Euthanasia 限りない自由
Euthanasia=安楽死
患者はベッドの高さや角度を細々と指示し、やっと理想のポジションに落ち着いたようだった。
ベッドから半身を起こせば、カーテンを取り払った窓からは荒涼とした砂漠を臨み、ちょっと顔を横に向ければ壁に備え付けた画像再生装置も見える。そんな体勢だ。
「ありがとう。これでお願いします」
満足そうな患者。その腕の静脈に医師が針を刺し、透明な液体が入った点滴をセットする。
「標準時で十時間後――月が中天にかかる頃に効果が現れます。ご希望通りで間違いありませんね?」
医者は月に複数形を使った。この惑星は二つの衛星を持っているのだ。患者は満面の笑みで頷き、再生装置を示した。
「ええ。故郷が誇る二つの月を見ながら最期を迎えたい。BGMも用意してあるんですよ。一番好きな映画のエンドロールなんですが、ちょうどその時に流れるように準備してあります」
傍観者としてやり取りを眺めていた立会官は、チェックリストのYES欄に印をつけた。――処置にあたって、患者の要望を最大限叶えること。また、変更がないか確認すること。
月が二つある星はここだけじゃないんだけどな、という呟きは心の中に留める。彼はそれを言う立場にない。それに、色だとか大きさだとか、この患者にしか分からないこだわりがあるに違いないのだ。
そんなに好きな映画なら最新の装置で見れば良いのに、と指摘するのもきっと無粋なのだろう。室内の装置はどう見ても二世代は前のものだったが、この処置を希望する人間はたいていどうしようもない懐古主義者だ。古いのが良いというなら引き下がる他ない。何せ個人の自由というものは何よりも尊重すべきものなのだから。
患者は映画――もちろんこの惑星で撮影・発表され、他星では出回っていないものだ――のストーリーを医者に語っている。にこやかに付き合う医者の忍耐力は大したものだが、時間は無限ではない。
立会官は軽く咳払いすると、無言で時計を示した。口に出して急かさない程度には、彼も情緒をわきまえている。
医者は心得た顔つきでほんのわずか首を縦に振り、患者に微笑みかけた。
「大変興味深いお話でした。我々はそろそろ失礼します。他にも予定がありますもので。
万一お気が変わった場合はこちらのボタンを押してください」
医者の言葉はマニュアルにのっとっていた。――緊急停止ボタンの存在を説明すること。立会官はまた一つリストに印をつけた。
「そんなことは有り得ませんよ。でも、ありがとう。
他にも同志がいるとは嬉しいですな。その方にもどうぞよろしくお伝えください」
「ええ、必ず。それでは良い旅立ちを」
最後に患者と握手すると、彼ら――立会官と医者、数人のスタッフ――は次の目的地へと出発した。
ホバーカーの車窓を流れる街並みは寂れている。色あせた看板、割れたままのショーウィンドウ。人ひとりいない、文字通りの幽霊の街。
この星の資源が掘り尽くされて二十年近く。まともな感覚の住民はとうに他の惑星へ移住した。食料や日用品、燃料などをもたらす定期便もしばらく前に絶えた。今この星に残っているのは、故郷に殉じることを決めた一部の変わり者と、彼らの処置をするための医者グループが幾つか、そして立会官だけだ。
「お疲れでしょう。少し休んだらいかがです?」
「そうですね……」
医者の申し出はもっともなものだった。今回の仕事は前半が始まったばかりなのだ。
一通り患者たちに処置を施した後、最初に戻って遺体を回収しなければならない。遺体が尊厳を持って扱われるか、患者の希望通りに――火葬であれ土葬であれ、ほとんどはこの星に眠ることを望む――埋葬されるかもチェック項目に入っている。
後半の仕事の方が気が滅入るものなのは確実なので、今のうちに休息しておくべきだった。
「いえ、それよりも雑談に付き合っていただけますか?」
