9 サットン村滞在記7
暁色の瞳に呆れを漂わせてシャルアンは言った。
「乞われたわけでもないのに、余所の家の繊細かつ個人的な事情に、いたずらに踏み込む真似をしたと?」
「返す言葉もない」
わざわざ言葉を丁寧に区切ってくるシャルアンに言い返す気力もなくケリファはうなだれた。今回ばかりは王子の言うことに理がある。
昨日、蛇神探しの最中にレンの兄に出会ったことや、レンとサレイの父の話、薬草探しを手伝ってもらったことなどを掻い摘んで話したところ、短絡的に過ぎるとシャルアンにばっさりと一刀両断されたのだった。
深い深いため息とともに吐かれた『無神経の見本のような奴だな』というシャルアンの言葉は、ケリファの頭を思った以上の衝撃で揺さぶった。
――同時にさもありなんと納得する自分もいる。
確かに無神経だった。レンの、サレイの気持ちを慮るよりも自身の『許せない』という思いが先行した。
(彼らの気持ちを思うよりも、自分を優先させてしまった)
義憤に駆られたとはいえ、それは、諸刃の剣だ。
気づけなかったのは、やはり自分が考えなしだからか。ケリファは今更ながらに自身の無神経さを呪った。
密かに吐息をつきケリファは眼前の王子をちらりと見る。
シャルアンが郡司の家で借りた長衣は、彼がいつも身につけているものよりは刺繍も少なく質素だが、衣の落ちついた勝色が彼の目と銀の髪と相まって夜から明けゆく空を思わせた。どことなく神秘的な近寄り難い雰囲気をも感じさせる。
それが妙なことにケリファを委縮させていた。しかし、残念なことに中身はいつもの王子のままだった。
「お前は猪なのか? 猛進するのが趣味か?」
「う、うううううう」
「その内に畑を荒らし回り、沼田場で転がり回るやもしれぬな」
「うううううううううううう」」
「なれば、以降は蚤猪と名を改めるがいい」
「って、誰が蚤猪か!」
委縮していたのも束の間、ケリファは早速盛大に怒声を上げた。
まったくこの王子は放っておいたら余計なことしか言わない。そう口の中で文句を垂れ流していると、意識がそちらへ向いた所為か胸に詰まった重苦しい塊が少し取れた気がする。
シャルアンがそれを意図したかどうかは定かではないが――
「……どうしたら、レンを助けられるだろうか?」
ケリファはようやく真っ直ぐにシャルアンを見つめた。
無神経な自分を恥じる気持ちは消えそうにない。あんなこと言わなければよかったとさえ思う。
悲しいが、レンは父を信じているだろう。何度打ちのめされても心の奥底で父を慕うことは止められないのだ。レンは得られぬものを追い求めてこれからも必死に手を伸ばし続けるのだろう。血という呪縛がきつく彼を縛っている限り。
しかし、このままにしておくことはできない。
レンの父の行いは断固として許すことはできない。
「これ以上、レンを傷つけたくはないんだ」
ケリファの真摯な視線をただ黙って受け止めていたシャルアンがふとその目を逸らした。
何か思いついたのだろうが、視線を受け止めきれずに流したようにも見えた。
「そのサレイとやらは何者だ?」
「だから、レンの兄だと言ったろう」
とうとうボケまできたのか、この王子は。
ケリファは声には出さず眼差しにじわりと疑惑をにじませた。すると、シャルアンに後ろでまとめた髪を引っ張られる。
じたばたと暴れて何とか危険王子の魔の手から逃れたが、後頭部が地味に痛い。ケリファは少し涙目になってシャルアンを睨む。
ケリファの睨みなど意にも介さない元凶は涼しい顔をしてゆるく腕を組んだ。
「先程、お前を待つ間にレンの身の上話を聞いたが、幼い頃に母が亡くなってからは、父と祖母の三人で暮らしているそうだ」
「え?」
「お前にレンの『兄』だと名乗った男はいったい何者なのだ?」
「えええっ?」
思いもよらぬ言葉にケリファは極限まで目を見開いたまま硬直した。
偶然よく会うことはあっても、本当に会いたいときに限ってなかなか会えない。
