一話
彼女が死んだ。
目の前から、まるで空気のように消えてしまった。
出会って、仲良くなって、付き合って。
長い時間をかけたつもりだったのに、いなくなってしまうのは一瞬だった。
雨の降る、冷たい日だった。
アスファルトの地面から跳ね返った雨粒が、俺と彼女の足元を濡らした。
人も車も少ない道で、二人並んで、笑い話でもしながら家に向かっていた。
突然、彼女は俺を突き飛ばした。
彼女は盾になった。
優しい彼女だった。
優しすぎる彼女だった。
いつも俺のことを気に掛けてくれて、世話好きで、お節介で。
俺は、少しでも彼女のために、何かをしてあげただろうか?
彼女が喜んでくれることを、してあげられただろうか?
ベッドの上で彼女は眠っている。
眠っているかのように動かない。
個室の窓の外は、星も見えそうなくらいに透き通っていた。
冷たくなってしまった彼女の手。
もう俺の温もりが伝わることはない。
?「ご心中、お察し申し上げます」
病室のドアは開いていない。
俺と彼女のほかは誰もいないはずだし、ラジオやテレビが点いているわけでもない。
?「どうも、失礼しました。私、人間取引業者でございます」
俺の目に現れたのは、真っ黒いローブを被った半透明の人物。
落ち着いた声を放ちつつも、どこかユーモラスに聞こえる。
おまけに足も見えない。
とうとう幻覚まで見え始めたのだろうか。
?「人間世界で言うと…死神という言葉が当てはまりますかな」
俺「…」
死神「驚かれるのも無理はないでしょう。ですが、言葉のキャッチボールは重要なものでして」
夢か?
それとも、これが現だとでもいうのだろうか。
霊感なんて無いものだと思っていたが、そうでなければ、俺の頭がどうにかなってしまったのだろうか。
死神「誰でも最初は同じです。一部、例外はありますが」
俺「……え、っと…」
死神「ありがとうございます。先ほど申し上げた通り、私は人間取引業者です」
俺「な…」
死神「とりあえず落ち着いてください。ゆっくりとお話ししましょう」
死神という奴と一緒に、俺の頭が冷静になるまで15分ほど。
彼女を挟んだ向こう側に、ただ静かに死神は立っていた。
俺「それで…何ですか?」
死神「もう大丈夫ですか?」
俺「はい…」
死神「では、お話し致します。また、質問は最後にまとめてお願いします」
私は、いわゆる死神と呼ばれる者です。
そして、人間取引業者であります。
人間取引業者というのは、すでに死んでしまった人間の体に、別の魂を入れるというものです。
魂が戻れば、死んでしまった人間は生き返ります。
ですが、人間の体に人間の魂を入れる訳ではありません。
入れる魂は魔族の魂です。
人間世界で、人間の体を使い、魔族として生きさせる。
これが我々の目的です。
死神「何か質問はありますか?」
俺「…ぅ、え…え?」
何一つ頭に入ってこない。
それが分かったのだろうか、1枚の紙を差し出してきた。
死神「そこには、私が話したことが書いてあります。ごゆっくり目を通してください」
未だ出会ってから数十分。
俺に何を分かれというのだろうか。
俺「…生き返るって、本当ですか?」
死神「本当です。そこに書かれていることは全て」
俺「生き返ったとして、彼女は…」
死神「体はそのままですが、記憶、性格などの内面は変わってしまうでしょう」
俺「…」
死神「でも魂によっては生前と変化が少ない事もありますよ」
俺「選べるのか?」
死神「それは非常に難しいです。入れる魂はランダムとなっておりますので」
俺「…もう少しだけ考えさせて下さい」
死神「出来ません。決まりなので」
俺「…。なぜ魔族なんだ?」
死神「魔族の中には人間世界に興味を持っている者達がいます。その者達の道案内をするのが役目です」
俺「…魔族っていうのは、安全なのか?」
死神「はい」
死神は再び紙を差し出した。
上半分は細かな文字が羅列してあり、中央下に名前を書く欄がある。
契約書だ。
俺はどうすればいいのだろう。
ベッドの上で微動だにしない彼女を一目見て、考え直した。
死神「それでは、私はこれで」
半透明の物体は、霞のように消えていった。
俺と彼女の二人だけの空間に戻った。
何を話しかけていいかもわからず、ただ寝ている彼女を見つめた。
後悔とは文字のごとく、後からやって来るものである。
自分のしたことは正しかったのか。
取り返しのつかない事をしてしまったのではないか。
考えれば考えるほどに、手の震えが止まらなくなる。
五分くらいそうしていただろう。
布団が飛び跳ねるほどに、彼女が動いた。
思考も、震えも、心臓の鼓動さえも止まったかのようだった。
彼女「…ここが人間世界?」
…喋った。
体は完全に硬直してしまった。
彼女「おい、そこの」
俺「…」
彼女「黙られても…」
俺「は、はは…面白い夢だ…はは、は…」
彼女「大丈夫かー?」
こりゃ傑作だ。
あの優しかった彼女が、俺にドッキリを仕掛けようだなんて。
トリックはなんだ?
車に轢かれて死なないトリックは。
心臓が停止しても生きていられるトリックは。
彼女「とにかく逃げるぞ。ここから離れた方がいいんだろ?」
俺「なぁ、教えてくれよ。ドッキリは成功したろ?」
彼女「ったく、なんで私が…」
あれ? 俺は引きずられてる?
病院の外だ。
駐車場が見える。
俺を引っ張っているのは誰だ?
