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Cry for the Moon 手に入らないもの

Cry for the Moon=ないものねだり

「昔、よく『月を欲しがって泣いてはいけません』って言われたんだ」


 俺がふと呟くと、彼女は首を傾げた。頭の動きにつれて、東洋系ならではのまっすぐな黒髪がさらりと揺れる。


「月が欲しかったの? 手に入れて、どうするつもりだったの?」


 上手く伝わらなかったのに気付いて、俺は苦笑した。


「いや、英語の慣用表現だよ。『手に入らないものを欲しがってはいけません』、っていう、ね」


 今度は得心してくれたようだ。そのジェスチャーとして、ぱん、と両手を胸の前で合わせ、そのまま夢見るようなポーズで続ける。


「cry for the moonね。そういえば、本で見たことがあるわ。ワイルドの『幸福な王子』だったかしら。月が欲しいと言って泣く子供に、母親が『王子様は何かが欲しいと泣くなんて、夢にも思わないのよ』と言い聞かせるのよね。日本語で読んだ時は綺麗な表現だと思ったけど、本来は『ないものねだりをする子供』って意味なのよね。でも、それだとあまり夢がないから……やっぱり月を欲しがる子供、の方が私は好きね」


 即座にワイルドが浮かぶとは、読書家の彼女らしい。本と言えば、研究書くらいしか縁がない俺には、表現の機微について語られても相槌の打ちようもない。

 暗号としか思えない内容を、目を輝かせて語る彼女を適当に聞き流しつつ、同じく適当にテレビのチャンネルを回す。どうせ似たような番組ばかりなのは分かっているが、もはや惰性だ。


「ワイルドで素敵な表現と言えば、『若い王』の……って聞いてる?」

「悪い。途中から聞き流し」


 まあ、という抗議の呟きと、非難するような眼差しを送られる。もっとも、本当に怒っている訳ではないだろう。当分外出も出来ないのに、喧嘩をしてわざわざ気まずくなる必要もない。その証拠に、彼女は話題を元に戻してきた。


「まあ、話が大分ずれちゃったものね。『月を欲しがって泣く』、か……。何で突然こんなことを?」

「『幸福な王子』に出てくる子供と一緒さ。俺も、駄々をこねては『手に入らないものを欲しがってはいけません』って叱られたんだ。例えばそう……友達が持ってた高価なスニーカーが欲しいとか、ワールドカップを生で応援したいとか」

「活発な子供時代という訳ね。貴方らしいと言えばらしいけど、よくそれで今の仕事に就いたわね」


 彼女は口元に手をあてて、くすくすと笑う。とても可愛らしい。


「『月を欲しがるな』ってあんまり言われたからだな。明らかに空に見えているし、正体も岩の塊だって分かってる。学校では、アームストロング船長の武勇伝を何度も聞かされた。月が不可能の象徴とは、とても信じられなかったんだ。で、どうせなら、月を人類のものにするのに一役買いたくてね」

「不可能を可能にするために宇宙開発の道へ? 意外とロマンティストなのね」


 いつも俺が夢見がちだとからかっていることへのお返しだろう。彼女は勝ち誇ったように、にやりとした笑みを浮かべる。こういう時の彼女は、あまり可愛くない。


「『星の王子様』の影響でこの世界に入った君に言われたくはないね。

ともかく……俺達の研究の成果もあって、月に関する調査は大幅に進んだ。我々が生きている間に有人基地も実現するかも知れない。」

「今では研究は中断されていて、再開の見込みはない訳だけど、まあ、そうね。それで?」

「もはや月は不可能の象徴ではない。それなら、cry for the moonに代わる表現を考えても良いんじゃないかと思ったんだ」


 これを聞くと、彼女は腕組みして思案し始めた。


「傲慢なのか前向きなのか、評価し難い発想ね。今は不可能かもしれないけど、いつかはそれを手に入れたい、達成したいものってことでしょう? 次は星? とりあえず月よりは遠くにあるわよね。詩的な表現をするなら、夢とか愛なんかもありかしら」


 科学者としても文学愛好者としても、大層興味を惹かれた様子だ。そんな彼女に、俺は苦く笑いかける。


「cry for peace――平和を求めて泣く、なんてどうかな」


 彼女は一瞬目を瞠り、そしてやはり苦く笑う。


「そうね。ぴったりだわ」


 つけっぱなしのテレビでは、本日何回目かの「開戦宣言」が終わったところだった。我らの大統領が、張り切って熱弁を振るっている。あまりにも繰り返し放送されるので、そろそろ暗記してしまいそうだ。続いて映ったアナウンサーの映像は、どこかからの中継なのだろう。音声が所々途切れている。


「――我が国は、……への報復措置として、核兵器の使用も辞さない構えです。なお、再攻撃の可能性に加えて、……が本土に細菌兵器を散布する恐れがあるので、一般市民は許可なく地下シェルターを出ないようお願いします。無断で外出した際、万一の事があっても責任は――」


「ここじゃ、月も見えないわね」


 彼女がぽつりと言った。

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