Kunststricken 人間模様
糸の端を輪にして、かぎ針で作り目を八目編みつける。二目ずつ、四本の棒針に取って中心に隙間がなくなるまで糸端を引く。そして五本目の棒針で編んでいく。一段目は表編み。二段目は表編みと掛け目を交互に繰り返す。合計十六目。三段目も表編み。掛け目はねじり目で編むこと。
交差編み、玉編み、増し目、減らし目。ほんの小さな円から始まった作品は、みるみるうちに丸く大きく広がっていった。細い糸が重なり合い絡み合って繊細で美しい模様を描く。製作者である老婦人の腕は確かで、迷うことも特別手元に目を落とすこともない。一定のリズムで糸玉が解けていき、金属の針が触れ合う鈴のような音が響いた。
「博士にこんなご趣味があったとは存じませんでした。お見事なものです」
感嘆の声を上げた男は、老婦人の伝記を著そうと、彼女の同意を取り付けに来た文章家。彼女の機嫌を損ねることは口にできないとはいえ、彼の言葉には社交辞令ではない賛意が溢れていた。
率直な賞賛を受けて、老婦人ははにかんだように微笑む。
「母や祖母に比べれば大したことはないんですよ。でも、編んでいるうちは頭を空っぽにできるから。研究に行き詰まった時の気分転換に良いんです」
「例の理論も、編み物をしている時に着想を得たのですか?」
孫を公園で遊ばせているのが似つかわしい風情の彼女だが、見た目通りの人間ではない。
数学者、医者、脳科学者……数々の肩書きが示す通り、その頭脳にはレース模様など比ではない緻密な理論が詰まっている。彼女の容姿はさほど知られていなくても、その名を聞けば多くの人がなるほどと思う。それだけの功績を彼女は残してきた。
中でも彼女の名声を不動のものにしたのが、男の言う例の理論――レースワークと呼ばれる脳科学の理論だ。
一本の糸が繊細なレースを織り成すように、参加者同士の脳をつないで、遠くにいながらその場にいるような感覚で感情や情報を交わすことができる、とされている。実現にはまだ技術的な問題が多いが、近い将来きっと社会を変える理論として大いに注目を集めている。
従来のネットワークに対してレースと名付けたのは、女性らしい感性の表れと思われていたが、単純に編物の趣味に由来していたのだろうか。
「ええ。……ちょっと待ってくださる?」
老婦人は編み針と編みかけの作品を置くと、一度別室に姿を消した。程なくして戻った彼女の手にあるものを見て、男は再び驚嘆の溜息を漏らした。
「これはまた……素晴らしい。すべて手編みで?」
広げられたのは、テーブルクロスにもなりそうな大判のレース編みだった。それも、単なる同じ模様の繰り返しではない。手のひら程の面積のものを何十枚と繋げて一つにしたものだった。幾何学模様、螺旋を描くもの、花の模様、蔦のような模様。糸の素材や太さ、色も微妙に違う。ちぐはぐに見えてもおかしくないのに、パッチワークというよりは一つの作品として絶妙な調和を見せている。
「長年かけて少しずつ編んでは繋げたのよ」
老婦人は誇らしげに胸を張った。
「大きさだけは合わせて編んで、貯めていたの。繋げるときには大分頭を悩ませたけど。だって全部違う模様なんですもの。でも、こんなに綺麗な作品ができた。
人間も一人ひとり違うでしょう? 全ての人を繋げたら、どんな世界になるかしら、って思ったのよ」
「なるほど」
男は重々しく頷いた。レースワークの具体的な技術に関しては、彼の理解に余る。手芸の妙についても。彼女は一種の天才だから、常人にはもっともらしい相槌を打つのも難しいのだ。
とはいえ、彼は職業柄好奇心が旺盛だった。レース。編む。繋ぐ。人間を。彼にも理解できるキーワードから、興味深い疑問が浮かぶ。
「子供の頃、同級生におばあちゃん子がいましてね。冬になるとよく手編みのセーターを着ていたな。色や型は、何ていうか少々古臭かったけど、とても暖かそうだった」
脈絡のない思い出話に老婦人は小首を傾げたが、遮ることはしないで男の言葉に耳を傾ける姿勢を見せる。
「ある日、その子のセーターにほつれた糸端を見つけまして。子供のすることは想像ができるでしょう? その糸端を引っ張り出してどこだったか出っ張った釘にでも引っ掛けておいた。何も知らないその子は元気に走り回って――気がついたらセーターの後ろ身頃が半分ほどけていた」
その場を想像したのか、老婦人は上品に声を立てて笑った。彼女に孫はいないが、いたとしたら同じことが起きていたかもしれない。
彼女の反応に気を良くした男は滑らかに続ける。
「その子の家まで謝りに行かされたのは良い思い出ですが……まあそんなことは良いでしょう。言いたいことは分かっていただけましたか?
人類全体を一枚のレース編みのように繋げるという博士の理論、非常に画期的で素晴らしい。ですが、仮にどこか――誰かににほつれが生じたら? その一点から作品全体がほどけてしまうのでは?」
男の指摘にも老婦人の笑みが消えることはなかった。彼女は鋏を手に取ると、大判のレース編みを何箇所か大胆に断ち切った。
「何を……!」
大作を台無しにする行為に慌てる男を、老婦人は穏やかに制した。
「ほつれたパーツは思い切って切り取らなければ」
老婦人が鋏を入れたのは、小さなレース編みを繋ぎ合わせる糸だけだった。切れ端を指先で除き、切り取られた一枚をつまみ上げながら、彼女はにこやかに続ける。
「また同じ大きさのものを編めば良いのです。違う模様、違う糸で編めばまた雰囲気も変わって楽しいでしょうね。
痛んだのがほんの一部なら、その部分だけ糸を付け替えて編み直すこともできますし。
あなたの懸念はもっともですけど、幾らでも対処が可能ですのよ」
楽しそうに語る老婦人の表情は、手仕事が大好きなおばあちゃんそのものだった。しかしなぜか男を不安にさせる。
「レース編みの、お話をされているのですよね?」
「もちろん、人間社会のことですよ」
老婦人は笑みを絶やすことなく、男に紅茶を勧めた。多才な彼女は茶葉にも茶器にもこだわりがあるらしい。可愛らしい花模様のティーコゼーも、きっと彼女の手編みなのだろう。詳しくない彼にも、香り高い茶が美味であることだけは分かった。
人々の脳を直接繋ぐレースワークという理論。人の心が分かり合えるようになる、夢の技術だという。一面の真実ではあるのだろう。
しかし、編み手の存在を意識するとその絵はがらりと変わる。レース編みのような人間模様を上から眺め、管理する上位者の存在。粗悪な部分は無造作に切り取られ、置き換えられる。
「レース模様が蜘蛛の巣に見えてきました」
男が独り言のように呟くと、老婦人は目を輝かせた。
「ああ、面白いモチーフですね。今度考えてみましょう」
レースワークは近い将来理論ではなく現実のものとなる。
明朗な老婦人との会話を楽しむ振りをしながら、男は自身が何か大きなものに絡め取られていくのを感じていた。