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Nomenclature 最初の贈り物

Nomenclature=命名法


注意:児童虐待の描写があります。

「その名前をつけることはできません」


 窓口の女性に告げられた言葉に、私の目の前が真っ暗になった。使い古された表現を借りるなら、地面が割れて裂け目に飲み込まれるよう。


「本当……ですか?」


 聞き返した声が自分のものでないように聞こえる。私の声はこんな弱々しくかすれた声じゃない。


「はい、残念ですが」

「でも、『マリア』ですよ? 伝統的で普遍的な名前です。割り当てだって――」

「全女性人口の1%まで。今現在は『マリア』という名前の方の人数は上限に達しているんです」


 相手の顔も声音も申し訳なさそうではあったけれど、絶対的な冷たさも孕んでいた。規則は規則、法は法。どんなに泣き叫んで懇願してもどうにもならない。


「駄目なら仕方ない、空いている名前にしよう。マリーベルとか、ローズマリーとか、愛称が『マリア』になるのなら良いだろう?」


 傍らの夫のとりなすような声がどこか遠くに聞こえる。


「マリーベルもローズマリーも命名可能です。近い音でしたら、他にはマリアンヌも空いています。いかがです?」


 安堵したような女性の言葉も。水の中にいる時のようにぼやけてる。聞こえなければ、現実と認めなくても済めば良いのに。


「出生届の提出期限は一ヶ月でしたね?」


 今度はもう少しまともに声が出せた。しゃんとしている。夫と窓口の女性を私に注目させることが出来る程度には。


「……はい」

「ならギリギリまで待ってみます。期限までに空きができれば良いんですよね?」


 物言いたげな女性と夫を背にして私は役所を出る。慌てて追いすがる夫の足音が妙に気に障った。




 名前は親から子供への最初の贈り物、と言う。

 愛しい我が子にできるだけ素敵な贈り物したい、というのは親の本能のようなものだ。それは良い。しかし、以前は「素敵」の意味を履き違える馬鹿が多すぎた。

 フィクションのキャラクター、それも主人公側ではなく、クールだというだけの理由で悪役やテロリスト、殺人犯の名前を選んだり。珍しいからと言って誰も知らない言語から取ったり、しかもそれが実はとても卑猥な意味の単語だったり。挙句の果てには記号を組み合わせて名前にしようとした者もいた。


 だから、ある法律が施行された。


 一つ、新生児の名前はあらかじめ定められたリストの中から選ばなければならない。

 一つ、ある名前の全人口における割合はこの法によって定められる。


 最初の項目については是非もない。奇矯すぎる命名をされた子供たちが与える混乱――本人にとっても周囲にとっても――は重大なもので、時には命に関わるものさえあった。だから、何かしらの規制の必要性は明らかだった。

 二つ目の項目については、もう少し議論があった。何かしらの流行りによって一つの名前に人気が集中したり、逆にいわゆる伝統的な名前がまったく見られなくなったりするのは良くない、とか。外国語由来の名前が増えるのを歓迎しない愛国的な理由とか。表向きの理由はもっともらしかった。しかし、公が認めた名前以外は認められないという、管理社会の臭いを嗅ぎ取って反発する人も多かったという。

 とはいえ、子供たちには分かりやすく人間らしい名前が必要だというのは否定できないことであり、結局はこの法律は受け入れられた。


 蓋を開けてみれば、真っ当な命名をする大部分の親にとっては何の問題もない制度であり、ここ数十年ですっかり社会に受け入れられている。どうしても変わった名前を付けたい親のためにはコンマ以下にゼロが幾つか並ぶパーセンテージで新規命名枠が設けられており、例年どんな珍名が申請されるかで下世話な注目の的になっている。新規枠を使って名付けられた子は進学や就職で差別されるというのは、噂の域を出ないが十分ありそうなことであり、伝統的な名付けへの回帰に拍車をかけていた。




