった涼香(リョウカ)だ。
「朝から追い駆けっこなんて青春じゃん~。樫月センパイと朝からナニをしてたのかなぁ~?」
「…っ、涼香…そんなんじゃ、はあ、ないから…。変な誤解、しないで…」
「あらあら~?じゃあどうしてなのー?二人揃って遅刻ギリギリなんて怪しい~」
「ちょっと、ゆっくり、しすぎちゃったの。それだけ…」
「ゆっくりしすぎたって、何してゆっくりしてたのかな~?あ、言えないことなんだ?ねえ、そうなんでしょ~?ハッキリ言いなさ――」
「だぁから、違うんだってば!」
しつこい追及に耐えかねた祈夜は、伏せていた顔を勢いよく上げて、後ろを振り返りながら、叫んだ。
しかし何故だろう、睨みつけた友人は瞠目しながら口だけは笑っているという奇妙な表情で、ぱちぱちと瞬きをするだけだ。
同時にしん…と音のなくなった教室を訝しく思って前を向き――祈夜は硬直した。
クラスメイト全員の視線が、祈夜に集まっている。
それだけならまだよかったのだが、惜しくもその約30秒前に生徒以外の人間が一人増えていた。
「何が違うの?」
「あ…」
「花蘭さん、先生の話聞いてた?」
「あの…いえ、すみません…聞いていませんでした…」
「それじゃ、折角だから花蘭さんにお願いしようかな。他にやりたい人いるー?」
何のことかわからず混乱しそうな祈夜への説明を放置して立候補を求めた声に、応える生徒は誰もいない。
「オーケー、決まりね!それじゃあ花蘭さん、よろしくー」
「え、あの、何ですか?」
「いやー選ぶ手間が省けて助かっちゃった。あ、説明は殿塚(トノヅカ)さんから聞いてね。じゃあ次の連絡は――」
「……あの、涼香…」
「ごめん、マジごめん。あたしも聞いてない…」
「…だよね」
そろりと振り返ってみれば、たった今説明役に抜擢された人物が、予想通り顔の前で両手を合わせて心底申し訳なさそうなポーズをしていた。
(HRが終わったら隣の席の人に聞こう…)
思いがけないとばっちりに、祈夜は小さく溜め息を吐いたのだった。
その放課後、祈夜はこれまでほとんど縁のなかった生徒会室に初めて足を踏み入れることになった。
今朝担任が提案していたことは、「生徒会の庶務員が一人怪我して入院しちゃったから、復学するまでの間代役を頼みたいんだけど」という内容のものだった。
選挙で選ばれたのだから選挙をしなくて良いのかと思うが、そこは生徒会の顧問を務めるこの担任が許可するというのだから問題ないのだろう。
そしてその説明の最中に声を上げてしまった祈夜が、その代役に一方的に任命されてしまった。
「はは、祈夜も意外と抜けてるよね。僕ならそんなの無視しちゃうな」
祈夜から経緯を聞いた煉は、窓側の席でパソコンのキーボードを叩きながら笑う。
彼はこの春、現在の生徒会長から推薦されて生徒会副会長に立候補し、他の候補者2人を押しのけて見事当選を果たした。
副会長を務めるのは2年生の前期から数えて今期で3度目。
本当は3年生になったら生徒会は辞めようと思っていたようなのだが、同級生や後輩達から「任期が短くても良いから(立候補してくれ)」と拝み倒されて断り切れなかったらしい。
そのお人好しな副会長の指示で、明日の朝全校に配るプリントを各学年のクラス毎に纏める仕事を与えられた祈夜は、立ち作業をしながら会話を続けた。
「だって、それで変な噂が立ったら困るでしょ。煉にも迷惑かけるし」
「僕は別に構わないよ。後ろ指差されるわけじゃないしね」
「でも、好きな女の子に誤解されない?」
「そんな子はいないから、大丈夫だよ」
「あ…煉は七禾が好きなんだっけ」
「口説いてみたいと思うくらいにはね。それに、今更じゃないかな」
「今更?」
「うん」
祈夜が知らないだけで、実のところ二人はとっくの昔に、祈夜が入学したその日から校内で噂になっていた。
下の名前で呼び合う仲で、朝は仲良く並んで登校。中庭で仲睦まじくお弁当を広げることもしばしば。
帰りはよく待ち合わせをして下校しているし、時々「兄妹みたいなもの」という言い分を覆すようなこともしている。
二人の中学時代までを知る生徒なら粗方事情はわかっているだろうが、それでも誤解は生まれていた。
事情を知る者でさえそうなのだから、高校で初めて出逢った生徒達が疑わないはずがない。
誰がどう見ても二人の行いは「どうぞ勘違いして下さい」と言っているようなものだった。
けれどもそれを言うと祈夜は煉の望まない方向に解釈するので、あえて口には出さない。
