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Hunger 抑えがたい欲望

 白く小さな円が妙に遠く、ぼやけて見えた。中天にかかる太陽だ。

 太陽を直視したら目が悪くなる、と言われたのはいつだったか。しかし視線を動かす力もなくなった今、他に見るものもない。

 霞んだ視界に映る太陽は雲の中にいるように輪郭が朧だった。それなのに降り注ぐ熱線は容赦なく肌を焼き、唇をひび割れさせる。血の一滴でも流れたなら甘く喉を潤したかもしれないが、乾ききった傷口はその程度の慰めさえ与えてくれなかった。


 日陰を求める。水場へ行く。そんな体力は失われて久しい。


 空腹が耐え難かったのも遠い昔のことだ。最初は飢餓感に臓腑を抉られるようだった。今は体の中が内臓も肉も削り取られて空っぽになったよう。皮一枚だけ残った状態で、飢えが生命までも食い尽くそうとしているのをじっと待っている。


 視界に黒いものがよぎり、一瞬雨雲か、と期待する。耐え難い苦しみの一方で、少しでも生を繋ぎたい本能がまだくすぶっていた。

 しかしそれは眼球に止まった蠅だった。

 生きている者には寄って来ないはずの虫にたかられている。

 そう気づいて、ここまで磨り減った自分はもう死んでいるのだなと思った。




 端子を外され覚醒させられた少女は、目を開くと同時にぽろぽろと大粒の涙をこぼした。


「ごめんなさい、ごめんなさい……! もう二度としないから……」


 頬を涙で汚しながら頻りに謝罪を繰り返す少女は、カウンセラーに肩を抱かれて部屋を後にした。




「効果覿面でしたね」


 湯気の立つコーヒーに口をつけながら、助手が言った。彼も自分のカップを受け取ると、ミルクをたっぷりと入れて頷いた。


「やり過ぎたくらいだ。思春期の子供に餓死の記憶はキツ過ぎる」

「自分で躾ができない親というもの困りものですね」


 助手は少し皮肉っぽく笑い、彼は同意の証に肩を竦めた。


 少女に見せられたのは、二百年前の子供が餓えで死に行く時の記憶だ。あれを見た後では、二度と食べ物を無駄にしようという気は起こるまい。

 彼女は拒食気味だということで親に連れてこられたティーンエイジャーだ。病名がつくほどのことではない。ダイエット熱と年頃の少女ならではの反抗心から、親が作った料理をひっくり返しただけ――と言えるのは彼が部外者だからなのだろう。親の愛情を踏みにじる娘の行動に狼狽えた両親は、慌てて彼女をここへ連れてきたのだ。

 ここ――即ち、人類の記憶の集積所に。




 人の脳の研究が進んだ結果、記憶の保存と再生の技術が確立された。

古臭いSFあるいはマンガによくあるイメージのように、頭にコンパクトディスク――この媒体自体が想像力の限界を感じさせる――を差し込むようなものではない。脳の電気信号を記録・再現するためにはもう少し大掛かりな装置が必要となっている。端子で被験者の脳と装置を結ぶことで、あたかも自身が経験したことのように過去の記憶を見ることができるのだ。

 この技術を得た人類は、失われていく記憶の保存に務めてきた。絶滅危惧種の標本を集めるように。

 近代化に伴って消滅した民族の伝統的かつ宗教的な生活。ダムに沈む森、埋め立てられた海岸の風景。今はなくなった――形を変えただけで現存しているという見方もあるが――貧困や戦争、暴力や差別の記憶。