神池のほとりを足早に進みつつ昨日も似たようなことを考えていたなとケリファは苦笑いした。
忙しない気分で力強い緑色の生命力あふれる下草をさくさくと踏みしめて歩く。視界を遮るかの如く垂れ下がる蔓をそっと払う。名も知らないような虫があたふたと跳び回り、ケリファは少し住処を荒らしてすまないという気分になった。
シャルアンらが蛇神の探索を再開する中、ケリファはサレイの正体を確かめるためにあちこち駆けずり回っていた。
「……サレイ、どこなんだ? 汝はいったい何者で、どうしてあんな嘘を?」
最初に会った岩の辺りや、サットン村の中など、思いつく限りの場所を探したのだが、サレイの姿はなかった。
そこで気づく。サレイのことをほとんど知らないことに。
知っていることといえば、レンの兄だと名乗ったこと、人当たりの良い無害な男のように見えること、レンを大事に思っているらしいこと。それくらいだ。
会ったばかりだということを差し引いても知っていることは少ない。どうして彼の話を鵜呑みにしてしまったのか分からない。
レンの様子からして暴力を振るわれていることは確かだろう。
だが、それは本当に父からなのだろうか。考えたくはないが、本当はレンの兄を名乗るサレイがレンを傷つけているとは考えられないだろうか。
そこまで考えてケリファは首を振った。
(サレイはレンのことを真実思っている……そう信じたい)
レンのことを語る時の、あの苦痛に満ちたサレイの顔。あれは演技などではなかった。
単純なケリファだが、それだけははっきりと分かる。
とは言うものの、あっさりとサレイに騙されていただけにケリファは自分の勘を信じることができなかった。
(ああもう! やはり人間というものは不便だ!)
信じたいのに信じられないというのはなかなかに心地の悪いものだ。信じようとすればするほど、心の片隅で良からぬ蟲がざわめき始める。
全き神ならばこんな思いをすることもなかろうに。ケリファは何度目かも分からないほどに神からただ人になったことを悔やんだ。
何とも言えない気分を払拭しようと、少し湿り気を帯びたような空気を大きく吸い込み、倍の時間をかけて吐き出す。
耳を澄ませば、木々のささめき、鳥のさえずり――豊かな森の息吹が辺りに満ちていることが分かった。
そして、ケリファが心を落ち着かせるために神池に目を向けた時、それは起きた。
静かに清らかな水を湛える神池の水面が突如として光輝いたのだ。一点の濁りのない清冽な玻璃の世界が真っ白く染まる。
身構えるケリファの眼前でさらに神池が輝きを増した。その目映さに目が眩んで一瞬、思わず目を閉じる。
ケリファがゆっくりと目を開ければ、磨き抜かれた鏡面のような水面には、とある光景が映っていた。
――我が目を疑うほどの酷い光景が。
細く軽い身体が吹っ飛び、部屋の中の様々なものを薙ぎ倒して倒れる。けたたましい音をたてて転がる鍋や杯。それは、さながら誰かが上げる悲鳴のようだった。
黒い影が床に倒れた力ないその身体を無感動に拾い上げ、さらに頬を張る。逃れようとすれば髪を掴み、机に顔面を打ちつける。執拗にそれを繰り返すと、やがて飽きたか、その身体をゴミでも捨てるかのように投げ捨てた。
その人は弾みでぼろぼろの壁に強かに背をぶつけ、苦悶の吐息をもらす。最早声すら上げる元気はないのだろう。全身を苛む苦痛に身動きも取れずに横たわったままだ。
狭い部屋の片隅では蛮行を止める術のない年老いた女が泣いている。涸れた木のような細い腕で黒い影に取りすがろうとするが、にべもなく振り払われる。倒れた老女は聞く者全てに悲哀をもたらす声でひたすらに呟く。
何故、こんなことを。ひどい。どうして。何故、何故、何故……
「やめよ! こんなものを何故見せる!」
自身の命を振り絞るような老女のつぶやきを聞いていられなくなってケリファは叫んだ。
あまりにもひどい、悲し過ぎる光景だった。
本当に救い難いのが、これが幻影などではなく実際に起こっている光景だということだ。