「言いたい人には言わせておけばいいよ。どうせ噂なんだし、その内飽きるでしょ。そんなことより僕は他のことが気になるな」
「他のこと?」
「そう」
他のことって何だろう、と考えながら整えたプリントに付箋を貼っていると、キイ、と椅子を引く音がした。
振り向けば、パソコンで何やら作業をしていた煉が立ち上がってこちらに歩いて来る。
祈夜のすぐ近くまでやってきた彼は、躊躇いなく手を伸ばして不思議そうにしている彼女の黒髪に触れた。
「今朝、何を考えてた?」
「え…?」
「約束したよね。忘れたわけじゃないだろう?」
それは祈夜が引越しを決めてから新居に移る日まで、煉に何度もしつこく確認され、誓わされたことだった。
住む場所が変われば当然一緒に過ごす時間も減るわけで、見えていたものが見えなくなると少しずつ距離が生まれてくる。
――13年前、樫月の屋敷に引き取られた祈夜は、家族と共に一切の感情を失っていた。
何の前触れもなく得体の知れない生き物に襲われ、母親と離され、火に囲まれて、それがまだ4つの幼子にとってどれほどの恐怖であったか、想像に難くない。
だからこそ樫月の者達は皆、不憫な祈夜に同情して、腫れ物に触るような扱いをした。
しかし煉はそんな大人達の態度が気に入らず、まるで反抗するように祈夜に対してきつく当たった。
何をしても、何を言っても人形のような祈夜を見ていると、どうしようもなく腹が立って、その苛立ちを上手く制御できずにひどい物言いをしたこともあった。
転機が訪れたのはそれから6年後。
ある事件がきっかけで祈夜は感情を取り戻し、そして煉は「兄たん」と呼ばれ慕われていた頃の自分を取り戻した。
それからというもの、煉はこれまでの態度を償うかのように祈夜に対して過保護なまでに世話を焼くようになった。
そしてもう二度とあんなことが起こらないように、あんな間違いを起こさないために、祈夜に一つのことを約束させていた。
「僕が何を言いたいかわかるよね?」
「煉に、隠し事はしない…」
「うん」
「私、隠し事なんて…」
「してない?」
無言で頷くと、煉は「そう」と満面の笑みを浮かべた。
「それで、何を考えてたの?」
背筋が寒くなるとは、この時のことを言うのだろう。
にこにこと笑う彼の全身から物々しいオーラが溢れ、その有無を言わせない威圧感が祈夜の逃げ道を塞いでいく。
優しく頭を撫でる蛇の手の感触が、声を失くした蛙に更なる追い打ちをかけた。
「僕に、話すことがあるよね…?」
「ぁ…」
「ねえ、祈夜。そうやって何でも一人で解決しようとするのは、お前の悪い癖だよ」
力の抜けた体は、弱い力で簡単に腕の中に納まる。
睦言のように甘い声が、温かな吐息と共に祈夜の耳に流れ込む。
「――話して?」
血が沸き立つような刺激に、ひくり、と体が震えた。
額が触れそうな程近くから真っ直ぐに瞳の奥を覗き込まれれば、祈夜にこれ以上抗う術はなかった。
物心ついた時から、煉のこのすべてを見透かすような、それでいて哀願するような目に弱かった。
あの子の父親になりたい、あの女を口説いてみたいと言った煉には、最後まで秘密にしようと思っていた。
けれどそれも今、この時までのようだ。
思い起こせば、祈夜はこれまで煉に聞かれて隠し通せたことなど、一つもなかった。
「あ…の、」
「ん?」
「煉…」
「なに?」
「実、は…」
「うん」
「実はね――」
――あなたが恋している七禾は。
――あなたが愛おしむほのかは。
自然と、彼のシャツを握り締めている手に力がこもる。
視線に促されるまますべて打ち明けようとして、それは徒労に終わった。
祈夜が言葉を続ける前に、シャコーン!と教室のドアが開き、複数の足音と共に爽やかな声が耳に入って来た。
「印刷して来ましたよー!って、アレ…」
「あ…」
「え…?」
つい今しがた職務を果たしてきた書記と会計、庶務の三人は、予想外の状況に驚いてその場で静止した。
彼らが目にしたものは、我らが生徒会副会長と今日仲間になったばかりの代理庶務が、抱き合う恰好で限りなく互いの顔を近づけ合っている姿だった。
これまでの話の流れを知らない三人がそこから連想することは、ほぼ100%の確率で"アレ"しかない。
「えーっと…もしかして、お邪魔、デシタ?」
目が合っても狼狽えもせず、「やましいことなど何もしていません」と言うように堂々と互いの体に触れ合ったままの男女に逆に動揺してしまった書記の少年は、思わずカタコトになった。
後ろからついてきた会計と庶務は、ドラマで見たようなドッキリラブシーンに頬を染めながらも、(あの噂は本当だったのか?!)と内心興奮気味だ。
