Seventh Night of July 宇宙の恋人たち
「待ってくれ、話を聞いてくれ!」
「話しかけないでよ、あなたとはもう終わったの!」
追いすがる彼に吐き捨てると、私は床を蹴った。月の重力は地球の六分の一。わずかな力で飛ぶように通路を駆け抜けることができる。無様に天井に頭をぶつけたのも最初だけの話。今では鳥のように蝶のように、自在かつ立体的に移動する術を身につけている。
私のものより重い足音が追いかけてきて嫌になる。また時間に遅れたくせに、約束より仕事を取ったくせに、今さら何のつもりだろう。
ずっと前から決めていた。次にすっぽかされたら終わりにしようと。次、があと一回、もう一度、と。のばしのばしにしてもう八回目。今日こそ本当にその時にするのだ。
仕事と私、どっちが大事なの、なんて。口に出して由緒正しい面倒な女になる気はない。
選び抜かれて月面に送り込まれたメンバーばかりだ。この基地の誰もが重要な役割を担っている。私だって同じこと。だから、彼に必ず約束を守れ、だなんて無理難題なことはよく知っている。
でも、だからといって笑って許せるかどうかは話が別だ。もっとシフトが合う相手を探すか。それとも人生を共に過ごすパートナーは地球に帰ってから探すか。どちらにしろ、先のない関係を続けることに意味はない。別に嫌いで分かれる訳じゃないんだから、気持ちの整理をする時間が必要だ。だから、振り向いちゃいけないんだ。
背後から彼の足音が近づいてくる。ああ、重力が小さいからって男と女の足幅の差、筋力差は変わらない。弱い性に生まれついたのが情けない。私はこれっきり、きっぱりと、彼とさよならしたいのに。
手首を掴まれる。振り払おうとしても叶わない。振り向きざま、苛立ちを言葉にしてぶつける。彼の顔はなるべく見ないようにして。
「離してよ!」
「離さない。話したいことがある」
だから、今さら何言ってるの?
通りすがりの人たちの視線が突き刺さる。嫌だ嫌だ。これじゃ次を探そうにも彼との噂が邪魔しちゃう。これじゃ、もう騒げないじゃない。話を聞いて、またほだされるしかないじゃない。
「……聞くだけよ。早く済ませて」
「ありがとう」
満面の笑顔にまた腹が立つ。許してあげるなんて、言ってないのに。
連れて来られたのは展望台だった。基地に絶対に必要な施設ではないけど、月面にいるのだという実感、かつての人類の夢の地、現代の人類の希望の地にいるのだという実感は隊員の士気を大いに高めるのだ。たとえ見えるのは真っ暗な空と砂漠のような大地ばかりだとしても。
いえ、意味があるのは地球が見えるというところなのかも。 美しく青い宝石のような私たちの母。ガガーリンが見た時はもっと綺麗だったのかしら? とにかく、多少公害や環境破壊の傷跡があるとしても、誰でも見られる訳じゃない印象深い光景なことに変わりない。漆黒の宇宙に浮かぶ地球の姿を眺めることができるというだけで、厳しい訓練と選別に耐えた甲斐があるというもの。
「あれは琴座のベガ、あっちは鷲座のアルタイル」
私をここまで連れてきた彼は地球よりも星座観察に夢中みたいだけど。ねえ、用がないなら帰っていいのかしら?