なんだ、俺の彼女か。
彼女「お前の家はどこだ。早く言え」
俺「あは…あは…楽しいな…」
彼女「…」
今度はなんだ?
空だ。
俺は空を飛んでる。
手は…しっかりと彼女の手首を掴んでいる。
もしかして、今手を離したら…死ぬ?
俺「嫌だ! 死にたくない! やめてくれ!」
彼女「バ、バカ! 暴れるな!」
彼女「私に探索能力があって良かったな」
気が付けば見覚えのあるドア。
なんで俺は自宅前の地面で寝ているのだろう。
酔い潰れて、鍵を開ける前に力尽きてしまったのだろうか。
…どうしようもない奴だな、俺は。
早く家の中に入ろう。
こんな姿、近所の人に見られたら…。
彼女「おい、早く開けろ」
俺「…」
ポケットの中から鍵を取り出して鍵穴に入れようとするが、手が震えてなかなか入らない。
こりゃ完全に飲みすぎたな。
そういえば頭も痛い気がする。
早く寝よう。
もう片方の手で震えを抑え、ようやく玄関のドアを開けることが出来た。
彼女「ここで靴を脱ぐんだろ? 今は履いてないけど」
ああ、ベッドまでが遠い。
いつもの倍以上の距離があるみたいだ。
何かにつまづくようにベッドに倒れ込み、気を失ったかのように眠った。
彼女「おい、私はどうするんだ。聞いてるのか!? おい!」
今日もまた一日が始まるのか。
まずトイレに行って。
…たまに彼女が朝ごはん作ってくれたっけ。
俺が作るしかないのか。
そんな事を考えつつ、まだベッドの上で目を開けられなかった。
今何時だろうか。
…何時でもいいか。
どうせやる事なんてないんだし。
彼女「今十時半だぞ」
俺「…」
彼女「さっきの言葉、全部漏れてたぞ」
俺「…」
彼女「はやくトイレ行って朝ごはん作れよ」
彼女は誰だろうか。
彼女は俺の彼女だ。
出すモノを出しつつ、上の空で考え事をしていた。
…少し的から外れたか?
手を洗って戻ると、俺のベッドの上に座る彼女がいた。
彼女「はやく作れよ。日本食ってのを楽しみにしてるんだから」
俺「…魔族って何食べるの?」
彼女「ミミズ」
俺「…」
彼女「嘘だ、嘘。いいから早く作れ」
作れと言われても、俺が作れるものは限られてくる。
卵を焼くくらいなら出来るし、朝ごはんにも出来るし、問題ないだろう。
そうして出来た卵焼きと、昨日の白ご飯を合わせ終わり。
彼女「…これが日本食か」
俺「はい…」
なぜか箸は使えるみたいだ。
魔族も箸を使う文化なのだろうか。
今さら気が付いてみれば、俺は彼女の名前すら知らない。
いや、彼女の名前は知っているのだが、彼女のフリをした何者かの名前を知らない。
俺「…」
彼女「な、なんで見つめる」
俺「あ、あの…なんて呼べばいいか…」
彼女「ああ、まだ名前を言ってなかったな。悪い悪い」
俺「それで…」
彼女「私の名前は、ゴルバチョフ・ゴンザレス・ミナツィレア」
俺「…」
ミナ「ミナって呼べばいいわ」
上手に箸で卵焼きを切り分けつつ、そう名乗った。
美味しいのか不味いのか、よく分からない表情のまま食べ進めていく。
生前の彼女とは、顔は一緒なのに表情は全く違う。
俺「…」
ミナ「だから何だよ。そんなに見るなよ」
俺「いや…ごめん…」
ミナ「…。この体の事か」
俺「…」
ミナ「聞いてもいいのか分からないが、一応聞く権利は持ってる」
俺「話すのは…」
言ってしまえば、彼女の死を認めているようで嫌だった。
死んだという事実は理解しているのだが、受け入れるわけにはいかない。
クローゼットの中に、物陰に、まだ彼女が隠れているような気がしていた。
ミナ「…まぁ、お前にも拒否権はあるんだ。話したくなければ無理する必要はないさ」
死から逃げているだけだ。
分かってはいた。
だけど、逃げる以外に道がなかったらどうする?
迷うことすらしないだろう。
怖いんだ。
ミナ「食った食った。もう片付けていいぞ」
俺「…」
ミナ「また無視か…」
逃げ道しかなかったところに、別の道を用意してくれたのかもしれない。
ミナは、もしかしたら…。
ミナ「いい加減にしないと怒るぞ」
俺「俺の彼女は…優しかったよ」
ミナ「…」
俺「優しくて優しくて…時には怒られて。守られてばっかりだったよ」
自然と涙が流れていた。
悲しみの涙なのか。
それとも、新たな道を作ってくれたミナへの感謝なのか。
思えば、今まで泣く暇がなかったのかもしれない。
そもそも、彼女の死を認められなかったのだから、泣く必要がなかった。
一緒に鼻水を垂らしながら、そこで全て出し尽くした。
ミナ「…落ち着いたか?」
俺「…」
出すものを出した後の顔は、きっと酷い有様だろう。
いつの間にか隣に座ってくれていたミナ。
急に恥ずかしさが込み上げてきて、咄嗟に反対側を向いた。
ミナ「ほら、これで拭けよ。魔族みたいな顔になってるぞ」
すっと差し出された白い手に、ティッシュが何枚か持たれていた。
彼女と同じような優しさに、制御できない涙が再び流れ始めた。
ハロウィン企画だけど、ハロウィン要素はなし。
1話はシリアス。
2話はサッパリとした恋愛もの。(予定)