 とりわけ最後に挙げた記憶は、人類の教訓として厳重に保管され、廉価な再生装置が開発されてからはここのような施設で教育・矯正の目的で使用されている。

 暴力的な傾向の子供には、独裁者に虐げられた市民の屈辱と恐怖の記憶を。

 薬物に興味を示す子供には、生きながら身体が朽ちていく現実と牙を剥く妄想の間で怯える中毒者の記憶を。

 幾つかは拷問目的で集められたであろう記憶は、子供に争いを忌避させ、平和的で思いやりのある人格の育成に絶大な効果がある、とされている。

 美しくはあっても現実的ではなかった「人の立場になって考えましょう」という題目が可能になったのだ。


 なお、このように脅すような目的だけでなく、よりポジティヴな利用方法もある。初めて義手義足をつける障碍者に健常者の歩行や走行の記憶を見せたり、劣等生に世界的な舞台で喝采を浴びるスポーツ選手の記憶を見せて自信をつけさせたり、といったものだ。

 ともあれ、この施設には様々な事情を抱えた様々な子供とその両親が訪れる。生来好奇心と野次馬根性の強い彼にとっては、人間観察できるという点で天職と言えた。




 次に彼が担当したのは十歳の少年だった。頬の絆創膏が目立つ。クラスメイトを突然殴った粗暴性が問題視されて、カウンセリングを――そして効果が見られない場合にはしかるべき記憶の体験を――受けるべく連れてこられたのだ。


「何がいけなかったのか、分かるかな?」


 拗ねた表情の少年は、唇を固く引き結んでしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「顔を殴ったのがダメだった。フレッドにチクる度胸があるなんて思ってなかったし。

 腹でも殴って口止めしとけば良かった」


 フレッドというのは被害者のことだろう。それはともかく、反省の色のない少年の放言に彼は内心頭を抱えた。

 この施設に勤める身で言うのも何だが、彼としては、記憶装置は誰にでも使って良いものではないと思っている。この場合、教訓として処方される記憶は虐待された子供、あるいは拷問を受けた無実の被疑者のそれか。幼い少年が受けるショックを考えると、できればそんなことはしたくない。

 しかし、暴力を振るっておいて良心の呵責がない子供は危険だ。今のうちに矯正しなければならないのもまた事実。


「もし君がいきなり殴られたらどう思うかな? 痛いし悲しいし、何で、って思うだろうね。フレッドもきっと嫌だったんじゃないかな?」


 方針を決められないまま、彼はごく無難な説教をした。すると、少年はバカにしたように鼻を鳴らした。年齢に見合わない、立派な嘲笑だった。


「痛いのも嫌なのも分かってる。だからやってやったんだ」


 これには彼も一瞬絶句した。大人としてのプライドで表情を取り繕うと、声を低くして厳しく告げる。

 

