Dornröschen いばら姫は目覚めない
Dornröschen=いばら姫(ドイツ語)
少女が森の中を駆けていた。
天蓋のように頭上に張り巡らされた枝から降り注ぐ光。おろしたての靴が湿った土と下生えを踏む感触。苔生した木肌のしっとりとした天鵞絨のような柔らかさ。水と大地と草木の混ざった青臭い匂い。
時に首が痛くなるほど見上げて、時に屈んで土の感触を確かめて。
感じる全てが初めてのもので、彼女の若い感性を掻き立てた。後ろに付いて歩く母を待ちきれず、けれど一人で奥へ進むのも怖くて、その場で足踏みをする。少女の肩でおさげに編んだ髪が跳ねた。
母を待つ間に、少女はずっと気になっていたことを問い掛けた。
「ママ、いばら姫はどこにいるの?」
彼女はいばら姫に行くのよ、と言われてここに来たのだ。彼女がもう少し大きかったら、人に会いに行くにしてはおかしな言い回しだということに気付いていただろう。
しかし、彼女はまだ幼かった。だから、母の言葉を、単純にお伽話のお姫様に会えるものだと思って喜んでいたのだ。
母親は、娘の勘違いを知って口元をほころばせた。バカにしたという訳ではない。子供の発想が可愛くて微笑ましかったのだ。
「ここが、いばら姫なのよ」
言われた少女は、不思議そうに頭を巡らせて周囲の森を見渡した。
深く静かな森は、確かに絵本に出てくる魔女の森にそっくりだった。しかし、いばら姫が眠っているはずのお城も、それを囲むいばらも見えなくて。
「……本当に?」
少女は大人に騙されているのを疑って唇を尖らせる。そんな彼女にやっと追いついた母は、再び微笑むとそっと娘の頭を撫でた。
「そう。この森がいばら姫。目覚める時を待っているのよ」
度重なる戦争と環境破壊の結果、地球は人の棲めない死の惑星と化した。人類は居住の場を宇宙へと移し、母星を浄化する手段を探しながら月や火星、更なる外宇宙の開発を目指すことにした。
それに伴い、人類が地球上で築いた多くの文化や芸術は遺棄された。
建築物を持って行くことが物理的に不可能なことは言うまでもない。城や宮殿、寺院、神殿、かつてのランドマークや観光名所。人類の歴史を刻んだ数々の建築物は朽ちるに任され、汚染された環境にどういう訳か適応した異形の動植物の住処となっている。
宇宙空間で生産できる食料の種類は限られているため、大多数の人間とって伝統的な食事を摂ることは望めなくなった。レシピは保存されているが、作る者の技術が一度失われた以上、同じ味を再現することは不可能だろう。
より卑近な例でいうなら、サッカーや野球などのスポーツを楽しむことももうできない。それらの競技を行うためのスタジアムや練習場――つまり開けた大きな空間。娯楽のためにそれだけの空間を裂くことは無駄であり贅沢であるとみなされるようになった。
しかし、何にも増して人類が惜しんだのは美しい地球の自然だった。青い宝石と謳われた惑星の姿を人類の大多数が見ることができるようになった時、皮肉にもその輝きは失われていた。稀有なる宝石を曇らせたのは人類の業によるものだから、誰を恨む訳にもいかないが。
破壊された自然を元通りにすることは当時の技術ではできなかった。だから、人類はせめて無事に残ったわずかな森を保存しようとした。
絶滅した動植物の遺伝子は標本として残っている。しかし、データからでは複雑な食物連鎖や共存関係までは再現できないだろう。かつての青い星を取り戻すためにも、自然のままの森を残しておくことが必要だったのだ。
そうして作られたのが「いばら姫」と呼ばれるこの空間だった。
生態系を維持するのにかろうじて足りる面積の森をドームで覆い、自己修復機能と空気および水の清浄装置を備えた。
いばらのような過酷な環境に囲まれて眠る美しい森。施設と呼ぶには大規模だが、かつて黒い森と呼ばれた暗く深く広い森を考えれば、あまりにもささやかな城。それでも人類の希望、いつか地球を再び青と緑の星に戻すという夢を託された宝だった。
そんなことを砕いた言葉で説明された少女は、残念そうな表情で首を傾げた。
「じゃあいばら姫いないんだ……」
「この森はとても貴重なものなの。王子様にとってのお姫様のように」
母親は娘の頭を再び撫でた。
この子には幼すぎてまだ実感がないかもしれないが、大きくなった時に貴重な経験をしたと分かってくれれば良い。
「いばら姫」を人が訪れるのは十数年に一度。しかも許可された民間人の人数は限られている。若い世代に母星の美しさを学ばせたい親心から、倍率は年々上がっている。今回を逃せば次があるか分からなかったのだ。抽選を引き当てたのは幸運と言って良いだろう。
お姫様がいなくて落胆した少女も、初めて見る森の草木や花々、小鳥や蝶たちのことは気になって仕方がないらしい。やがて彼女は落胆も忘れて、周囲の自然を満喫して始めてた。
