8 サットン村滞在記6
「……それは、本当なのか」
ケリファの白い頬をパヴァルナの雨季の風がゆっくりと撫で、次いで草木の上を踊るように渡ったかと思うと、辺りが一瞬静まり返る。
「本当です」
静けさの間隙を縫ってレンの兄――サレイと名乗った男はあっさりと肯定した。
柔らかい表情をする男だが、今は顔が心なしか強張っている。それは顔面から地面に突っ込んだ後遺症という訳ではない。
「そんな……ことがあり得るのか」
我知らずかそけき声が出たことに驚きつつケリファはサレイを見据えた。
心のどこかでどうにか否定してほしいと願いつつ言葉を紡ぐ。
「レンの父があんなことを? 我が子に?」
ケリファは、何かに耐えるように目を閉じたサレイが無言で大きく頷くのを目にし、絶望的な気分になった。
神池のほとりでサレイと再会した後、兄であればレンの怪我について何か知っているのではないかと彼に事情を聞いたところ、俄かには信じがたい答えが返ってきたのだ。
昨日はたまたまレンの様子を見に立ち寄ったものの、サレイは既に成人しているため家を出ており、共に暮らしてはいないらしい。それゆえ実際に何が起こったのかは分からないが、レンを傷つけたのが誰かははっきりと分かると答えた。
その誰かとは、彼らの父だ。
彼らの父は働きもせず大酒を飲み、酔っては暴れて家の中を滅茶苦茶にした挙句、息子に手を上げるのだという。特にひどい暴力を受けているのはレンで、何か気に入らないことがあればあの小さな身体を手酷く痛めつけるのだそうだ。
告げられた言葉にケリファは大きな衝撃を受けた。
自身も酒で失敗した身の上、前後不覚に陥った際の悪しき行いについては声高に言える立場にないかもしれない。
だが、親とは子を守る存在ではないのか。子を愛し、慈しみ、道を違えることあれば時に厳しく教え諭し、よりよい方へ導く――そういうものではないのか。それは道理であり、生きとし生きる者の摂理といっていい。
なのに、何故。
愕然としたままのケリファにサレイは言った。
「そういう人なんですよ、父は。あれは人の姿をした化け物です。放っておけば、年老いた自分の母にも手を上げかねない。自分の妻にもそうしたみたいに」
母の死の一因は父にある。
断言した訳ではないが、気を抜いていればうっかり聞き逃しそうな微かな声に憎悪が確かに潜んでいた。彼の滴る憎悪で鍛え上げられた凍れる刃はいつの日か父を切り裂くかもしれない。
この虫も殺せそうにない穏やかな男にそれほどの強い感情を抱かせるとは、彼らの父の犯した罪は幾度贖っても贖えないのではないかとケリファは沈鬱な気分を強めた。
「祖母がいるとはいえ、父を止めようにも力では敵いません。どうにか二人を手元に引き取りたいのですが、情けない話、自分の生活で手いっぱいで」
悔しそうにサレイは俯いた。固く握りしめた拳が細かく揺れている。
自分は彼らを残して逃げ出したのではないか。自分が残っていればなんとかなったのではないか。
そんな思いに取り憑かれながら、父の元に取り残された家族を思い、兄は我が身の不甲斐なさを嘆く――ケリファは思わず天を仰ぎ見た。
崇高なる神々が住まう天は何も言わない。ただ平素と変わらぬ色を以って静かに見下ろしてくるだけだ。
(なんと、なんという……)
言葉もないケリファのしょげきった顔を見てサレイはようやく軽く微笑んだ。
気分を切り替えたというよりはケリファを慮ってのもので、それが余計にケリファの胸を締め付ける。
「すみません。貴女にこんなことを言っても仕方がないのに」
「いや、いいんだ……こちらこそ、すまない。辛い話をさせてしまった」
「……わたしの辛さなど、あの子の辛さに比べたら軽いもんですよ。さあ、薬草を探しましょう」
それから二人は無言で薬草を探し始めた。
