Once upon a Time 長い眠りの前に
「……二人はいつまでも幸せに暮らしました」
読み終わると、彼女は絵本を閉じた。紙媒体は贅沢かつ古風なものだが、小さな子供の目には優しいし、精密過ぎないイラストは想像力の養成に役立つと言われている。
ベッドに横たわった娘の様子を窺うと、眠そうにとろんとした目をしているものの、まだ寝付いてはいなかった。いつもは一つだけ、ということにしているが、今日は眠るまで読んであげよう、と彼女はそっと娘に囁いた。
「もう一つだけ読んであげる。何が良い?」
「……シンデレラ」
「分かったわ」
吐息のような答えはやはり半ば寝言のようだった。食事に混ぜられた薬品が効いているらしい。最後まで読む必要はないかもしれない、と思いながら彼女はシンデレラのページを開いた。
「昔々あるところに――」
「そういえば」
遮った娘の声は先ほどよりも少しはっきりしていた。
「昔々、ってどれくらい前のことなの?」
好奇心旺盛なのは好ましい性格だが、今この時に限っては困ったことだった。疑問に晴らされた娘の目からは眠気が少し後退していて、彼女としては対応を悩ませられる。
「そうね……」
意味のない言葉で時間を稼ぎつつ、彼女は考えた。
童話の成立年代を調べることは瞬時にできる。しかし、それを告げたところで娘は納得するまい。娘が求める答えはどれくらい前なのか、なのだ。
そしてそれはまことにややこしい問題なのだ。
彼女たちがいるのは亜光速で航行中の宇宙船だ。技術の限界の速度で移動する船は時間を置き去りにしていて、内部の時間の流れは母なる地球とは異なっている。付け加えれば、それでもなお遠い目的地にたどり着くため、乗員は冷凍睡眠を重ねている。宇宙に孤立した船の中で、各人の主観の時間の流れは更に各人の脳の中だけにある。
「ねえ、どれくらい?」
しかし、そんなことを告げたら、娘の好奇心は大いに掻き立てられるだろう。薬物の効果を振り切って娘の神経が覚醒するのは明らかだ。なぜ、どうしてと問い詰める子供の熱意はまったく度し難い。
「そうね……」
彼女は再び時間を稼いだ。そして、気付く。
何も具体的、論理的な回答をする必要はない。計算などさせては娘の眠気を覚ましてしまう。ある程度抽象的――あるいは文学的な表現を探してみよう。娘の疑問に答えつつも、余韻を残すようなものを。娘の夢が穏やかなものであるように。
「昔は、昔よ? あなたの知らない時代、知らない景色のお話ですよ、という記号なの。おばあちゃんの若い頃、なんて言われてもイメージできないでしょう?」
納得させることができるだろうか。内心の懸念を隠して、努めて穏やかに告げると、娘はぼんやりと微笑んだ
「おばあちゃんにも、若い頃があったの……?」
「ええ、もちろん」
「おばあちゃんは地球にいたことがある?」
「地球を知っているのはひいおばあちゃんの更にひいおばあちゃんの代よ。おばあちゃんが子供の頃にはもうこの船があって、あなたと同じようにこの船の中を走り回って育ったの。想像できる?」
「できない……」
娘の大きな瞳には再び眠気の膜が張っている。彼女は安堵した。どうやら娘の気を逸らすのに成功したらしい。長い眠りの前に思い浮かべるなら、複雑な計算式よりも曖昧で古ぼけた情景の方が良い。
「目が覚めたらまた遊んで良いわ。だから、今は眠りなさい」
重ねて言うと、娘は素直に頷いて目を閉じた。
「おやすみ、おばあちゃん……」
「おやすみなさい」
娘は眠りについた。ガラスのケースに収めると、内部の温度はみるみるうちに下がり、長い睫毛に霜が降りる。痛々しい姿ではあるが、娘のために必要なことだ。長い長い旅路を、できるだけ若い姿で過ごすために。
彼女たちは船の中で世代を重ねている。船を動かすには生きた人の手が必要で、そして冷凍睡眠装置の数に限りがある。そのため彼女たちは眠りながら長い子供時代を過ごし、成長すると次第に眠る時間を減らしてそれぞれの役割を担う。祖父母や父母がそうしたように、彼女も通常の――少なくとも船内においては――時の流れで生きる時間を増やす年齢に差し掛かっている。そのため、娘からは祖母だと思われてしまっているが。
それももうすぐ終わる。彼女の寿命はこの船の中で尽きるだろうが、娘の世代は生きて目的地に辿り着ける見通しだ。植民可能だと言われている星。船内に積み込んだ微生物や、数百年後には種子や家畜の受精卵で地球に似た環境を築けると言われている。理論通りに上手くいくかどうかは分からないし、そもそも目的地のデータからして手元に届くのは数百年遅れのものでしかない。到着するまで目的地が予想通りの環境かどうかはまったくの未知数な訳だが。
それでも子供たちは彼女やその前の世代よりは恵まれている。閉ざされた船の中、子供の成長を見届けることもできずに老いていくよりは、苦難に遭っても自分たちの星を育んでいく方が良いに決まっている。
この旅路も早くお伽話になれば良い。しっかりとした大地のもとで、誰もが同じ時間を過ごせるように。
ガラス越しに、痩せて皮ばかりになった指で長い眠りについた娘の頬をそっと撫でる。娘が次に目覚める時、自分はまだ生きているだろうか? 祖父母だと思い込んでいた彼女の両親は、彼女が眠っているあいだに亡くなった。遺体は船内の栽培施設に埋められて、今も彼女や子供たちを養っている。そういう意味では、彼女は娘とずっと一緒にいられる訳だが。でも、どうせなら娘を抱きしめる腕が欲しい。
疑問と恐怖を押し殺して、彼女は立ち上がりその場を後にした。
娘たちを無事に目的地まで届けるため。その時までこの船をつつがなく動かすため。永遠の眠りにつく前に、彼女にはやるべき事が待っている。