1話
祈夜(キヨ)は溜め息を吐いた。リビングのテーブルに敷き詰められた湯気の立つお皿。
窓から差し込む朝陽に照らされたキッチンで、鼻歌を歌うエプロン姿の美女。
彼女はすぐに祈夜の気配に気付いて振り返ると、透き通るような紫苑の瞳を瞼の中に仕舞い込んで、たおやかに微笑んだ。
「あら、祈夜さん、おはようございます。もう朝ごはんは用意できていましてよ」
祈夜とは全く似付かない、人間離れした美貌を持つこの女性、もちろん祈夜の母親ではない。
控え目にひとつに束ねられた深緑の髪は艶やかに黒光り、藍染の着物から覗く肌は白く滑らかでどこか人間離れしている。
一方、祈夜は少しばかり色素は薄いが平凡な黒髪。
肌も白い方だが目立つ程ではなく、珍しい鳶色の瞳を除けばいわゆるどこにでもいる普通の女の子だ。
面立ちも、女性の目は奥二重の切れ長に対して少女は二重瞼の大きな目、逆三角形のすっきりした輪郭に対しゆるい曲線を帯びた卵型の顎、その他どれをとっても、この女性と少女の遺伝子が繋がる欠片は見つけられない。
着物には不似合いなフリル付きの英国風エプロンを身に付けているので家政婦のようにも見えるが、口調は丁寧なものの発言は上から目線だ。
祈夜はそんな彼女の態度を大して気にもせず、「おはよう」と無愛想に返すと近くの椅子のひとつに腰を下ろした。
そこへ、祈夜の足元めがけてキッチンから小さな女の子が走り出て来る。
「ねえさま、おはようございます!ほのかは今日からいちねんせいなのです!」
嬉しそうに声を弾ませる少女は、台所に経つ淑女と髪の色や風貌がどこか似ている。
自分のことを名前で呼ぶ幼いこの子は、先週末に近所の小学校に転校が決まってからずっとこの調子で、今朝は一段とはしゃいでいるように見えた。
「おはよう、ほのか。今日から学校が始まるのね?おめでとう」
見上げて来る、自分と同じ色のくりくりとした目に微笑んで、祈夜はその小さな頭をよしよしと撫でた。
「うん!ねえさまも学校行くのですか?いちねんせい?」
ほのかは嬉々とした様子で祈夜の膝の上に乗り上げ、制服のスカートをきゅっと握った。
「うん。でも私は一年生じゃなくて、二年生なの」
「にねんせい?」
「そう。ほのかの学校には六年生までいるからね。お兄ちゃんお姉ちゃんとも仲良くね」
「はい!ほのかは、がんばります!」
元気いっぱいに返事をした可愛い妹に、祈夜の心がほっこりあったかくなる。
膝の上に抱き上げてそのふっくらとしたほっぺに頬ずりしたい衝動に駆られて、それを実行しようかと思ったところで、ふふふ、と後ろから木の葉を揺らす風のような声がした。
「まあまあほのかさんたら、いつでも全力投球なんですから。そんなに気合を入れなくても良いのですよ」
今までキッチンにいた淑女が、お盆に乗せて運んできた湯気の立つ白いご飯と漆器のお椀を三つずつテーブルに置き、エプロンをはずして席に着いた。
それと同時に、ほのかは祈夜の傍を離れ、椅子によじ登る。
ほのかは祈夜の真正面、女性はほのかの隣の椅子に腰かけた。
「その、二年生や六年生と言うものはつまり、二等級…格下ということでしょう?一等級のほのかさんに敵うはずないではありませんか」
「にとーきゅう?いっときゅ?」
「あら、もしやそれはボケというものですか?でしたらわたくし、ツッコミという役をしますわ。
――行っとく?やなくて一等級や、アホ。」
「…ちょっと、待って」
祈夜は、近頃この親子がハマっているお笑い番組のよくわからないモノマネに軽く眩暈を覚えて制止をかける。
すると二人は計ったかのように対称の動作で何だ何だと顔を向けてきた。
祈夜がはあ~と深い溜め息を吐くと、和装美女ははっと何かに気付いたように口元を指先で覆った。
「ごめんなさい、すっかり忘れておりましたわ。挨拶でしたわね。それでは、ごきげんよう」
「ふふっ。かあさま、そこは、『いただきます』や~」
「まあ、ほのかさん。素敵なツッコミですわ。わたくし、ちゃんとボケという役を務められたでしょうか?」
「ちゃんとボケです!」
