Ich klage an! 怒れる男たち
Ich klage an!=私は告発する!(ドイツ語)
現代では、人の心はかつてなく近づいている――
私は何とも言いがたい孤独感と共に目を覚ました。砂漠、あるいは大海の真ん中で遭難した人の気分、といったところだろうか。
静寂。いつもなら聞こえる心地良い喧騒が聞こえてこない。物理的に空気が振動するという意味での音ではなく、脳に直接流れ込んでくるざわめきのこと。編み込まれていないからだ。
編み込む、とは十年ほど前に発明された新しいコミュニケーション技術に由来する言い回しだ。網などと大雑把なものではなく、誇らかにレースワークと呼ばれる技術。一本の糸が繊細なレースを織り成すように、参加者同士の脳をつないで、遠くにいながらその場にいるような感覚で感情や情報を交わすことができるのだ。
私の交友関係は全世界の様々な年代の人に及んでいるから、本来ならいついかなる時でも彼らの声が聞こえるはずなのだが。
せめて早く身近な仲間に合流しようと、手早く身支度を済ませる。シャワーを浴び、顔を洗ってヒゲを剃る。鏡の中の自分の顔はどこか不安げで滑稽だった。
身支度を整えて食堂へ向かうと、皆考えることは同じなのだろう。臨時の同僚たちが顔を揃えていた。
「おはよう」
「遅かったじゃない」
口々にかけられる挨拶に笑顔で応える。人との触れ合いはかくも楽しい。
「よく眠れてないのかな。《編み込まれて》いないのは数年ぶりだから」
「そう? 私は慣れてきたけど。むしろこの方が落ち着くくらい。もう《編み込ま》なくて良いかも」
同僚の一人が小首を傾げた。短く整えた黒髪の、若く可愛らしい雰囲気の女性。理知的な語り口と好奇心に煌く瞳は、正直に言ってかなり好みだ。《編み込まれた》時なら思うだけで好意を伝えられるのに、今の状態では口に出さないと伝わらない。それはさすがに気恥ずかしくてできなくて、もどかしい。
「俺はその境地には至れないな。中毒と呼んでくれて結構。さっさと終わらせてレースワークに埋もれたいぜ」
冗談めかした口調で言うのは、また別の同僚だった。仕事の上では彼とは対立しているが、ことこの部分に関しては心底同意できた。
彼の発言を受けて、リーダー格の年配の婦人が軽く手を叩いた。
「それじゃあそろそろ移動しましょうか。今日こそ全員一致を目指しましょう」
この仕事、という言い方はもしかしたら適当ではないかもしれない。何せ交通費と期間中の衣食住の保障のほかは、学生のアルバイトにも劣る日給しか支給されないからだ。しかし、市民の義務、市民の権利という観点からはこれほど重要な仕事もそうはない。
法廷に市民の感覚を持って臨む。冷徹で浮世離れした裁判官に対する良心と常識の盾。
私たちは陪審員として召集されたのだ。
「被害者たちは当然の報いを受けただけ、殺されて当然の連中だ。被告は無罪だ」
「被告は法廷に裁きを委ねるべきだった。感情論で復讐を認めるなんて、現代社会への冒涜よ」
「女性のあなたがそんなことを言うなんて意外。私たちは市民感覚を求められてここにいるのでしょう。動機からして被告が他の人を襲う心配がないのは明白。彼の気持ちを汲んであげても良いんじゃない?」
私たちが扱う事件の被告は殺人罪に問われている。彼の恋人が暴行され、それを苦にして死を選んだ。彼は復讐として加害者たちを手にかけたのだ。
事情が事情だけに陪審員も意見が割れている――というか無罪にすべしという論調が強い。例の短髪の彼女は有罪派。私も法には従うべき、という意見だが、なにぶん数に押され気味だ。
「動機はどうあれ罪は罪として――」
「同僚諸君は無罪の方が優勢かな。さっきも言ったが早く終わらせたいんだ。空気を読んでくれよ」
援護しようと口を開くも、茶化すような横槍に黙らされてしまう。