やはり土地勘のある者がいると作業が捗る。ケリファ一人ではなかなか見つけられなかった薬草もあっという間に必要量が集まった。
薬草は、先端から中央にかけてうっすらと青みがかった卵型の柔らかな葉を持つ茎の短い草で、かすかに清涼感のある香りがする。これをよく揉み幹部に貼ると痛みと腫れがひくらしい。
「それでも……それでも、レンは父を信じているんです。酒と賭博をやめて真っ当になってくれると。それが一番辛いです」
サレイは採取した薬草を神池の水で洗う手を休めることなくそうこぼした。
その言葉がケリファの心を深く、深く抉る。
返答に窮し、しっとりと輝く豊かな深緑に視線を巡らせた際、ケリファはふとあることに気づいた。
「汝らの父は賭博をするのか?」
「……ええ、闘鶏を。祖母が村の雑用を引き受けて得たわずかな報酬や、元々の家業だった酒作りで得た金をつぎ込んで、勝っては負ける。その繰り返しですよ」
勝った時はまだいい、負けた時が地獄だとサレイは呟いた。
ケリファは彼の独白を黙って聞いていたが、今度は言葉が出ないという訳ではなかった。脳裏に過ったあるものの姿を具に捉えていたのだ。
酒臭い息、どんよりと濁った眼、その癖、目の奥には暗い熱を熾火みたいに燻ぶらせた覇気のない男。一羽の鶏をこれ以上はないという風に大事そうに抱えていた――
(そうか、あやつが。レンをあんな目に遭わせた男か)
それまでは姿なき化け物のように茫洋としたままであった『父』の姿が、はっきりと形を得たことでケリファの怒りが沸き立つ溶岩よろしく膨れ上がった。
(許せない! 何としてでも償わせてやる!)
人違いだとは微塵も思わない。元女神の研ぎ澄まされた、シャルアン曰くの動物的な勘がはっきりと告げている。あいつで間違いないと。
この憤りに身を任せてサレイらの父の元へ殴り込んで行きたかったが、まずはレンの手当てが先だ。
沸々と滾るものを苦労してどうにか押さえ込み、ケリファは薬草を抱えて皆の元へ戻ることにした。
「遅かったな」
「すまない。探すのに手間取った」
皆の居るところまで戻ったケリファは、シャルアンの鷹揚な声に少し落ち着きを取り戻すとレンの前にそっと屈み込んだ。
サレイの姿はない。
三人で暮らすために少しでもお金を貯めようと幾つもの仕事を掛け持ちしているらしく、次の仕事があるといってレンのことをひたすらに気にかけつつも去って行った。傷ついたレンの姿を目にしたくなかったのかもしれなかった。
シャルアンの胡床に座らされたレンは、小さき王の如くにシャルアンやライナーマ、私兵団の面々を背後に従えている。本人は慣れないことに少し落ち着かない様子でケリファを見つめてきた。口の端に滲んでいた血は拭われたようであるが、腫れた頬や鬱血は未だ痛々しい。
(……そうか、だからあの時――)
ケリファは香りが立つほどによく揉み込んだ薬草を患部にそっと当てながら先日のレンの様子を思い出した。
振り上げられたライナーマの手に怯えて顔面蒼白で縮こまるレン――それは、力の源である酒を食らい化け物へと変貌した恐ろしい父の折檻に怯える子の姿であった。抗う術のない暴力の象徴があの発作を引き起こしたのだ。
ケリファは唇をきつく噛んだ。気づいたシャルアンがちらりとこちらを見る。彼の視線は何があったと問うていたが、素知らぬふりをする。
薬草が落ちないように布で固定するとケリファは意を決して口を開いた。
「レン……」
「なに?」
レンがわずかに笑っているのは、歯痛の人みたいに布で顔をぐるりと巻かれた自身の姿が少し滑稽だったからだろう。
ケリファも彼へとぎこちなく笑い返しながらレンの小さな手をそっと取った。
「あ、そうだ! 昨日言ってた王妃様の宴に持っていく代わりの物なんだけど、良いものがあるんだ。きっと王妃様も気に入ると思うよ」