ケリファはぎりりと音がするほどに奥歯を噛み締めた。
なんという許し難い行いなのだろう。いったい彼女らが何をしたのか。何故、こんなことができるのか。
答えを見いだせないケリファの中で再びあの男への怒りが燃え上がった。
今すぐ裁きを受けさせたい。傷つけられ、苦しめられた者たちの痛みを分からせたい。出来ることなら同じ目に、いや、もっと酷い目に遭わせたい。そんな目に遭って当然なことをしているのだから。
沸々とたぎる岩漿の如き思いに飲み込まれそうになり、ふと気づく。果たしてこれは自身の気持ちなのだろうか。
ケリファは復讐の門の入り口で足を止めた。
無論、ケリファにとて到底許すことはできないあの蛮行に対する強い怒りはある。レンの父に裁きを与えたい気持ちも確かにある。
だが、今感じたこの気持ちは、少し違うのではないか。
ケリファの……というより、誰かに誘導された感がある。その誰かが待ち望む結果へと強引に導かれたような違和感があった。
「……何故、こんなことを?」
図らずも嘆き悲しむ老女と同じ言葉が漏れた。
ケリファは油断なく辺りに目を配る。心なしか見慣れたはずの神池の周辺がざわめいている気がする。
「どうかしましたか?」
ふわりと飛ぶ綿毛を思わせる声がしてケリファは思わず身構える。
つい先程までは多少なりとも気を許していた人畜無害な声だ。だが、今は違う。
ケリファが睨みつける先、灌木をかきわけるようにしてサレイが姿を現した。ひょろりとした頼りない体形で、相変わらずよく覚えられない顔をしている。
「どうしたんですかぁ? そんな怖い顔をして」
「……サレイ」
「ああ、父に怒っているんですね。それはそうでしょう。あの男は本当に酷い男なのです。本当に許せない」
いつもと変わらぬふわふわとした口調だ。それが無性に不信感を抱かせる。ただの人ならば恐怖すら感じていたかもしれない。
人の姿をした得体の知れない何か――柔和な物腰の弟思いの兄という印象はすっかりすり替わっていた。
ケリファは知らず知らずのうちに間合いを取り、いつでも飛びかかれるように戦闘態勢に入った。
それに気づいたサレイが苦笑いする。
「どうしてです? あなたが怒りを向けるのは、わたしにではなくて、父では?」
サレイの問いには答えず、警戒は解かないままケリファは問い返した。
「……今までどこに?」
「ふふ、隠れていました。わたしのことを探し回っている人たちがいるようなので」
「そうだ。探したんだぞ!」
そう言ってからケリファは首を傾げた。
――人たち?
自分のほかにサレイを探している者がいるのだろうかとケリファは訝り、サレイの顔を見つめた。
途端に湿った風がその勢いを増して髪が大きく舞う。ケリファは暴れる髪を手で押さえながら思わず目を細める。
サレイはいつものように柔らかな表情を浮かべている。彼の何度見てもよく覚えられない顔が次第に変化していくのにケリファは気づいた。
サレイの周りを柔らかな白光が取り巻き、らせん状に風が駆け抜けていく。その風が空へと昇り、薄墨色の雲を作り出す。雲はあっという間に厚く垂れ込め、今にも涙と見紛う天水をこぼしそうな様相を見せた。
同時にサレイのパヴァルナの民人としては一般的な色素の濃い肌が白くなり、短かった髪は身の丈と同じくらいに伸びた。髪の色もレンと同じ黒から薄い水色へと変じた。
「な、汝はいったい?」
呆然と問いかけるケリファへと男は微かに笑いかける。縦に長い瞳孔が鋭さを加味しているが、その柔和な表情に変化はない。
レンの兄だと名乗った凡庸な男は、一転優しげな面差しの美男へと変貌した。
――いや、姿を変えたわけではない。彼は真実の姿を現したのだ。
「わたしはケンコーン。蛇神族の末席を汚すもの」
どこか木々のささめきにも似た穏やかな声でそう告げた男の夜闇にも似た藍色の目、癖のある髪は誰かに似ている。
ケリファが思い至るよりも早くケンコーンは言った。
「そして、レンの父です」