「ママ、鳥さんがいる! 何か咥えてるよ」
「そうね、巣を作るのかしら。赤ちゃんがいるのかもしれないわね」
「ママ、綺麗な虫さんがいるよ。緑で透き通ってるの!」
「蜉蝣ね。寿命が短い虫だから触っては駄目よ」
そんなやり取りを繰り返しながら、二人は開けた場所に出た。母親は空を指差して娘に言う。
「見て。パパよ」
中空に巣を張った数匹の蜘蛛――と見えるのは防護服をまとった人間だった。遥か上空で、「いばら姫」を覆うドームの劣化程度の点検と補修を行っている作業員だ。地上からの距離ゆえに機材を背負った姿が蜘蛛のように見えるのだ。
正直、その中のどれが夫――少女にとっては父親――かは分からなかった。もしかすると、いないかもしれない。今回は、彼は「いばら姫」周辺の環境調査も行うと言っていた。
しかし、日頃から父親が大事な仕事をしていると聞かされていた少女は目を輝かせた。
「見えるかな?」
少女は両手を頭上に掲げて大きく振る。恐らく偶然だろうが、作業員の一人がタイミング良く片手を上げたので、彼女は声を立てて笑った。
母子は数日を森の中で過ごした。宿泊場所は森の中に設置された研究所。同じく抽選に当たった、他の幸運な子供連れと一緒だ。親たちは、ドーム外調査に人員を裂いたおかげで民間人の宿泊人数が増えたのは良かった、と語り合った。
子供たちは、日頃決して体験することのない本物の闇に身を寄せ合い、森から聞こえる梟や蛙の泣き声に悲鳴を上げて笑った。
暗いからこそよく見える――少なくとも核の冬は収まっている――瞬く星も、子供たちの記憶に深く刻まれただろう。
調査日程が終わると、研究員も民間人も研究所の一室に集められた。帰りの宇宙船に乗るには、一瞬とはいえ汚染された地域を通らなければならない。そのための防護服が配られ、注意事項が改めて申し渡される。
防護服に身を包んだ一行は「いばら姫」を出た。汚染物質が混入しないように、次の調査――が、あるとして――までの十数年に耐える封印を施す。
すると、どこからか女性の声が響いた。
「まだ王子様は来ないのね、残念。私はいばら姫。王子様が来るまでまた眠るわ。それでは良い夢を」
それを聞いたあの少女は、驚きと喜びで目を瞠り、傍らに立つ母親の手を引っ張った。
「ママ、聞いた? お姫様いたよ!」
「そうね、良かったわね」
彼女はヘルメットの中で微笑むと、「お姫様」を探して駆け出しそうな娘をそっと抑えた。
「お姫様、どこだろう……?」
動かせるのは首だけでも少女はきょろきょろと忙しなく辺りを見渡した。ドームに守られた僅かな空間の他は、一面に広がる荒涼とした大地を。
探したところで見つかるはずはない。あの声はただの録音。「いばら姫」が造られた当時の女性スタッフが戯れに残したものだ。地球が再び緑化されるまでに途方もない時間がかかることは分かっていたから。定期調査の後、封印が施される度にあの音声が再生されるように仕掛けを残したのだという。
そんな遊び心が許されるほどに、当時の人々は楽観的だった。
「王子様がいないから。お姫様は出てこられないのよ」
「そっか」
苦笑しつつ母親が言った言葉に、少女は納得したように頷いた。
「王子様、早く来ると良いね」
「……そうね」
娘の素朴な感想に対し、母親の相槌はしかし苦い。他の大人たちも、ヘルメットの奧で似たような表情をしているはずだ。悲しみ。悔しさ。諦め。
いばら姫の王子様。地球を蘇らせる魔法の技術。
そんなものは、まだ見つかっていない。見つかるあてもない。
宇宙での生活に慣れた人類の間では、荒廃した地球に戻る必要などない、という論調が高まってきている。滅ぼした母星にこだわるよりは、新天地を目指すべきだと。
奇跡のようなバランスの上でしか成り立たない「いばら姫」の繊細な世界は、そういった主張をする者にとっては過去の遺物でしかない。それよりは、過酷な環境に適応した――本来は――畸形の生態系の方が今後のために応用の可能性があるのだという。今回の調査でも、「いばら姫」の保全だけでなく外界の生物の採取も行われた。次は保全の方がついでになるのかもしれない。
大人たちは、子供たちにそんなことを告げる勇気はない。だから少女は無邪気に笑い、新しくできた友人たちと宇宙船へ駆けていった。
地表を離れると、窓から見える「いばら姫」は深緑の円から点へと瞬く間に小さくなり、やがて周囲の荒野に紛れて見えなくなった。
煩わしい防護服を脱ぎ捨て、少女は茶色の大地と紫色の海に覆われた濁った惑星を眺めた。それが故郷だという認識は彼女にはない。しかし、大好きな物語の「お姫様」が眠ると知った今、そのぱっとしない見た目も愛着のあるものになった。
遠ざかっていく死の色の惑星を見つめながら彼女は小さく手を振る。
「ばいばい」
人ひとりいない地で、いばら姫は眠り続ける。まだ見ぬ王子様を待ちながら。