 そういった事情のほとんどを、私は今までさして気にかけてこなかった。だって――


「マリア、ってつけたいだけなのに。何もおかしな名前じゃない、素敵な名前。割り当てだってたっぷりあるはずなのに、今この時に限ってダメだなんて」

「そういう規則だから仕方ない。期限までは時間がある、また行ってみよう」

「そうね、毎日行ってみるわ。赤ちゃんのことはお願い。うちの親にもお義母様にも手伝ってもらわなきゃ」


 夫の顔がひきつる理由が分からない。大事な娘のために、それくらいしようと思わないのかしら。

 マリア。聖母の名前。清らかで古風で。シンプルでありふれてるけど呼びやすいし可愛い響き。おばあちゃんとママと私と。受け継がれてきた名前。それを娘にも名付けたいって、とても自然なことだと思うのに。お腹の子の性別が分かった時から、ずっとその名で呼んでいたのに。


「『マリア』さんは沢山いるはずよ。赤ちゃんからおばあさんまで。いつ空きができるか分からないし、できても取られちゃうかもしれない。チャンスを逃すことなんてできないわ。私たちの赤ちゃんのためよ。ここで妥協したら一生後悔しちゃう」




 夫に言った通り、私は役所に日参した。最初に行って拒絶されたのが出産から十日後。出生届の提出期限まで三週間もない。夫に母に、時には義母に。娘を預けて。あるいは私が娘の面倒を見ている間に行ってもらって。

 でも、言われる言葉は変わらなかった。


「その名前をつけることはできません」


 顔見知りになってしまった担当者に、便宜を図ってくれても良いじゃないと叫びそうになったこともあった。良い歳をした大人だから我慢したけれど。「マリア」たちは沢山いるのだから、一つくらい枠を空けてくれても良いと思ったけれど。


「どんな名前でも娘への愛は変わらないよ」

「そうね」


 夫に対しても生返事になってしまう。

 この頃私は嫌な夢ばかり見るのだ。


 チューブに繋がれた老婆。皮膚は萎びて古い紙のよう。まぶたは重く、わずかに覗いた目も光を失って濁っている。大仰な機械に映し出された波線。それが次第に平坦になり、ついには一本の直線になる。アラームが鳴って医者と看護師が駆けつける。彼らが口々に呼ぶ名は――。


 凄惨な交通事故の現場。被害者は若い女性だ。血の海の中に投げ出された白い手足。蝋のように色を失って、生命が宿っていないことは明らかだ。画像や動画を撮ろうとたむろする野次馬たち。彼らをかき分けて、救急隊がやっと到着するが、惨状を見て首を振る。救命のための処置をする代わりに、被害者の荷物を検めて身分証を探し出す。そこに記された名は――。


 どこかの森の中、打ち捨てられた少女の遺体。全裸の細い肢体に痛々しい暴行の跡が見える。彼女を犯した男が穴を掘っている。彼女が一人朽ち果てるための穴を。まずは彼女の衣服や持ち物が投げ込まれる。鞄から散らばるノートや教科書。幼い字で綴られた名は――。


 皆「マリア」だ。そう、娘のために枠が空くには、どこかの「マリア」が死ななくてはならない。

 眠る娘を抱いて揺らしながら、罪悪感を噛み締める。

 最初の贈り物に妥協したくはないけれど、そのために人の不幸を願ってしまう母親を、この子はどう思うだろう。


「マリア、マリア……」


 毎日のように呼びかける名前を、この子ももう覚えているだろう。絶対に、何があっても。今更別の名前なんて考えられない。でも……。


「怖い顔をしているよ。赤ちゃんは僕が見ているから、君は散歩でもしてきたら?」


 夫の申し出に涙が出そうになった。そう、確かに今の私には頭を冷やすことが必要だ。




 近所の公園に来てみたものの、気分転換にはならないことを思い知らされた。

 スリングやベビーカーで赤ちゃんと散歩を楽しむ母親。歩き出したばかりの子を砂場で遊ばせる父親。走り回る子を、目を細めて見守る祖父母。

 様々な月齢や年齢の子供とその家族を見るにつけ、考えずにはいられない。

 この人たちは皆、願い通りの名前を子供に付けてあげられたのかしら? それとも他の、思ってもみなかった名前にせざるを得なかった? それでも子供は同じように可愛いものなのかしら?


