第7話 「大丈夫だよ、きっと」
日が西にかたむき、辺りが赤やオレンジに染まる時間。校庭を走る女の子が一人。友人の環からもらった紙を持って息を弾ませる藍子だった。
校門にもたれながら待っている裕人を見つけると手を振って近づく。
いつもは近づけない距離を一気に縮め、肩が触れ合うほどに近づいた。
「ごめんね、裕人君。待った?」
「大丈夫だよ」
『全然待ってないよ』とは言わず、『大丈夫だよ』というあたりで、裕人が長時間待っていたことがうかがえる。藍子は頭を下げて謝った。すると裕人は慌てて「大丈夫だから」と言った。
『大丈夫』裕人が良く口にする言葉だった。藍子は少しこの言葉が気になる。裕人は藍子の言うことをよく聞いてくれるし、特に反対されたこともない。すべては『大丈夫』に集約されていた。大抵は「私に優しいなぁ」と、くすぐったい気持になるが、「もっとわがまま言ってくれていいのに」と不満に思うこともあった。
そして今回もネットカフェのことを話すと「いいよ。大丈夫」と言ってくれた。
オレンジ染まる駅前を裕人と藍子が並んで歩く。人通りが多いせいで手を繋ぐことはできない。でも、藍子は満足だった。みんなの前で堂々と二人で歩くなんて凄く幸せなことだと思ったのだ。もし世間体を気にしないのなら「私たち付き合ってるんですよ!」って言いながら歩きたいぐらいだった。自然に笑みがこぼれる藍子はそっと盗み見るように隣の裕人の顔をうかがった。
裕人は特に表情もなく淡々と駅前を歩いていた。自分とは対照的な表情だけど、藍子はマジマジと見てしまう。実は藍子が裕人を好きになった理由は無表情な顔だったりする。自分が感情表現が大袈裟な分、物事に動じない大人な印象を持ったのだ。「きっと裕人君なら悲しいことがあっても動じないんだろうな。この人といれば色んなことも乗り越えられるかもしれない」と羨ましくなったのが興味を持ったきっかけだった。
だけど付き合ってみて、少し印象が変わった。もちろん普段は表情を変えず、どっしりと構えた頼りがいのあるイメージは変わらない。しかし、コスプレを始めてからの裕人のうろたえ様には新鮮な驚きがあった。「こんな表情もするんだ」と年相応な側面も垣間見えて嬉しくなったのも事実だった。
藍子が裕人をしばらく見つめながら歩いていると、ようやく視線に気づいた裕人が藍子へと顔を向ける。
「仁村さん、どうしたの?」
「あのね綺麗だなって」
「え? ああ、綺麗だね、夕日」
裕人は自分の奥で沈んでいく夕日へ目を細めた。藍子は裕人のことを言ったつもりだったが、誤解されたことに苦笑すると同時に「このままでいいか」とも思った。
「この前も言ったけど、夕日って大気中のチリや埃が短い光の波動を弾いたり吸収したりして、長い波長の赤っぽい可視光線だけが僕らに届くからなんだよね」
「ふうん、不思議だね。私達が綺麗だと思ってたものは、チリや埃のせいだなんて」
「そうだね」と言ったきり裕人は黙ってしまう。特に不思議がることもなく藍子は見つめていたが、やがて裕人がポツリと呟いた。
「外側だけ見てたらわからないこともあるんだろうね。もっとも、汚れた部分なんて人は見たくないと思うけど」
「裕人君?」
藍子が裕人を覗き込むと、彼は斜め下を向いて無表情というよりは苦笑しているように見えた。「この表情って、私が告白して返事を待っているときの表情に似てる」と直感で藍子は思い出す。告白時の不安が思い出されて少し不安になった。
「裕人君、手を握っていい?」
「え? ……いいよ」
藍子が手を伸ばすと、裕人の手が包み込んだ。すると藍子は安心する。今は触れられるんだね。私たち付き合ってるんだよね。と心に言い聞かせた。
藍子と裕人はようやく環の言っていたネットカフェに到着した。藍子は入店前に携帯電話で時間を確認する。時刻は日の入りまで後三十分をさしていた。おそらく店内で二人きりでいられるのは三十分。これからが勝負だと意気込んだ。受付を済ませ店内に入る。カップルシートに座ることになるのだが、途中で自分は飛ばされてしまうだろうと藍子は考えた。しかし、その目論見は崩れ去った。
