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Vogelfrei 籠の鳥

 部屋に入ると、少女は読んでいた本を閉じて彼に微笑みかけた。

 室内でまず目に入るのは壁一面を占めるガラス窓。高層にある一室ゆえに、眼下の街並みを一望できる。とはいえ眺めが良いということは決してなく、空も街もひたすら灰色だ。特に今日は――いつものことだが――有毒物質をたっぷりと含んだ雨が降り、景色を一層くすませている。


「もう時間?」


 そんな中、少女のいる場所だけが明るく見えた。物理的に明度の高い髪と瞳と肌の色をしているからというだけではない。人形のように、あるいは丹精された彫刻のように。彼女は非常に整った容姿をしていて、その美しさが灰色の風景の中で輝いて見えるのだ。

 彼は、しかし彼女の容姿には無頓着に、ただ小さく頷くとラッピングされた箱を手渡した。


「これに着替えろと」

「手伝ってくれる?」


 あどけなくも挑発的な少女の微笑みに、彼は顔を顰めた。


「バカを言うな」

「うふふ、冗談よ」


 人形じみた外見とは裏腹に、彼女は明るく人懐こい。高く澄んだ笑い声が室内に響いた。からかわれたことを知って憮然としつつ、彼は再び扉を閉めた。




 着替えを済ませた彼女はふわりとしたデザインの淡い色のドレスを身にまとっていた。彼の主人は大変趣味が良い、らしい。彼などには判断のつかないことではあるが、普段着のワンピース姿以上の可憐さを漂わせる少女の姿を見ると、そうなのだろうと思わせられる。


「今日は昔の言葉の勉強をしたの」

「そうか」


 彼の役目は少女の護衛であり話し相手ではない。ゆえに受け答えは最小限に済ませたが、それでも少女は気に留めた風もなく朗らかに続けた。


「面白い単語があったわ。vogelfrei(フォーゲルフライ)、といって。vogelは鳥、freiは自由な、という意味。だから鳥のように自由な、囚われない、ということになるんだけど――」

「鳥が自由か。おめでたい発想だ」


 あまりに無邪気な発言に、彼は思わず嘲った。

 毒の雨が降る空を飛ぶ鳥などもういない。今の時代に鳥と言えば、受精卵の状態で眠る絶滅した数々の種族の一綱。あるいは食肉のために翼も脚も、羽毛すらなくして工場で肥太らされる生温かい塊。いずれも自由などという概念とは程遠い。まして――


「籠の鳥のくせに。お前が自由になれるとでも? 外で生きていけるとでも?」


 露骨な悪意に曝されて、少女はさすがに押し黙った。花のような美貌がつかの間陰り、それでも次の瞬間には再びほころんだ。


「ごめんなさい、変なことを言ったわ。分かっているの。私には無理だって」


 嘲られてなお明るく微笑む少女の愚かさは、彼をひどく苛立たせた。




 主人と少女が食事を囲むのを彼は遠巻きに見守る。新鮮な野菜や果物、工場由来でない肉。貴重な食材に彩られたメニューは非常に贅を凝らしたものだ。彼の口に入ることは決してないもの。別に妬み羨むことはしないが。

 少女に張り付いて、たまに相槌を打つだけの楽な仕事だ。それで食っていけるのだから感謝こそすれ文句を言ういわれなどない。

 二人の会話の内容は彼の耳には届かない。口の動きから察するに、少女がもっぱら話し、主人は聞き役に徹しているようだ。主人も若々しく端正な肉体を持っているから、少女と似合いの対と言えるのだろうか。

 彼らの関係は――恋人同士などではなく――小鳥と飼い主に過ぎないのだが。


 正直言って良くやる、と思う。美少女を囲って愛人にするなら分かるが、他愛のないお喋りに付き合うだけとは。主人は若くしてこの荒廃した世界で権力を握った。それなりに清濁呑み合せてきた男だというのに、何とも枯れた話だ。


 そもそも少女のような存在はもっぱら愛玩用に作られたものだ。

人種の混交と平均化が進んだ現代では、ほとんどの人間は一様に黒っぽい髪と瞳、褐色から黄色の肌をしている。蜂蜜色の髪や空色の瞳、ひ弱な白い肌は、当初は一部の保守的な富裕層が頑なに保持しようとしたものらしい。しかし増え続ける()()の前に彼らは力を失い、変わった毛色を珍重される愛玩動物に成り下がった。より淡い色をまとい、より美しい見た目になるよう交配を重ねて生み出された人間たち。かつて一般的な趣味だった熱帯魚や、それこそ南国の鳥のようなものだ。