ほのかが楽しそうにキャッキャと笑い声を上げると、彼女もほほほ、と上品な笑い声を上げる。
「それでは気を取り直しまして。いただきます」
「いただきまーす!」
膳の前で両手を合わせて、各々箸を取る。
躊躇いなく料理を口にし始める二人を前にして、ランチョンマットに並べられた一汁三菜をじっと眺めていた祈夜は、一拍遅れて小さく「いただきます」と言うと、そっと箸置きに置かれた己の桜色の箸を手に取った。
「あのね、勘違いしているみたいだから言うけど」
食事を摂りながら途切れた話題を再開すると、淑女は小首を傾げ、ほのかはもぐもぐと口を動かしながら祈夜を見つめた。
「学校では、一年生があなたの言う格下。数が大きくなるほど上級ってことなの」
「まあ、それは天邪鬼ですわ。普通ならば数の少ない方が…」
「そういう時もあるけど、学校では数の大きい方が位が上なの。年齢とおんなじよ」
「まあそうでしたの…それは失礼いたしましたわ」
和装美女は心底おどろいた様子で頷くと、箸を置いて隣に座る愛娘の名前を呼んだ。
「いいですか、ほのかさん。どうやらほのかさんは、虎穴に落とされた小ジカのようです。"六"の方にはくれぐれもお気をつけ下さいましね」
「ろく…ですか?」
「ええ。何があっても、初めは逆らわず様子を見た方が身の為ですわ。とにかく素直に従うのです。忠誠を誓う必要はありません、『敵ではない』と思わせることが大切なのです。そうして奴等の懐へ入り、腹を探りながら機会を待ちなさい。
けれど、もしほのかさんが危害を加えられたり、そういった素振りを見せた場合は、必ず一報するのですよ」
「いっぽう…?」
「知らせる、という意味です。その時は必ずや、ええ、わたくしが学び舎に赴いてその者を再起不能――いえ、少しばかりキツめに折檻いたしましょう。二度とそのような気を起こさぬよう心胆を寒からしめて、場合によっては臓物…ウフ、腕の一、二本を捻り潰して差し上げますわ」
「ちょっと、物騒なこと言わないでよ。ご飯がまずくなるでしょ…」
フフフ、と細めた目にただならぬ光を灯して妖艶に微笑む女に、祈夜は法華の身をほぐしながらジト目を向けた。
斜め向かいから咎めるような視線に気付いた彼女は「あらまあ失礼いたしました」と恥ずかしそうに笑って再び箸を取るも、「冗談でございますよ」と言い繕う様子は見られない。
その発言がどんなに中二病まがいであっても、この美女にとってはそれが本心からの言葉であったし、有言実行しろと言われれば折り紙で平坦なチューリップの花弁を折るのと同様、造作もなくやってのけるだろう。
そう、この女性は人間のようであって、人間ではない。
本人は人間の女を装っているつもりなのか、そうでないのかは不明だが、祈夜ははじめから――数ヶ月程前に彼女が幼い子を連れてこの家を訪れた時から――彼女が己の血の宿敵・鬼族の者であると見抜いていた。
ほんの十数年前、長い歴史からみればつい最近のことだ。
この人の世で、黒と呼ばれる残虐無慈悲な『鬼』族と、その鬼族と同等かそれ以上の力を持つ人間――白と呼ばれる『花蘭(カラン)』の血族が互いの全精力をぶつけ合い、この世の王座を争った。
その日は、晩夏の閑かな夜だった。鬼族からの奇襲を受けた花蘭は、多くの血縁を瞬く間に喪った。
最後まで残った者は血の濃い直系の者が数名。
屋敷の周辺は月光の下で蜜のように光る血で染まり、人と鬼と区別のつかない死臭で溢れた。
夜が明ける頃、それまで劣勢を強いられていた花蘭はやっとのことで鬼を己等と並ぶ数まで追い込んだ。
だがそれから間もなくして何者かによって屋敷に火が放たれ、気を取られた一瞬の隙を突かれて易々と形勢を逆転されてしまった。
まず先代が当主の奥方を庇って倒れ、次にその奥方が、その間に当主が、そして当主の兄と弟が…と、あと少しというところで白が黒の手に落ちた。
否、落ちたはずだった。
当時その場で花蘭に加勢していた、花蘭と同じく鬼族に対抗する力を持つ樫月(カシヅキ)家の十七代目当主は、その終幕をこう語った。