「人の痛みを想像できない人間は社会に害をなす。君があくまでも他者を傷つけて悔いないというなら、その痛みを、その記憶を身をもって知ってもらうことになる」

「あんたも想像してないじゃん」


 醒めた目で見つめられて、彼は再び言葉を失った。


「父さんも母さんも先生も。誰も聞かないんだ。何で俺がフレッドにああしたか」

「何だ? 何か事情があったのというか? ええと――」


 彼は少年の名前を覚えていないことに気付き、慌ててカルテに目を走らせた。


「ジョーイ」

「そう、ジョーイ、君がフレッドにしたのは――」


 少年――ジョーイはうっそりと笑った。


「フレッドはいつもダニエルを虐めてた。ダニーは器用だから図工ではすごいのを作ってたのに壊したり隠したりして……。

 何度言っても聞かないから、ダニーの代わりに俺がやってやった。それがいけないことなのか?」

「理由が何であれ暴力は良くない……」


 かろうじて答えたものの、ジョーイの迷いなさに比べて、彼の言葉はあまりにも頼りない。そして、ジョーイの言葉を反芻してその意味に気づき、慌てて付け加える。


「フレッドもイジメをしてたんだな? それなら言ってくれれば良かった。いや、今からでも。君の言うのが本当なら、記憶の処方を受けるのはフレッドの方だ」


 彼の提案にもジョーイはさほど心を動かされた様子はなかった。むしろ疑わしげに首をかしげる。


「記憶装置ってやつ? 昔のことを体験できるってやつ」

「そうだ。虐められる側の気持ちが分かればフレッドだって」

「それって自分がそういう目に遭ったら嫌だからもうしないってことだろ? それって自分のことしか考えてないのとどう違うんだ?」

「それは」


 違う、と言わなければならない。しかし、否定しても説得力がないことを彼自身が良く知っている。

 記憶装置の特徴は、記憶の持ち主の感情をも体験できることにある。虐げられた者の心の傷を、無理に味わわせるのだ。もちろん処置前後の入念なカウンセリングは必須だが――傷が目に見えないというだけで、言っても聞かないから暴力に訴えるのと何ら変わりはない。

 さっきの偏食の少女への処方に対し、彼だってやり過ぎだと感じたのだ。


「俺はそんなのなくても分かったよ。ダニーが辛くて悲しいのも。フレッドが言っても聞かない奴だってのも。普通、見てれば分かるんじゃないか?」


 またも先ほどの少女のことを思い出す。親の躾の範疇のはずだろう、と彼も助手も思ったのに。


(いつからだ? いつから俺は、俺たちは記憶装置に頼るようになった? 他人の記憶は飽くまでも他人のものなのに、自分自身の糧にできると、どうして信じてるんだ?)


 人の気持ちなど自分で想像できるはずもの。そうできるように教えるのが大人の役目のはずなのに。こんな少年に指摘されるまで気付かなかった。

 ジョーイはさらに呟いた。


「俺は間違ってるのか、先生。頭がおかしいのは俺なのか?」


 違うはずだ、とその目が語る。

 彼はそこに餓えを見た。少女のファッションのような断食や、貧しい子供の飢餓とは違う、魂の餓えを。正義と公正を求める人の本能のような餓え。


(この子は正しい。だがこの子の正しさは今の社会では歓迎されない……)


 周囲に合わせることを教えるのが今の大人の役割らしい。ジョーイの純粋な疑問と正義感はこの世界では異物とみなされ、彼に害をもたらしかねない。


 しかし彼の中でもまた別種の飢えが目を覚ました。知ることへの餓え。この子の純粋さが摘み取られずに育ったなら、この社会を変えられるのか知りたい。そう、彼は生来好奇心が強いのだ。


「君はとても賢いようだ……」


 彼は慎重に言葉を紡いだ。彼がしようとしていることは、彼自身の立場を危うくしかねないものだった。初めて会った子供のために。それでも結果を知りたいという欲は止められない。


「君はこれから記憶の処方を受ける。だが見せるのは痛いものや辛いものではない。少なくとも肉体的には……。

ご両親や学校の先生には嘘をついてもらわなくてはならない。そうしなければならないのだと、分かってくれ。代わりに教えてあげよう。なぜこんな世界になったのか。なぜ君がおかしいと思われてしまうのか」


 人類は記憶装置の開発以来、偏執的にあらゆる記憶を集めてきたのだ。その中には、当然開発した者たちの記憶、この技術を教育制度に組み込んだ者たちの記憶も含まれる。関連する議論の中で反対し、最終的には敗北した者たちのものも。


 ジョーイは彼の言うことをどこまで理解したのか、不思議そうに、けれど確かに頷いた。


「俺が悪いって決めつけない人は初めてだ。先生の言うとおりにする」




 ジョーイを装置に寝かせて、端子の用意をしながら彼は思う。この子はどんな大人になるのだろうか。現実を知って、本心を隠して自分を曲げることを学ぶだろうか。


(そうはならない。させない)


 高潔な正義感。下世話な好奇心。いずれも人間の心に深く根ざし、歴史を作ってきた欲求だから。

 自分に持てる全てを賭けて、この子がどう世界を変えるか見守ろう。

 彼はそう決意した。

「私は知ってる」(http://ncode.syosetu.com/n3597ci/)は本話の後日談になります。

よろしければ併せてお読みください。

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