 かつての支配層を支配するという構図は一部の者にはひどく魅力的らしいのだが。主人は少女を着飾らせて甘やかすだけで満足しているらしい。


 そんなことを考えていると、二人の視線が彼に向けられた。少女はまた笑って主人に何事かささやく。すると主人も珍しく口元を緩めて温かい表情を見せた。何やら噂話の的になっているらしいと察して、彼はひどく居心地の悪い思いをした。




「vogelfrei、って聞いた?」


 ある日の移動中の出来事だった。有毒物質を一分子たりとも入れないようにきっちりと気密が施された車内でのこと。主人が退屈そうに濁った空を眺めてながら、彼に話しかけてきたのだ。


「あいつの言っていたことですか」


 少女だけでなく主人までも彼を話し相手にしようとしている。とんだ時間外労働だ。超過労働分の支払いの交渉をすべきだろうか。そんなどうでも良いことを頭の隅で考えながら彼は答える。


「そう。意味も聞いた?」

「鳥のように自由な、とか……」


 少女の度を越した無邪気さを思い出して、彼は無意識に顔を顰めた。

 なにが可笑しかったのか。彼の渋面を横目に、主人は声を立てて笑った。それがまた彼の感情を逆なでする。雇い主の手前、決して顔には出せなかったが。


「あの子はあの言葉が気に入ったって。そんな風になりたいんだってさ」

「はあ」


 主人はそれを許すつもりなのだろうか、と彼は不審に思った。あの少女を手に入れるのに、それなりに金も人脈も駆使したはずなのに。


「おねだりするのが可愛いから条件を出した。私に一回でもチェスで勝ったら願いを叶えてやると」

「はあ」


 彼には何とも言いようがない。大枚叩いて囲った少女を軽々と手放すのは勿体無いとしか形容しようがないが、それこそが贅沢なのだと言われればそうかも知れないとも思う。いずれ彼には口出しできないことだ。


「チェスをなさるとは存じませんでした」


 そして、さすがに通り一遍の相槌は不遜かと思って言い添える。しかし、主人は無造作に笑った。


「別に大したものじゃないよ」

「はあ?」

「腕がないのはあちらも同じこと、どちらかが有利な勝負はつまらないというだけだ。お前はそういうのが得意だとか? 見てやれば良い。私が許す」

「逃がしてしまうおつもりですか?」


 先ほどの疑問をつい口に出してしまってから、しまったと思う。どう考えても余計なことだ。彼に主人の心のうちを斟酌する権利などあるはずがない。


「どうかな」


 しかし、主人が機嫌を損ねた気配はなかった。むしろ楽しげにさえ見える。あの少女だけではなく、彼でさえも主人にとっては退屈しのぎの玩具に過ぎないのかもしれない。


「あの子が勝ったら、世話はお前に任せようか。籠の鳥が羽ばたけるものか、汚れた空を飛べるものか見てみたい」

「ご冗談を。俺にはあいつの世話なんて無理です」


 雇い主の顔色を窺うことも忘れて、彼は眉間に皺を寄せる。玩具扱いを確信したのだ。

 自分ひとりを養うのにも汲々としているのに、何もできない可愛いだけの小鳥を迎え入れる余裕などない。大体、あの小鳥は飛ぶことを知らないではないか。


「うん、冗談だ」


 どういう訳か主人は少し不快げな表情をした。まったく訳が分からない。

 とにかくそれから主人が口を開くことはなく、彼は任でないお喋りから解放された。妙な気まずさは残ったので、心から喜ぶことはできなかったが。




 主人の言葉は全てが冗談だったという訳ではなかったらしい。数時間後、遊戯盤を差し出した少女を前に彼は思い知らされた。


「教えてくれるって聞いたわ」

「時間外労働だ。そんなことのために雇われているんじゃない」

「護衛のついでで良いの。お願い」

「気軽に言うな」


 ひたすら無邪気で愛らしい少女が小首を傾げる様に、無条件で願いを聞いてやりたくなってしまう。主人もこれにやられたのだろうか。人間以外の愛玩動物は絶滅して久しいが、話に聞く子猫とかいう生き物はこんな毒気を持っていたのだろうか。