「夏の大三角を成す星のうちの二つだ」
「北半球ではね。私が南半球出身って、忘れたの?」
ついつい嫌味のひとつも言いたくなる。どうせ私は可愛げのない女ですとも。冷たい目で眺めてやったら彼は傷ついた顔をした。ざまあみろ。
「……僕の国ではベガを織姫、アルタイルを彦星っていう。神話があるんだ」
それでも話を続けられるあたり、相手もなかなかやる……のかな。いや、聞いてあげる私がバカなだけだ。きっとそうだ。
彼が語ったのは東洋の古いお伽話。天の川に隔てられた恋人たちの。年に一度だけ逢瀬を許された二人の物語。
「七月の始めは僕の国では雨季にあたる。だからその時期になると毎年、天気予報のニュースで二人が会えるかどうか、って話をするんだ」
「七月、ね」
「正確に言うなら七月七日。七夕って呼ぶ」
折しも今日は七月七日。彼の国ではやっぱり雨だったのかしら? 今は冬の私の国では? 地球に目をやったところで見えはしないのだけど。
「あなたが来られなかったのは何でかしら? 月には雨なんて降らないのに」
またも皮肉をまぶして毒づけば、彼の表情が変わった。思った通りの狼狽――じゃない、なぜか熱意のようなものに満ちている。
「そう――そうなんだ、月には雨は降らない」
黙りなさい、私の心臓。手を握られただけじゃない。今までにも何度もあったこと、別れるって決めたんだから動揺なんてしちゃいけません。
「いつも約束を守れなくて、本当に悪いと思ってる。仕事だとどうにもならなくて……なんて、言い訳だって分かってるけど。次こそ必ず、なんて言えないし、信じてもらえないだろうけど。年に一度、プロポーズの記念日だけでも絶対に一緒に過ごすって約束する。評価がどうなっても良い。それだけは絶対に守る。だから結婚して欲しい!」
「プ、プロポーズ?」
私の耳も口も血管も、何で言うことを聞いてくれないの! このバカの話で突っ込むべきはそこじゃないでしょ。本当に、今更なんだから。今更そんなこと言われたって喜んじゃいけないんだから。
「月には雨は降らないから、織姫と彦星は必ず会える。同じように、僕も君に誓う。普段は約束できないけど、年に一度は絶対に君を優先するから」
涙も、流れるんじゃない。殊勝な顔で言ってるけど、内容は恥知らずも良いところなんだから。年に一度の約束でごまかされると思うなんて、私をバカにしてるに違いない。
そう、どこからか指輪を差し出されたからって受け取っちゃ駄目。基地に宝飾店なんてないのにどうやって手に入れたんだろう? まさか自作とか? ああもう、ぶかぶかじゃない。
「ずっと月勤務じゃないでしょ? 地球に帰ったら、雨が降ったらどうなの?」
「地上の雨が空を塞ぐなんて昔の人が考えたことだ。月からの景色を見た僕たちには分かるだろう? 地球のどの地域が雨だろうと晴れだろうと、宇宙では関係ない。今までも実はきっと、織姫と彦星は逢えていたんだ」
コイツは何を言ってるのかしら? 血管がどくどくする音がうるさくてよく聞こえない。いえ、本当は分かってるんだけど。年に一度だけでも仕事をほったらかすなんて、彼にとっては一大決心に違いない。でも。だからといって。容易く思い通りになる女だなんて思われたくない。
「言葉だけじゃ信用できない」
あまりのことに圧倒されていたけど、やっと、声を出すことができた。彼の顔がみるみるこわばり青ざめる。良い気味だと思って良いはずなのに、何で胸が痛むんだろう。
「本当に来てくれるか確かめたいわ。少なくとも三年くらいは」
「それじゃ」
私は渋々頷いた。左手の薬指にサイズの合わない指輪を嵌めて、彼の手をそっと握り返す。
「信じられるまで様子見よ。もう次はないんだから」
「三回約束を守ったら結婚してくれる?」
「そうね、守れたらね」
三年経ったら私も結構な歳だ。後に退けない賭けに乗ってしまった。バカな真似をしてしまったかしら。それとも……?
腕を引かれて身体を引き寄せられ、思考が中断させられる。彼の顔が間近に迫る。もう、せっかちなんだから。
私は目を閉じて顔を上向かせると、その唇を受け入れる。
一足早い誓いのキスだ。彼と二人で歩んでいくための。
青い地球と恋人たちの星が証人だった。
「地球の裏側 Dark Side of the Earth」(http://ncode.syosetu.com/n9971ck/)は本話の後日談になります。
よろしければ併せてお読みください。