「マリア!」


 不意に聞こえた怒声に我に返る。

 一体どこの誰だろう。私の娘の名前、私の宝物の名前をあんなに吐き捨てるみたいに口にするのは。


 頭を巡らせると、答えが分かり――私は眉を顰めた。


「グズグズするんじゃない! 置いてくよ!」


 唇を歪めて唾を飛ばすのは、ぼさっとした長髪の若い女。傷んでぼさっとした髪も、伸びたTシャツも、どこか汚らしい。

 その女の視線の先にはやはり汚れた服を着た女の子。五歳か六歳くらいだろうか。汚れの直接の原因は彼女が転んで服の全面が砂まみれになったからだけど、そうでなくてもサイズの合っていない染みだらけのワンピースは清潔とは言いがたい。


「ごめんなさい……」


 蚊の鳴くような少女の声は、女のだみ声にかき消される。酒? 煙草? どちらにしても下品で厭な感じ。

 起き上がろうとする少女に、母親らしい女が手を差し伸べることはない。ただ、嫌悪と苛立ちに満ちた目で見下ろすだけだ。


「また汚して。早くしなさい!」


 倒れた少女が立ち上がる前に、母親は去ってしまった。少女は途方に暮れた表情で辺りを見回すが、誰もその目線には応えない。幸せそのものの家族像たちは彼女のことなど見えていない。

 幼いながらに居場所がないことが分かるのだろう、少女の痩せて大きな目が涙に曇った。よく見れば最初の印象よりも二つ三つ大きく思える。あまりに細いのと、ワンピースのデザインが子供っぽいから歳よりも幼く見えるのだろう。成長に応じた服が買ってもらえていないのかしら? その寄る辺なく顧みられない姿に、胸が締め付けられる。


 その時、天啓が、降りた。


 この子はとても可哀想。あんな親のところにいてもきっと幸せになれないに違いない。

 私は、私の娘は違う。マリアを泣かせたり、悲しませたりなんてするものですか。娘にその名をくれるなら、この子の分まで幸せにしてみせる。


「マリア、ちゃん?」


 名前を呼ばれた少女は、はじかれたようにぴくりと身体を震わせて私を見上げてきた。やっぱり可哀想。名前を呼ばれる時は叩かれる時なんだ。親に愛されないなんて辛いだろう。早く解放してあげなくちゃ。


「大丈夫? 痛くなかった? おばちゃんのおうちにこない? お洋服を洗ってあげるし、お菓子もあげる。可愛い赤ちゃんもいるのよ」


 微笑みを浮かべるのは多分かなり久しぶりのことだった。筋肉を無理に動かすような、そんなぎこちない表情でも、虐げられた少女は騙されてくれる。お返しの笑みは私よりもなお不器用な、口元を引きつらせるだけのもの。それでも手を差し伸べれば、小さな手をおずおずと伸ばしてくれた。

 

 少女の手を引きながら歩く。人目を気にする必要はないだろう。誰も自分の子供で手一杯だし、この子の親は娘の不在を気に留めるとは思えない。

 だからといって電車に乗るのは駄目だけど。監視カメラに映像が残ってしまう。

やはり車かしら。今日は義母の車がガレージにあるはず。そしてどこか山奥へ行って。終わらせて。穴を掘る。嫌な夢も役に立ちそう。


 どこかの「マリア」がいなくなれば私の娘に枠が回ってくる。


 やっと、数週間ぶりに、心のつかえが取れて晴れやかな気分になった。

 鼻歌さえ歌いながら、私は家路についた。

遺体が見つからないと枠は空かないと思うのですが彼女は気付いていないようです。

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