陪審員の中立性と報道の自由のバランスは常に課題だった。ましてこんな時代では、事件の報道に触れないのはほぼ不可能だ。結果として私たちはレースワークから切り離されて缶詰状態を余儀なくされている。
節度ある使い方をしているつもりの私でさえ違和感が拭えないのだ。中毒を自称するような連中には耐え難いのだろう。発言した男以外の何人かも、早く同意しろという顔をしている。
「そんなに《編み込まれ》たいの? さっさと適当に終わらせて、市民の義務を蔑ろにしたと、全世界に発信するのかしら」
意見を変えろとほのめかされたのには触れず、彼女は皮肉っぽく切り返した。すると中毒者たちは目に見えて鼻白む。
編み込まれる、か。脳神経をお互いに繋ぎ合っているような感覚が、確かに懐かしい。現代では、人の心はかつてなく近づいていると言われている。言葉が足りなくて誤解するということはないし、真剣な思いは必ず相手に伝わるのだ。こんな状況にいるとそのありがたさがよく分かる。
まあ、危険性も指摘され続けてはいるが。
「被告も《レースワーク》に編み込まれるかな」
呟くと、何を言っているんだと言いたげな複数の視線が突き刺さる。
「いや、彼と繋がったらどうなるかな、と思ったんだ」
考えを伝えるのにいちいち言葉を使うなど久しくないことだった。陪審員同士だけでも繋ぐことはできないのかな、何て思う。ちゃんと分かってもらえるか不安で、もどかしい。
「人を殺した人間、それほどの憎悪を抱いた人間。凶器はナイフか。人を刺す感覚、返り血を浴びた感覚、そんな記憶を持った人間。そんな心と繋がるのは、どんな気分かと思ってさ。
理解できないというなら被害者も一緒だし、野放しになっている犯罪者もいるんだろうが……罪を償うというのは、被告だけではなく、受け入れる我々にとっても必要なステップなんじゃないかな」
皆の表情が変わったのが分かった。レースワークに接続する人間は増えているが、参加率の低い職業というのは存在する。守秘義務のある弁護士などの司法関係者、警察、そして軍人。他人の人生、他人の生死に関わる感情というのは、いまだに隠すべきだとされているし、我々一般人だって容易に触れてはいけない領域だと理解している。
「そう、ね。私だって子供も孫もいるもの。被告が何のフォローもなくあの子たちと繋がったら――あまり考えたくないわね」
老婦人が噛み締めるように言った。今まで暴行された女性の立場にいたく共感していた人が。
「じゃあ、もう一度事件をおさらいしてみましょう」
総括したのは敬愛すべき彼女で。
それからの話し合いは、これまでよりもずっと熱のこもった真摯なものになった。
「ご協力に感謝します」
まる二日の議論の後、全員一致で出した結論を裁判長に伝えると、彼は穏やかに微笑んだ。
髪に白いものが混ざり始めた老齢の男性。真っ直ぐに伸ばした背筋といい、品の良い銀縁の眼鏡といい、謹厳実直を絵に描いたような人物だ。当然のようにレースワークに繋がったことはないのだという。今どき珍しい。
「お待たせしてすみませんでした」
老婦人が恐縮するのを、彼は鷹揚に遮った。
「私共は迷うことなく粛々と進めてしまいますから。時間を掛けて考えていただくことこそこの制度の目的でしょう」
「大変貴重な経験をさせていただきました」
彼女の言葉は私たち全員の思いを代弁している。ごく原始的なやり方――言葉を使って意思を伝える。伝えるよう努力して表現を選ぶ。相手の考えを推し量り歩み寄る。現代においてはなかなかない状況だった。
脳を繋ぐレースワークよりも、よほど密な関係を築けたような気さえする。
「まあ、これでやっと日常に帰れる訳か」
自称中毒者の軽口も、ちょっとした諧謔であり照れ隠しだ。表情と口調だけでも分かる。多分、昔の人間はそうやって付き合ってきた。
「連絡先を交換するのは禁止じゃないんですって」
つかの間の同僚たちが次々に去っていく中、彼女が話しかけてきた。
「え、でも君はしばらく《編み込まれ》なくても良いって……」