しかし、立会官は違う選択を採った。
彼は若く希望に満ちている。星間公務員を志したのは、安定や社会的ステータスに惹かれたからだけでなく、人類の発展に貢献したいという、口に出すのはちょっと恥ずかしい思いからでもある。
それなのに、彼が今やっているのは――本人たちが望んだこととはいえ――人の命を奪う仕事だ。
資源が枯渇するのは仕方ないが、この星の住人が故郷と心中する必要はないではないか。親族・友人と同じ移住先が良いとか、ここと似た環境が良いとかいう希望を叶えるために尽力する気もある。しかし、それではどうしてもダメらしいのだ。
心身共に健康にも関わらず死を選ぶ人々を見続けるのは、彼の根幹を揺るがしかねない苦行だった。
「なぜこんな仕事をしているのです? 医者とは人を助ける仕事でしょう」
「これも人助けですよ。
それに、患者を助けられなくて苦悩するということはない訳です。それどころか皆さん感謝してくれる。様々な考え方に触れることができるというのも刺激になります」
様々な考え方と言えるのか。様々な理由、様々なこだわり、様々な演出。しかし、それは結局安楽死という一言に集約される。
個人の自由は素晴らしい。その思想の延長線上に、いつ死ぬか、どのように死ぬかを選ぶ自由も保障されている。
しかし、人は一人で生きるものではない以上、安易に死を選ぶのはその人間を育んだ社会に対する裏切りではないのだろうか。
「ご立派です」
とはいえ、他人の思想を批判することは許されない無礼であり非常識だ。代わりにできるのは、彼自身の見解を述べて間接的に疑義を呈することだけである。
「家族や友人に説得されたでしょうに、それでも処置を選べる人というのは、独立心旺盛で確固たる自己を持っているのでしょうね。非常に現代的だ。
私は、役所仕事をしているからか、人目を気にするところがありまして。そこまでの思い切りはできません」
医者が傾聴しているようなので、彼はつい長広舌を奮う。
「私は時代遅れな人間なのかもしれません。今の社会はあまりにも個人主義だと感じ、行き過ぎた自由には恐怖を感じます。
国家や宗教に忠誠を誓っていたかつての人間は、もっと気楽に生きていたのではないでしょうか。自分の生き方を――死に方も――一から十まで自分で決めなくても良かった。法や戒律の規範に従っていれば良いという安心感は、自由の価値とどちらが尊いのでしょうね?」
「危険な思想ですね。ですが、それも貴方の自由です」
医者の声に潜む嫌悪に、彼は言い過ぎたことに気付く。
「そうですね。
反社会的な思想を抱いても迫害される訳ではない、今の時代に生まれたことに感謝します」
医者はほっとしたように頷いた。同乗者が規制や支配に過度に傾倒する異常者でないことに安心したのだろう。それきり彼らは沈黙を守った。
彼の考えは、自ら死を選ぶ人々のそれよりもはるかに忌避すべきものなのだ。
しかし、この自由な世界の行く末は、彼には明るいものと思えない。際限ない自由が保証されているということは、望めば何でも手に入るということ。自由のために、人類は努力し進歩しようとする意思を失いつつあるように思えてならない。
安らかに死に行く人々を眺めるとき、彼は安楽死させているのは人類の未来ではないか、とさえ感じる。
ここと同じような状況の星は多い。つまり、彼と同じような立場の同僚もかなりの数がいるということだ。その中に、彼の考えに共感してくれる者はどれだけいるのだろうか。
なにも独裁者を望む訳ではない。蒙昧な宗教に縋ろうというのではない。
ただもう少し、今よりも人がお互いに義務と責任を負う社会。それを可能にするためのルール。多少の不自由を耐える覚悟。
そんなものが必要なのではないだろうか。
そのためにはどうしたら良いか。
息絶えようとしている星の街並みを眺めながら、彼はぼんやりと考え始めた。