「……命令したって、言ってたけど?」


 主語を省いてはいても誰の言葉だかは聞くまでもない。

 彼は胸の内で暗い怒りが滾るのを感じた。申し訳そうな顔をしながら結局命令を盾に取る少女に対して。彼の心情など気にも留めない主人に対して。彼には愛玩されるほどの可愛げはないが、命令に逆らえないという意味では確かに犬に過ぎなかった。




 理不尽で不本意な命令への八つ当たりもあって、少女にへの()()は厳しいものになった。覚えが悪いと容赦なく罵倒する。見当違いの質問を嘲る。それでも気が晴れないのは少女が傷ついた顔を見せないからだ。彼女が定石や戦略を覚えようとする様は貪欲そのもので、彼に平和だった時代の自分の姿を思い出させてうんざりさせた。


「そんなに自由になりたいのか?」

「え?」


 少女は遊戯盤から顔を上げて目を瞬かせた。熱心さが過ぎるのか、顔色は青ざめて見えるほど。それでも美しさは決して褪せない。


鳥のように(vogel)自由(frei)になりたいんだろう。自由になって何がしたい? 外はそんなに良いもんじゃないぞ」


 忠告なのか、少女の夢を壊そうとしているのか――彼は彼女の無邪気さが嫌いだ――彼自身にも分からなかった。認めたくはないが、彼女の境遇は哀れむべきものであると同時に、ある意味とてつもなく妬ましいものでもあるのだ。


 無垢であること、は今の地上において稀な美徳だ。生きるため、家族あるいは恋人のため、誰もが多かれ少なかれ手を汚さざるを得ない。まともな仕事を望んでもほとんどの場合叶えられない。誰もが糊口を凌ぐことと人として譲れないラインを天秤にかけて生きている。

 この少女の無邪気さは籠の鳥の境遇と引き換えのものだ。本来羨むようなものではない。しかし、彼女は自身の幸運にも不運にもごく無頓着で、贅沢な暮らしを投げ打って外に出たいなどと言う。その愚かさ加減が彼の癇に障るのだ。


「うん。あの人も言ってた。外はひどいところだって」


 新しく駒を並べながら少女は答えた。あの人とは主人のことだろう。

馬や塔を模した小さな白黒のピース。これもまた、彼が生きるために諦めたものの象徴の一つだ。主人に言った覚えはないが、あの男なら知っていても驚かないと思わせられる。

 少女はわずかに表情を曇らせ――それでもすぐにまた笑顔を作る。


「でも、行ってみないと分からないから」

「そうか」


 やはりこの少女は底抜けの馬鹿だった。彼は理不尽な感情の波を盤面にぶつけた。


「チェック・メイトだ」


 冷徹に告げると、少女は悔しげに盤面を見下ろして唇を噛んだ。そして跳ねるように顔を上げると、結んでいない髪が肩の上で揺れた。


「もう一局――」

「もう寝る時間だ」


 ねだるのを無下にするのは何も意地の悪い思惑からではない。既に何時間も根を詰めて対局を重ねている。少女の元から白い顔は、いっそ蒼白といえるまで色を失っていた。何度負けても次をせがむ様は、鬼気迫るものさえ感じさせた。


「でも……」


 少女は立ち上がりなおも言い募ろうとする。が、その身体がぐらりと傾いだので彼は慌てて彼女を支えた。

 小さな身体のあまりの細さと軽さに驚く。鳥は飛翔のために身体のつくりを軽くしていたと聞くが、この少女はどこかへ消えていってしまいそうな儚さだった。


「また明日だ」

「……きっとよ?」


 壊れ物を扱うようにそっと立たせながら囁けば、少女の瞳は不安、あるいは不信に揺らいだ。重ねて翌日の約束をして初めて、彼女は落ち着いた風で寝室に向かった。




「あまり時間はないよ」

「え?」


 また移動中の車内でのこと、彼は突然告げられた。主人は相変わらず彼の顔を見て話すということをしない。


「純血種は雑種より病弱なものだろう? ましてああいう(愛玩用の)人間の遺伝子プールはすごく小さい。絶滅危惧種だからね。近親交配を重ねてる。見た目は綺麗でも中には色々問題を抱えているということだ」