「汝が誰に傷つけられたのか、知っている」
びくりと大きく身体を震わせたレンの笑みが凍りついた。
ケリファは自身の言葉で再び彼を傷つけているのではないかと言い淀む。
そもそも弁が立つ方ではない。もっと何か上手い言い方があるのかもしれない。他の誰かなら彼の心に添うような言葉を紡げたかもしれない。
しかし、黙ってはいられなかった。
「汝の兄にすべて聞いたんだ。汝の父が、汝や汝の家族にしてきたことを」
「な、何言ってるの?」
「痛かったろう、怖かったろう。自分の子をこんな目に遭わせるなんて、なんてひどい奴なんだ、汝の父は。本当に許せない! どうにかして贖わせたいんだ! ……レン、わたしに何かできることはないか?」
途端に激しく手を振り払われた。思いがけない仕草にケリファは茫然とする。
両手を自分の胸元に引き寄せたレンは口の端に再び血が滲むのも気にせずに叫んだ。
「あなたが何言っているのか全然! 全然分からないよ!」
「レ、レン!」
レンは後退りながら手負いの獣のように身を丸め、全身でケリファの言葉を拒絶する。
いや、ケリファの存在――自身の父を否定する存在自体を拒絶していた。
「ぼくに兄さんなんていない! お父さんに何もされてないし! ぼくのお父さんを悪く言うのはやめて! ぼくは大丈夫だから、放っておいて!」
涙交じりの言葉を投げつけて彼は駆け去った。
彼の背中を追うことも出来ず、ただ何も掴めなかった手を伸ばしたまま、ケリファは悲しげに眼を瞬かせた。
その場を重い沈黙が支配する。
ゆるく腕を組んだシャルアンはただじっとケリファを見つめるのみで、私兵団の皆はおろおろとケリファとレンが去った方向を見比べるだけだ。ライナーマは昨日の自身の行いを恥じ入るように視線を落とし、上腕の辺りをきつく掴んでいる。
(愚かなことをしてしまった。傷だらけの柔らかい心に土足で踏み込むような真似をしてしまった。ただレンの父が許せなくて、レンを守りたいだけなのに結局苦しませた……!)
後先考えずに自身の突っ走る思いで、出会って間もないのに触れられたくないであろう深いところに踏み込もうとしてしまったのだ。拒絶されて当然ともいえる。
ケリファは急激に後悔が込み上げて来て髪を掻き回した。人目さえなければ頭を抱えてその辺を転げ回りたい。
サレイが言っていたようにまだ父を信じる――信じたいレンには、他者から望みもしない現実を突きつけられるのは酷なことに違いなかった。
力で打ちのめされた身体の痛みは元より、血のつながった父からの精神的な断絶が何よりも彼を苛む。
(……兄はいないなんて、そこまでサレイのことを?)
図らずも置き去りにする形になったことでレンとの間に溝が出来てしまった。レンはきっと自分のことを許さないだろう。
サレイが寂しげにそう言っていたのを思い出し、余計にケリファは落ち込んだ。
常々姉に言われていなかったか。大事なことを口に出す時は、それが果たして最善といえるのかをよくよく考えてから口にしろ、と。
言葉というものは時に刃よりも鋭く他者を傷つける上、治癒には刀傷のそれよりも遥かに時間がかかる。永きに渡り癒えぬ傷を抱えることになる者すらいるのだから、重き言を放つ者はそのことを念頭に置いておくべきだ。
けして饒舌な方ではない姉だが、よく考え発したその言葉は必ず的を射ていたことを思い出す。
(どうしよう。どうしたら良かったのか? 姉上、わたしは……馬鹿だ)
俯くケリファの足を何かが掴み地面に引きずり込もうとしている。勿論誰かがそのようなことをしている訳ではない。
シャルアンがいよいよことの事態を説明しろと無言の圧力をかけてくるので、渦巻く後悔に追い立てられながらケリファは重い口を開いた。