Fall 恋に堕ちる
奴らは俺の両腕を抱えて荷物みたいに運んでいく。
つま先が階段を掠るのはほんのたまにで、まるで宙を飛んでいるよう。
落とす前に飛ばしてくれるのか。気が利いていると言えるのかどうか。
奴らが気に入らない連中にすることは知れ渡っている。この地球で一番高い建造物、役目を失いつつある軌道エレベーターの頂上から飛ばす――落とすのだ。地上に叩きつけられるまでにたっぷり時間がかかるから、犠牲者の恐怖心からも、見る者に与えるインパクトからも、見せしめとしては上々のやり口という訳だ。
エレベーターから降ろされて終わりかと思いきや、まさかご丁寧に抱えて徒歩で連れて行くのだとは想像だにしていなかったが。まあ本来なら人の落下など絶対に防ぐべき事態なのだから、どこかで非常口のようなルートを使う必要があるということなのだろう。
それにしても、現代の人間の高さに対する執念には笑わせられる。
戦争と環境汚染で地球を破壊し尽くしたから、住む場所を宇宙に移した。今では地上とは月や火星、宇宙ステーションを指す言葉だ。地球はめでたく地獄に格上げ――格下げなのか? ――された。
昨今呼ばれるところの地上世界、俺たちにしてみれば天上世界に上がれるのは金や健康や才能に恵まれた者だけ。残された俺たちは方舟に乗り損ねた人間、ロト以外のソドムの民ということだ。
宇宙に行けなかった人間はどうするか。有毒物質渦巻く地上で大人しく死を待つなんて有り得ない。地獄の底では地獄なりの階級が生まれている。
つまり、より高い場所にいる奴が偉い。
汚染された大地からできるだけ離れていたい、なんてのはただの建前だ。既存の秩序が崩壊した今、豚の頭よろしく分かりやすく目に見える権威が必要なのだ。
腐食した危険な高層ビルでも住もうとする連中は後を絶たないし、軌道エレベーターに至っては奴ら――俺を飛ばそうとしてる連中だ――に占拠されている。残り少ない宇宙への切符、その分配権も奴らの手中だ。マフィアなんて呼び方は古臭い。奴らは悪魔を自称してる。神様がいないなら悪魔がこの世を支配するのも当然ということだろう。
つらつらと考える間にも俺の身体は高みへと運ばれていく。両腕を抱える男たちの荒い息が不快に耳を打つ。すでに人体を破壊するのに十分な高さに到達しているだろうに。律儀に決められた階層まで行かなければならないらしい。悪魔には悪魔のルールがあるということか。全く無駄な労力だ。
思えば、落ちるのに縁がある人生だった。
親が病気になったおかげで、弟妹たちを養う責任が俺に降りかかった。まともな友人は俺から離れていった 。食うに困って悪魔の手先になって、そしてヘマをしてこのザマだ。
最期は文字通り落ちて終わるとは。皮肉が利いていて良いじゃないか。
「何笑ってやがる」
苦笑が浮かんだのを見咎められて、右側の男に小突かれた。既に手酷く殴られているから結構痛い。俺のおかげで余計な重労働を課せられたのだから、気持ちは分からないでもないが。
「思い出し笑いだ。気にするな」
それでも痛めつけられたのは根に持っているのだ。もっと苛立たせてやろうと余裕ぶって見せれば、
「女のことでも考えてたか」
今度は左側の男が俺の腕を捻った。たまらず呻きを漏らすと、両側から満足気な嘲笑が聞こえた。痛みと怒りを、彼女のことを想ってやり過ごす。
彼女。彼女のことを何て呼べば良い。荒野の白百合。地獄に迷い込んだ天使。俺の全て。クソ、語彙のなさが忌々しい。とにかく綺麗で清らかで。何でもしてあげたいと思った。
今の地球で最高のプレゼントなんて分かりきってる。この腐りきった地上から逃れる切符。月や火星での安全で豊かな生活。天使を楽園に帰してあげようと、そう思った。
彼女は若く健康で、宇宙に行ける基準を満たしていた。金もツテも、その気になればどうにでもなる。問題だったのは、悪魔の上の方にいる奴が彼女を狙っていたこと。
いや、それさえも俺にとっては僥倖だったのかもしれない。彼女に偽の身分証を用意して、その男を欺いて。彼女のためにやってあげることができた。こんな俺が。天使のために。
事が露見して落とされるのも想定のうちだ。隠しきれるものじゃない。だが、彼女は既に地球の重力圏から逃れている。悪魔の手から逃れて。彼女さえ無事なら俺が生きようと死のうと大したことじゃない。
不意に風が腫れた頬を撫でた。有害物質が傷に染みるということはない。一体どれくらいの高さなのだろう。重い瞼を上げて下界を見下ろせば、薄い雲越しに赤茶けた大地と黒い染みのような都市が広がっている。
俺を運んできた奴らを憐れみの目で眺める。はるばるご苦労、という訳だ。
「お前は馬鹿だ、女一人のために」
視線に気づいて、一人が憎々しげに言った。
「知ってる」
もう一人が言った。
「あいつには他に男がいたぞ。自力で宇宙に行けるエリートだ。お前は利用されただけだ今頃あの女はそいつと笑ってるだろうさ」
俺は笑った。声を立てて。
「それも知ってる」
嘘だったが。俺が動揺して悔しがる様を見たいという肚は分かっていたし――そんなことは俺には関係ないことだ。大事なのは、この俺が彼女の役に立つことができたということ。クソみたいな人生が全くの無駄ではなく、俺のおかげで彼女が笑えているということ。
だから、彼女の真実なんて本当にどうでも良いんだ。
「早くしろよ。そのためにわざわざここまで上ってきたんだろ?」
安い挑発も疲れきった男達にはよく効いた。奴らは舌打ちすると、俺を宙へ放り出した。
浮遊感が全身を襲う。無重力。空を見る。青い。彼女がいるところ。天国? 一瞬このまま飛んでいけるような。泳ぐように手足を動かす。だがもちろんそれは気のせいで。
俺は堕ち――