 降り注ぐ毒の雨を眺めながら主人が言った内容に彼は目を剥いた。やけに白かった少女の顔色、壊れそうな体躯が思い出される。あれは熱中し過ぎた結果ではなく、彼女自身の疾患によるものだというのだろうか。


「ではあいつも……」


 震える声での問いを、主人はあっさりと首肯した。


「教えきるのは早い方が良い。いつ限界が来るか分からない」

「死んだらどうなりますか」


 限界を死と言い換えたのは訂正して欲しかったからだ。いくら不自然な交配の結果誕生したのだとしても、あの少女はやっと十数年生きたところだ。そんな彼女に死が迫っているなどと、知りたくはなかった。大体、あの娘には遺体を引き取るような身内はいないだろう。


「さあ? 剥製にする者もいるとは聞くけど」


 しかし、主人にそんな優しさは存在しなかった。彼の怖れに、さらに恐ろしく忌まわしいビジョンを与えてくる。


「生きているように表情やポーズをつけて、衣装を着せてね。そういうのを好む趣味もあるということだ。その手の輩に売れば元は取れるかも」

「そんな――っ!」


 彼の激昂を主人は低く嗤った。


「だから急ぎなよ。あの子の願いを叶えてやりたいなら」


 主人は結局少女をどうしたいのか――彼には口に出して問うことはできなかった。それ以上に彼がどうしたいのかが分からなかったから。




「チェック・メイトよ!」


 少女の高い声が響いた。対局相手は彼ではない。主人だ。彼の薫陶か、彼女自身の努力の賜物か。彼女はついにやってのけた。


「約束よ。守ってくれるわね?」


 望みを叶えた少女の頬は上気し、息は弾んでいた。傍目にも危険な兆候と分かるほどに。


「……ああ、必ず守る」


 主人の表情に負けたことへの悔しさはない。代わりに浮かんでいるのは少女を案じる色だった。それは彼も同じこと。少女の身体が日毎に弱っているのは彼の目にも明らかだった。過度の興奮が良い結果をもたらすとは思えない。

 主人の命令を待つまでもなく、彼は少女に駆け寄った。


「本当に!? 本当――よ……」


 少女の叫ぶような狂喜の声は次第に弱まって消える。同時に崩れ落ちる身体を、彼はすんでのところで受け止めた。以前支えた時よりもずっと軽く細くなっていることに心臓が凍るような思いがする。ついさっきまで紅潮していた頬が、今は急に青ざめている。


「医者を……!」


 彼の声を無視して主人は立ち上がり、腕を伸ばして少女の身体を受け取った。例によって彼には目をくれることはなく。

主人は彼女の髪を梳き、頬を撫で、首筋に指先をあてた。そして微かに首を振る。


「もう必要ない」




 あんなに小さな身体だったというのに、少女のいない部屋はひどく広かった。私物はそもそも少なかったが、ドレスの類を片付けたことで、一層生活感がなくがらんとして見えた。

部屋の扉を乱暴に閉めると、彼は主人の元へ向かった。直訴だ。


「あいつは一度も俺に勝ったことはありませんでした」

「そうなんだ」


 主人の声音は無関心そのもので、彼の感情を揺らした。悲しみというよりは怒り。いずれにしろ行き場のない思いを。


「勝負でいうなら俺が一位だ。あいつの死体は俺にください」


 分を越えたこととは理解していた。折角の仕事を――少々後ろ暗いものではあるが――失うリスクも。主人の不興を買えば生命さえ危ない。

 だが、少女の愚直なまでの熱意と努力、執念が、彼をこの暴挙に駆り立てていた。彼女は愚かではあっても無心に自由を夢見ていた。死んでなお籠に閉じ込められ続けるのはあまりに無残だ。こんな時代であっても、無垢な願いが叶えられることもあってほしいと、彼はいつの間にか思うようになっていた。


 しかし主人の答えは短く残酷だった。


「無理だ」

「なぜ!?」


 否でも応でもない、可能性からの否定。到底納得できるものではなく、彼は保身も忘れて噛み付いた。


「もう捨てた。街の外、荒野にね。今頃は虫が沸いて腐り始めているだろう。それでも良いなら場所を教えるが――」

「何で、そんなことを――っ」


 美しい少女の無残な姿を幻視して彼は呻いた。剥製にするよりなお酷い。主人も少女に対して少なからず好意を持っていたようなのに。だからこそ分の良くない賭けを条件に出し、彼を焚きつけさえしたようだったのに。