思いもよらない申し出、と言っていいのだろうか。からかわれているのか、彼女も私に好意を抱いてくれているのか。慌ててどもってしまうのが我ながら情けない。
「レースワークで繋がるだけが連絡じゃないでしょ。メールでも、古式ゆかしく手紙でも。実のある議論ができたのはあなたのおかげよ。このままお別れじゃ寂しいわ」
屈託のない微笑みを、額面通りに受け取って良いのだろうか。やはり人の気持ちを慮るというのは難しくて恐ろしい。
「これ、私の連絡先」
メモを渡され、触れた指先の暖かさにやっと我に返って僥倖を信じる気になれた。備品の筆記具を使って、私の連絡先を走り書きする。
「私は再接続の処置を受けてくる。君は時間あるか? 待っててくれるならこの後食事でも――」
「もちろん、待ってるわ」
私に最後まで言わせず微笑んだ彼女。細めた目、弧を描く口元、わずかに覗いた白い歯。どれも、ひどく眩しかった。
天にも昇るような、というのは今のような気分のことを言うのだろう。私は数人の仲間たちと肩を並べて、いそいそと再度レースに《編み込まれる》ための処置を受ける。
この幸福感を、私に繋がる人全員に伝えたい。守秘義務に反するから事件に関することは言えないが、貴重な体験ができたこと、言葉を尽くして分かり合うことの素晴らしさも。やっぱりこの技術は素晴らしい。私の体験を、考えを皆に叫ぶことができる。
「あああ……っ!」
となりから聞こえる呻き声に、浮かれた気分に水を差される。目を向ければ、レース中毒を自称した男が脂汗を流して頭を抱えている。
「……どうした?」
ただならぬ様子に、彼の方へ手を伸ばす。と、次の瞬間、私も何が起きているのか悟ることになる。私も再接続が完了したのだ。全世界の友人知人の思考が私の脳に流れ込む。
――有罪だって! ひどい!
――なんでこんなことが?
――彼は正しいことをしただけじゃないか。正当な復讐だ!
――陪審員は何を考えてるんだ! レイプ犯の味方か!?
――抗議しよう。法廷に正義を!
――裁判官も陪審員も死ね。
――弾劾を!
口々に我々を罵り、被告を庇う人々の声、声、声。この事件はこんなにも注目を集めていたのか? いや、多くの人が繋がっているゆえか? 一人ひとりの憤りが集まり増幅してこんな大きなうねりとなったのか。
繋がること自体が久しぶりな上に、心の準備もなく怒りと罵声を浴びせられて、意識が朦朧とする。
「何かあったの? 声がしたわ!」
彼女の声。部屋の外にいたはずだが、彼女にも聞こえるほどの異様な声だったのか。ほんの少し、正気を取り戻す。それでもあまりの衝撃に、身体が自由に動かない。
ゆらり、と傍らの男が動いた。彼の心も伝わってくる。彼女への憎悪。我々に向けられた負の感情を、彼女のせいにしようとしている。直接ではなくても、彼と私の友人がどこかで繋がっているのだ。
「あんたの口車に乗ったのは間違いだった。今からでも遅くない、評決のやり直しだ!」
彼の意図さえ手に取るように分かる。彼女の首を絞める彼の手を、私は自分のもののように見た。快哉。繋がっている人たちが彼女への罰を望んでいる。正義を行った被告を有罪にした悪者への罰を。
脳を支配する悪意に、なぜ立ち向かえたのか分からない。
気がつくと私は彼女を庇って男ともみ合っていた。視界の端で彼女が助け起こされるのが見える。安堵が湧き上がるのと同時に、不満の溜息が世界中から聞こえてくる。
呆然と佇む彼女に、私は悲しく微笑みかけた。
「すまない、食事には行けそうもない」
それだけ言うのも一大事だった。好ましかったはずの彼女の姿が、今は正視するのが難しい。取り押さえた男と同じように彼女に襲いかかってしまわないとは、自分でも保証ができなかった。世界中から浴びせられた憎悪が、私をすっかり染めてしまったのだ。
現代では、人の心はかつてなく近づいている。良い意味でも、悪い意味でも。