これが誤解を招く最大の原因であると思われるのだが、当の本人達にとっては単なるスキンシップでしかない。
傍から見ればキスをしようとしていたようにしか見えないのだが、それに気付かないくらい祈夜は色恋に疎かった。
「そうだね。あと少しだったんだけどなあ。でも気にしなくていいよ。あ、掲示用の分も印刷してくれた?」
そして、それをわかっていてあえて否定をしないこの男が、噂を増長させる一番の原因だった。
その後、戻ってきた生徒会役員の三人からこれでもかというほどちらちらと視線をぶつけられた祈夜は、なぜそんなに見られるのかと不思議に思いながら与えられた仕事を終わらせた。
するともう帰っていいよと許可が降りたので、ごく自然に「煉はまだ帰れないの?」と聞くと、その途端空気が張り詰めたので、流石におかしいと気付いた。
「あの、何か変なことを言いましたか…?」
恐る恐る訪ねてみたが、なんでもないですと慌てたように首を振られてしまう。
困った顔をしていると、堪え切れなかったのか、煉が吹き出してクスクスと笑いだした。
「どうしたの…?」
「なんでもないよ。いつもより早いけど、みんな今日はもう帰ろう。続きは明日」
そんなやりとりがあって、祈夜はいつもと変わらず煉と一緒に校舎を出た。
何かもやもやと煮え切らない思いを抱えながら、二人並んでゆっくりと歩く。
彼らの態度の深意を考えてはみたが、皆目見当もつかない。
わからないのだから気にしないことにしようと決めると、今度はさっき煉に言いそびれてしまったことを思い出した。
家に着くまでに追求されるのではと内心びくびくしたが、意外にも煉は何も言ってこなかった。
「初めての生徒会はどうだった?」
思いがけない質問に、祈夜は目をぱちぱちさせた。
「おどろいた…かな」
「どうして?」
「結構地味なことをするんだな、と思って」
正直に話すと煉は少し目を見開いて、そして笑った。
「はは、それ誰かも言ってたなあ。生徒会は学校の雑用係みたいなものだからね。そんなに華やかに見えた?」
「毎日放課後のお茶会とかしてるんだと思ってた」
一瞬、煉が言葉に詰まる。
「本気で?」と聞かれたので「半分」と答えると、「半分は本気なのか」と可笑しそうに笑う。
「そうだとしたらまず教室にケトルが要るね。いれるのは緑茶?それとも紅茶?」
「お抹茶」
「うーん、流石にそれは無理だなぁ」
そんな他愛のない話をして、ふと気付く。
「そういえば、今日は生徒会長の…奥村さん、だっけ。来なかったんだね」
今日一緒に作業をしたのは、書記・篠﨑、会計・円藤、庶務・安部と、煉の4人だけだった。
生徒会に縁のなかった祈夜は生徒会が実際に何をしているのかも、そもそも役員が何人いるのかも知らなかったが、会長がいないことには流石に気が付いていた。
「ああ、奥村さんは今日風邪で学校を休んでたんだよ」
「そうだったんだ…」
「それともう1人、会計の竹内さんも休みだったね。竹内さんは風邪じゃなくて用事があったみたいだけど」
煉の話を聞くところによると、生徒会役員は今回入院してしまった庶務・満井を入れて7人いるらしい。
篠﨑、円藤、竹内は同じ2年生だが、祈夜はクラスが違うので話したことがなかった。
生徒会長の奥村も何度か顔を見ているが三年生なので話したことはないし、先月入学したばかりの安部と満井はもちろん知らない。
つまり煉以外全員がほぼ初対面の生徒だ。あまりコミュニケーションが得意ではない祈夜にとっては、煉がいるとはいえ今後のことを考えると気が重かった。
僅かに表情を暗くした祈夜に目敏く気付いた煉は、その心情を察してか彼女の歩調に合わせて歩きながら、その柔らかい髪を優しく撫でる。
「心配しなくて大丈夫だよ。みんな悪い人ではないし、僕が傍にいるから」
「でも…」
「今日はみんな戸惑っただけだよ。きっとすぐに打ち解けられる。祈夜なら大丈夫だよ」
生徒会室で見た時とは違って、今の煉の笑顔は穏やかで温かい。
帰りがけの少し気まずい雰囲気に不安を覚えていた祈夜は、煉の言葉と笑顔によって雲が晴れたような心地がした。
祈夜の表情に笑顔が戻ると、煉は満足げに目を細めてその細い手を握る。
「祈夜と一緒に生徒会の仕事ができて嬉しいよ。がんばろう、ね」
「うん」
すっかり安心した祈夜は、煉の手を握り返して頷く。
肩を寄せ合って仲睦まじく歩く二人の姿は、兄妹のようでもあり、噂されているように恋人同士にも見えた。