入店して五分ほどで徐々に裕人との距離が離れていくのを感じた。目に見えない圧力に負けて徐々に後退していく。藍子は慌てているが、裕人は諦めたように小さくため息をついた。まったく理解できなかった。まだ日没まで時間があるというのにどうして離せるのだろうか? いつもと何が違うの? と何度も自問自答した。せいぜい違うのは場所ぐらいだ。川辺とネットカフェ。
藍子が一気に飛ばされ、カップルシートから追い出されると、誰かが背中にぶつかった。
「ご、ごめんなさい!」
藍子が押し出されながら懸命に謝ると、ぶつかった相手が話しかけてきた。
「意外に早かったな。だが店内にはいてもらうぞ」
「え? ――タマちゃん」
下げた頭を上げると目の前には環と彦野悟が立っていたのだ。
「ど、どうして二人で? もしかして付き合ってるの?」
「「違うっ!」」環と悟はユニゾンのように声を合わせた。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「「好奇心」」再び環と悟は声を合わせた。
「ようするに私と裕人君を冷やかしに来たってこと?」
「「うん」」環と悟はうなずいた。
「二人とも……」
藍子の瞳にどんどん涙が溜まっていく。さらに頬を膨らませて「むうぅぅ……」と唸りを上げた。
「おおっ、コスプレもいいけど、藍子ちゃんのプンプン顔も最高!」
「馬鹿、彦野悟、よく見ろ。コイツは本当に怒ってるぞ」
「え? 頬を膨らませてるのに? マンガみたいな顔なのに?」
「……それを普通にやってのけるのが藍子なのだ」
環と悟がヒソヒソ話をしている背後では爆発寸前の藍子が小刻みに震えて拳を振り上げた。
「もうっ! 絶対にタマちゃんのノートパソコンをかち割るっ!」
「馬鹿! それは店のパソコンだ! 彦野悟、藍子を抑えろ!」
「ええっ!? それイスだよ? なんで振り上げてるの? うわあああぁぁぁっ!」
この後、藍子、環、悟がお店の人にこってり怒られたのは言うまでもない。
精神的にヘトヘトになりながら家に帰った藍子は、仏前の母親に今日のことを報告すると自室へ倒れるようになだれ込んだ。
「もう、疲れちゃったよ」
藍子はなにに対して疲れているかよくわからなかったが、とにかく眠りたい気持になった。ウトウトとまぶたを閉じかけた頃、携帯の着信音が鳴った。確認すると裕人からの電話だった。一気に目が覚めた藍子はベッドの上で正座をして電話にでた。
「もしもし? 今日はごめんさい! ごめんなさい! もうしません!」
裕人に話す機会を与えずに一気にまくし立てた。
『いや、大丈夫だよ』
いつもどおりの裕人の返事に藍子はホッと胸をなでおろした。こういう時の大丈夫は安心するなぁと藍子の表情は弛んだ。
その後は今日の話や他愛のない話で時間が過ぎていった。だが、藍子にとってはこの時間こそが大切だった。特別な時間ではなく、なんでもない時間に二人で話ができる幸せを感じたのだった。すると疲れていた体がどんどん力を取り戻していった。恋するとはこういうことなのかな? と藍子は思った。と同時に「やはり普通のお付き合いがしたい」と切に願った。
気持が高ぶった藍子は自分の気持をそのまま伝えることにした。
「裕人君」
『なに?』
低い声が藍子の耳に飛び込んでくる。それだけで胸が締め付けられた。
「裕人君の体質を治して、私たち本当の恋人同士になりたいな」
藍子は『僕もだよ』という答えが聞きたかった。「どうやって体質を治すか」の話でなく、自分に賛同して欲しかった。
しかし……」
『僕は今のままでも十分恋人だと思うよ』
「そうだけどね……」
『夕方には二人きりになれるじゃないか』
「わかってるけどね……」
わかってはいるが、裕人の返事に落胆している自分がいた。「なまじ触れられるから、不安になるんだよ」と反論がしたかった。
でも、それは裕人の負担になる。やっかいな体質を背負っているのは藍子ではない、裕人なのだから。
「裕人君、もっと声聞かせて」
『え? う、うん……』
と言って黙ってしまう二人。
だけど、藍子には十分に力となった。「裕人と二人で頑張ろう」と心に誓った。誓っただけでなく言葉にする。死んだ母親にそう誓ったのだから。
「私、負けないよ。絶対に勝利を手にするんだから」
『仁村さんがそう言うなら、応援するよ』
「え? うん……」
裕人の言い方に引っ掛かりを覚える藍子。なんだか私だけ空回りしている気分だな。「でも、裕人君の体質が治ったら変わるよ。きっと」と自分を言い聞かせた。