『屋敷の炎が、まるで獣のようにうねって次々に鬼を焼き払っていった。わしは気を失い、目覚めた時にはすっかり夜が明けていて、花蘭の土地は一面焼け野原。そこには鬼一匹、気配もなかった。息絶えた同志の躯も焼けて、灰一つ残っちゃいなかった。だがどういうわけか、わし等は生きていた』
そうして、その不思議な炎によって鬼族は勢力を失い鳴りを潜め、白と黒の争い事は終焉を迎えることとなった。
人の世を護る為に甚大な犠牲を被った花蘭一族だったが、その戦いの中心にいながら辛くも一人、生き残った者がいる。
その者こそ、その時はまだ4歳だった花蘭当主の一人娘・祈夜である。
彼女は母親の指示で屋敷の中でじっと身を潜めていたのだが、火の手が上がったことに驚いて逃げ出したのだろう、気を失って倒れているところを発見され、保護されたという。
祈夜は樫月家に引き取られたが、高校進学と同時期に樫月の屋敷を離れて、母方の親戚が用意してくれた家に移り住んだ。
そして祈夜が一人暮らしをはじめて1年が経った頃、彼女は現れた。
喪服に身を包み、黒のワンピースを着た女の子と手を繋いで「御免下さい」と訪ねてきたのは、桜が咲き始める少し前のことだった。
「わたくしは、花蘭家の二十三代目当主・阿己(アキ)様より、生前にて多大なる温情を賜りました。ご逝去なされて随分と年月が経ってしまい、申し訳ございません。阿己様のお孫様がこちらでひとりお暮しになっていると耳にしたものですから、是非身の回りのお世話をしながら、その恩義を報いようと馳せ参じた次第です。どうか、この子ともども、この家に住まわせてはもらえないでしょうか」
そう言って深々と頭を下げる女を、彼女が鬼だとわかっていても、祈夜は追い返さなかった。
祈夜はあの惨劇の夜から、誰にも知られていないある能力に目覚めていた。
それは、生命の色が"視える"こと。
人間ならば青、動物ならば橙、虫なら緑、植物なら白、といった具合に、個体によって彩度や明度の差はあるが特定の種が持つオーラの色が視えるのだ。
祈夜の『眼』は、この女性から放たれている深紅の――鬼族だけが放つオーラの色を視た。
だが、彼女が鬼族だということに気が付いた理由はそれだけではなかった。
その姿はどこからどう見ても人間で、仕草までもが人間じみてはいたが、鬼族が放つ持つ独特な気配が消えていなかったのだ。
つまり人に化けているのではなく、元々人間のような姿をした鬼なのだろう。
人の姿を取る鬼は、鬼の中でも破格の力を持つ高位の存在であると聞く。
そうなれば、力の差は歴然。
祈夜は複数ある鬼祓いの家で最強と謳われた花蘭の生まれではあるものの、鬼がほぼ全滅した中では明らかに修業不足。
永い時を生きる鬼にとって、そんな赤子同然の祈夜を殺すのは他愛のないことだろう。
けれども彼女は床に額を摺りつけて、16年程しか生きていない人間の小娘に、それも宿敵の一族に頭を下げている。
そしてもう一つ気になったのは、彼女と一緒にやってきた小さな女の子だ。
鬼の女と風貌がとてもよく似ているが、彼女は人間だった。
娘と言われても違和感がないが、鬼から人間の子どもが生まれるはずがない。
きっと己と似たような容姿の子を選んで、どこからか浚ってきたのだろう。
どういう理由でこの子を連れて来たのかはわからないが、祈夜はこの子どもが鬼の道具として傷つけられることも、己の血の宿命に巻き込むこともしたくなかった。
(おじい様に恩を受けたってことが本当かはわからない。これが私を甚振るための芝居で、いずれ私を殺すとしても、それでもいい。それまではしたいようにさせてあげる。でも、簡単に殺されてやらないわ。私を子どもとみくびって、花蘭の血に仇なしたことを後悔させてやる)
そう考えた祈夜は、この提案をありがたいお話として受け入れた。
すると彼女は心底嬉しそうに微笑んで、ありがとうございます、と再び頭を下げた。
「わたくしは七禾(シツカ)と申します。この子はほのか。どうぞよろしくお願いいたします」
こうして、鬼祓いと鬼の奇妙な共同生活が始まったのだった。
ドアを開け放ち、「いってらっしゃい」と微笑む七禾に「いってきます」「いってきます!」と各々挨拶を返して、祈夜はほのかの手を引いて玄関の石段を降りた。