「彼女の望んだことだから」


 主人の言葉はやはり短い。そして彼と目を合わせようとはしない。いつものように陰鬱な窓の外の空を見つめている。


鳥のように(vogel)自由(frei)に……それと何の関係が?」


 死者を自由にするなど不可能なことではある。しかし、荒野に打ち捨てられ朽ち果てるのが相応しい仕打ちなはずはない。彼女の無邪気さはもっと――もっと美しい形で報われても良かったはずだ。


「うん? まだ調べていなかったのか。そんな綺麗な意味じゃないよ、その言葉は。調べてみなよ。端末は持っているだろう?」


 笑っているような、泣いているような、怒っているような。どうとでも取れる主人の目に促されて――主人が彼の顔を見て話した、もしかすると始めてのことかもしれない――彼は不器用に端末を操作した。


「これは――」


 確かにその言葉の本来の意味は(Vogel)自由(frei)だった。しかしそこから転じた意味は、


「――追放」


 古い古い時代の法は追放の刑を受けた者に言い渡す。


 ――その者の肉体はあらゆる人と獣、空の鳥、水の魚の(ほしいまま)に許されるように。何ものもその者に対する冒涜を罪として問われることのないように。


「生にあっては定まった住処を許されず、死しては埋葬を許されず、鳥と獣に喰われるに任される」


 続きは主人が引き取った。


「美しいようで残酷な言葉だ。でも、あの子にはひどく魅力的だったらしい」


 主人の声に宿る感情はやはり分からない。感情を読み取るにはあまりに遠くから聞こえてくるようで。

 彼を打ちのめしたのは、vogelfreiの本当の意味ではない。それを知ったのが今になってからだということだった。


 いつでも調べることはできたのだ。端末にほんの幾つかの文字を打ち込むだけで済んだ。なのにかれはそれをしなかった。彼女の声に――小鳥のさえずりに、まともに耳を傾けることをしなかった。無意識に――いや、意識的に見下してだ、彼女の言葉を取り合おうとはしなかったのだ。


「作り物のような生命だから、最後は自然に還りたいと言っていた。生きているうちは無理でも、死体なら、と。獣や虫の糧になって、空と大地を巡りたいんだそうだ」


そうか。彼女は誰よりよく理解していたのだ。自分が籠の鳥だと。決してはばたくことのない生命だと、外の世界では生きられないと。だからこそ、死んだ後に願いを託したのか。


 彼女の願いを聞いて、主人は何と言ったのだろう。彼女の寿命はどのみち短いものだったが、仮に彼がそれを知っていたら、何か変わっていたのだろうか。


「別にお前は気にする必要はない。彼女は願いを叶えたのだから」


 主人は彼から目を逸らして再び雨を眺めていた。

 それは無関心ゆえではないと、彼は不意に気付いた。灰色の空は彼女がいずれ還る世界、今彼女が溶けていっている世界だ。僅かな残り時間を計りながら、主人は彼女の行き先を考えていたのだ。


「お前を気に入っているようだったから、最後に仲良くさせれば喜ぶと思ったんだ。お前はあの子を嫌いじゃなかったのか。何であの子のことでそんなに怒る。

――人の心はよく分からないから嫌いだ」

 

 吐き捨てるような口調だったが、どこか言い訳じみた気遣いのようなものを感じた。彼の目に、主人が初めて年相応の若者に見えた。

 それ以上何も言う言葉がなくて、彼は主人の前から辞した。




 金髪だろうと銀髪だろうと、あれ以来主人は新しい鳥を飼う気はないようだ。自然、彼の仕事は今までよりも危険で汚いものになる。特段文句を言うつもりなどないが。彼には似合いの生業だから。汚れた世界の底の底で、せいぜい生き汚くあがくつもりだ。


 彼が飲むもの食べるもの。吸う空気に至るまで。きっとかつて彼女だった分子が潜んでいるから。

その者の肉体は~の記述はドイツ版WikipediaのVogelfreiheitの項を参考にしています。

http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Vogelfreiheit&oldid=130413609

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