それを合図に、門の前に背を向けて立っていた影が動く。
紫がかった穏やかな瞳に、中性的な面立ち。栗色の短く柔らかそうな髪に包まれた、人の良さそうな笑み。
「おはよ。祈夜、ほのか。 おはようございます、七禾さん」
近づいて来る二人には軽く、入口に立つ淑女には丁寧に頭を下げて挨拶をしたのは、祈夜と同じ高校に通う樫月家十八代目当主の長男・煉(レン)だ。
1年前まで祈夜と同じ屋根の下で寝食を共にし、兄妹のように育った彼は、祈夜が家を出た後も何かと気にかけて、こうして朝家の前まで迎えに来るのはもう日課になっている。
当初、煉は鬼とは気付かぬものの、見知らぬ子持ち美人が突然妹の世話をしに来たことを訝しんで同居に反対していた。
だが、祖父から受けた恩を返しに来たようなのだと祈夜が家に招いて二人をきちんと紹介すると、煉は彼女たちを気に入って、受け入れてくれた。
「良い人が来てくれたみたいで、ちょっと安心した。お前は一人で大丈夫だ、ちゃんとやってるなんて言うけど、正直かなり心配してたんだ。ご飯も美味しかったし、話してた通りお前の世話もきちんとしてくれそうだね」
そう言って、帰りがけにほっとしたように笑っていたのはつい数週間前のことだ。
同じく煉に会釈を返して小さく手を振る七禾に背を向けて、三人は並んで学校へと向かう。
ほのかが通う小学校は祈夜と煉が通う高校と同じ方向にあり、二人にとっては少し遠回りになってしまうが毎朝門の前まで送り届けようと決めていた。
左手に煉の右手を、右手に祈夜の左手をしっかりと握って、心底幸せそうに笑うほのかは無敵の可愛さで、二人の顔からも自然に笑みが零れる。
たとえ血が繋がっていなくとも、祈夜はもうほのかのことを妹だと思っているし(だからといって七禾を母だと思うわけでは決してない)、煉は妹ならば祈夜がいるので、ほのかは娘みたいなものだと言う(だからといって七禾を妻だと言うつもりは決してない、そうなってもいいと思っているだけで)。
煉が目尻を下げて、背景にはほのかが昨日クレヨンで描いたお花達を貼り付けて、でれでれとだらしない顔でほのかを見つめる視線からハートマークが飛んでいるのは、錯覚であって錯覚ではない、と祈夜は思う。
「ねえ、ほのか。僕が君のお父様になったら、嬉しい?」
「にいさまが、ほのかのとうさまになるのですか?」
「うん。どうかな?嫌かな?」
「なってくれるのですか?とうさまに?」
「そうだなあ、君のお母さん次第だけど。嫌?」
「いやじゃないです!うれしいです!にいさまがとうさま!またかぞくがふえますね!」
「そーかそーか!嬉しいかあ~。どうしよう僕、がんばってみようかなァ。本気で…」
「意味わかってないみたいだけど……?」
ふやけた顔から一転、真面目モードに切り替わった幼馴染を横目にツッコんでみるものの、妄想という名の殻に閉じこもった彼にはまるで効果がない。
心の中に生まれた情けなさを小さな溜め息でやり過ごしながら、楽しそうに歌うほのかの歩幅に合わせてゆっくり歩く。
腕時計を見れば八時を過ぎたところ。
このペースでいけば小学校までは五分弱、ほのかと別れて少し早めに歩けば、八時半までには高校に着けるだろう。
ほのかが来た頃はまだ蕾だった桜はすっかり花開いて、風に花弁が奏でる音が「おいで」と手招きしているようだ。
(今年で13年か。早いなあ…)
桜を見ると、花の形は違えども思い出す。
今は野原になってしまった風通しのよいところで、家族賑やかに暮らしていた時のことを。
屋敷の周りには、松に柳にアララギ、銀杏、その他花を咲かせる数多くの樹木で溢れていた。
その中でも梅と桜は、わずかな間交わる勝負の時となれば、惜しみなく美を主張し合っていた。
春のその時期になれば、近所の人と一緒になって食べて飲んで笑って、憂いを吹き飛ばすように花見を楽しんだ。
幼かったので所々抜け落ちてはいるものの、それでもたくさんの人の温かい手や優しい声に囲まれて、幸せだと感じていた気持ちは、この心にしっかりと跡を残している。
今ほのかは、あの頃の自分と同じ気持ちなのだろうなと、煉が「じゃあ今度君のお母様に、僕にお父様になって欲しいって、お願いしてみてくれる?」等と小癪な手を使おうとしているのを遠くで聞きながら、祈夜は自分の中でふふふ、と笑った。
そうしてはっ、と目が覚める。
――そうだ。この子は、この子の親は、七禾じゃない。
本当の両親は、どこか別の場所にいるのだ。
いなくなった愛しい子の未来を思い、嘆き、苦しみ、今もきっとどこかで必死に探しているに違いない。
あの頃に戻ったようだと、無情にも胸を躍らせている場合ではない。
一刻も早くこの子を、鬼の女を母と思い込んでいる人の子を、在るべき場所へ返さなければならない。
それがいま己に与えられた使命なのだと思い出すと、ついさっきまで色鮮やかに映し出されていた景色がピタリと動きを止めた。
そうすると、次に少しずつ陰が生まれてくる。
段々と色が抜け落ち、そしていつしか一枚の紙の上に刻まれて、ひらり、ひらりと宙を舞う。
――これは幻だ。己の心が、欲しい欲しいと望む世界。過去の幸福に魅せられた夢。
(いけない。こんなものに囚われては。己の中に鬼を飼ってどうするの)
一度開けば何でも食べたがる強欲の箱をピシャリと締めて、弱い心に叱咤する。
そして、祈夜は今朝の会話を冷静に思い返した。
(今朝七禾は何て言っていた? とにかく従え、敵だと思わせるな。そして腹を探って機会を待て。
それがアドバイスなんかじゃなくて、七禾が現在進行形でやっていることだとしたら、今は機会を窺う時ってこと…?)
そうすると彼女は、一ヶ月以上準備期間が必要な何かをしに祈夜の前に現れたということになる。
そして役者を近所の小学校へ通わせることが下準備の一つなのだとしたら、そこから考えられる行動パターンは、と思案したところで、祈夜の意識は現実世界に引き戻された。
「……よ、祈夜!」
「え?あっ、何?」
「何ぼうっとしてるんだよ。着いたよ?」
気が付けば、ほのかを挟んで歩いていた煉が目の前にいて驚いた。
子ども達のはしゃぐ声が聴覚を刺激する。
「あ…ごめん」
「はぁ、お前はホント――」
その先は言わずに呆れたような視線を祈夜にぶつけると、それで満足したのか、煉はほのかの前に膝を折って小さな手を取り、視線を合わせた。
「それじゃあほのか、いっておいで。帰りは母様が迎えに来るからね。友達たくさん、作っておいで」
「ともだち…ですか?」
「うん。友達っていうのはね、誰かと仲良しになるってことだよ」
「なかよし、ですか!」
知った言葉にパアッと瞳を輝かせたほのかにノックアウトされそうになっている煉の隣に、祈夜もまた腰を落として妹の綺麗な目を覗きこんだ。
「そう、仲良し。ほのかなら大丈夫、すぐに友達たーくさんできるわ」
「わかりました!ほのかは、みんなとなかよしになって、」
「「うん、うん」」
「ろくの人とも、なかよくなります!」
「ん?ろくの人?」
「あーーあーーあーーー!」
祈夜はここ一ヶ月で格段に速くなった瞬発力(誤魔化し術)で、煉が何だと問いかける前に声を張り上げた。
「そうそう、そうだねえ。みんなと仲良く!偉いえらい!その調子よ、ほのかっ!」
ちょうどその時、ショートヘアでさっぱりとした印象の見知った女性がやって来たので、祈夜は立ち上がって内心グッドタイミング!と喜びながら頭を下げた。
「先生、おはようございます。あはは、そうなんです、張り切っちゃって。ほのかのこと、よろしくお願いします。
それじゃあ私もう行くね、ほのか。先生の言うこと、よく聞くのよ。がんばってね…ってああ!もうこんな時間?!遅刻しちゃう!」
「え?ああおい、待ってよ。
先生、僕からもほのかのこと、よろしくお願いします。
それじゃあね、ほのか。愛してるよ。――おい、祈夜!待てったら!」
二人揃って丁寧に頭を下げて、ほのかの頭を順番に撫でて、追い駆けっこをするように去っていく高校生の少年少女。
その仲睦まじい様子に、二人に代わってほのかと手を繋いだ女教師は、懐かしそうに目を細めた。