第19話 「テリトリープリンセス」
静かな町内を緊張した面持ちで藍子は進んでいた。足音だけが自分の耳に入ってくる。なんだか寂しい感じ。「誰もいなくなれって思ったらこんな風になるのかな?」藍子は考えた。いくらハロゲンランプで中和しているとはいえ、押し戻される抵抗感は相変らずで足取りは重い。
歩き始めて数分後、自分の家の前を通り過ぎた。中には入らず、外から仏間の母親に頭を下げた。
生きている人間には伝えなきゃね。それが恨み言であっても、愛の告白であっても。
とにかくやるしかない。藍子は心で何度も自分を励ました。
二十分ほどたったころ、ようやく立浪家が姿を現した。ドアを開け、裕人の名前を呼ぶが返事が返ってこない。呼び出すことを諦めた藍子は真理亜に教わったとおりに二階の一室へ近づく。ドアには「裕人」と名札がかかっていた。
男の子の部屋にも入ったことないのに初めてがこんな泥棒みたいな羽目になるなんて……なんだかちょっと情けない気持にもなった。
「失礼しまーす」
ドアをゆっくり開けると室内が徐々に見えてくる。ベッド、机、本棚、クローゼット最低限のモノが揃っているシンプルな室内だった。顔だけ室内を覗き込むと、人の気配がしない。もしかして、人が誰もいないから外に出たのかなと考えた時、部屋の奥で物音がした。慌てて音のした方向へ顔を向けると、ベッドの上に大きな塊が見えた。
「誰?」
「君こそ誰?」
ベッドの上の固まりは答えた。藍子が手元にあったスイッチを付けると室内が明るくなり、室内の全容がうかがえた。
「もしかして裕人君?」
「仁村さん……」
塊だと思ったのは布団を被ってうずくまっている裕人の姿だった。「あ……」藍子はそのまま一歩を踏み出そうとした。しかし、いつもの抵抗感を感じまったく進めなくなった。
「裕人君、ちょっと待って」
「はい?」
藍子は緊急時にもかかわらず携帯電話を取り出し、環に電話をかけた。
「タマちゃん、大変だよ!」
『いきなりどうした? 立浪裕人とは会えたのか?』
「うん。近くまで来たんだけど、最初に近寄れなかった位置までしかすすめないよぉ」
『残り三メートル五十センチで止まったか。恐らくアイツの強烈な拒否反応が本来のパーソナルスペース発揮されてテリトリーを形成しているんだろうな。言わば立浪裕人の核の部分だな』
「どうしよう……」
『もし近づけたら殴れって指示を出そうとしたが、しょうがない薬を投げて飲んでもらえ』
「うん、残念だけどそうする」
藍子はため息をついて電話を切ると裕人へと向きなおす。
「裕人君、お待たせ~」
「は、はあ……」
毛布を被ったまま裕人は淡々とした口調で藍子へと質問する。
「仁村さん、一体なにしに来たの?」
「あのね……」
藍子はこれまでのいきさつを話した。
「僕が原因で町内の人が押し出されたの?」
「うん。でもね、この薬を飲んだらきっと――」
「嫌だって言ったら?」
裕人は藍子の言葉を遮るように拒否をした。まさか裕人が拒否するとは思っていなかった藍子は口を開いたまま動きを止めた。
裕人は口許が歪んで眉間にシワが寄っている。
「今までは僕が譲歩してきたんだ。次は君たちが遠慮するべきじゃないか」
「裕人君……本気で言ってるの?」
「本気だよ」
「ほら、この薬があれば治るんだよ」
「いらないって言ってるじゃないか!」
裕人は叫ぶとひざを抱え、下を向いた。
「……なんで、なんで僕を好きなんて言ったんだよ!」
「えっ……」
「君が告白して、僕が……僕が好きにならなければ、こんなことにならなかったのに」
「裕人君……」
このままではなにも進まない。
藍子は手を広げ深呼吸を始めた。全てを伝えよう。そんな気持になった。
「裕人君は覚えてないかもしれないけど、二年前、私はお母さんが死んじゃったことで落ち込んでたの。頻繁に川辺で座ってたそがれちゃって……そんな時、裕人君を見たんだよ」
裕人は下を向いたまま黙って聞いている。
「ちょうどさ、裕人君と元カノさんと別れ話をしてるところだったんだ」
思い出したのか、話を聞いている裕人の肩がわずかに揺れた。
「裕人君の体質も噂で聞いてたし、興味本位で眺めてたの。ぶっちゃけ人が悲しむ姿が見たかったってのもある。自分だけが泣いてるって状況が嫌で、悲しいのは私だけじゃないって気持になりたかったのかも。だけど裕人君少しも悲しい顔しないんだよ。理由は分からないけど」
「……ち」
「この人は大切な人に別れを告げられて辛くないのかな? って不思議になったの。んで勝手に結論付けたのが、『きっと今までもっと辛い目に会ってきたからじゃないかな』って思ったの」
「……ちが」
「だって、元カノさんがいなくなってから、裕人君すぐに立ち上がって『やっぱり、こんなものだ』って呟いて笑ったでしょ」
「……違うんだ」
「私には『こんなものだ』って振り切る力がなかったから。もちろん、彼女に振られたことと、母親が死んだことを同一に語っちゃいけないことも知ってる。でもね、私には力強さの象徴に見えたの。大切な人がいない世界でも自分の体質が恵まれないものだとしても『こんなものだ』って思える……開き直りでもいいから進む強さが眩しかった」
「違うんだ! そんな綺麗なものじゃない!」
「うん。知ってるよ」
「――え?」
「私だって気持ちはドス黒いもん。二年前、タマちゃんに励まされて何度も『お前になんかわかるもんか』って思ったもん」
「仁村さん……」
「ドス黒いままの気持で手を繋いじゃあ駄目なのかな? 好きになっちゃ駄目なのかな?」
裕人はなにも答えられなかった。自分の考えていたことが、ほとんど彼女に通じていたなんて。しかも、自分と同じだと主張する。
「裕人君。お互い気持を吐き出したところで仕切り直ししない?」
「仕切りなおし?」
「うん。もう一度、告白させて」
「好き」たった一言伝えるだけで、少女にとっては大事件、命懸けだ。十代少女にとっての決闘の場、それが告白現場である。
ここにもう一度告白しようとする女の子が一人。好きな人のドアの向こうから、布団を被ったままの男に対してだった。
「裕人君は夢がありますか?」
「夢?」
「その夢が理不尽な理由で諦めることになっても納得できますか? 私はできない」
抱えた膝越しに裕人は藍子を見つめていた。すでに視線を外すことはできない。瞳の中は彼女以外なにも映っていなかった。
「私の夢は裕人君なんです……裕人君といつまでも好きなときに触れ合えること。変ですか? 好きな人と一緒にいることが夢なんて間違っていますか?」
「いや……」
「私は夢を諦めません。だからチャレンジするんです」
言い終わった瞬間、部屋の中の音がなくなった。ゆっくりと藍子の口が再び開き、思いを込めた言葉を裕人にぶつけた。
「好きです。本当の恋人になりましょう」
藍子が一歩を踏み出すと、いつの間にか抵抗感はなくなり、足を進めることができた。
近づいてくる藍子に裕人は視線を逸らし、下を向いた。
こんなにもシンプルに自分を受け入れてくれた人が肉親以外にいただろうか。
こんなに不甲斐ない自分の事を夢だと言ってくれる人がいただろうか。
なんなんだよ、どうしてなんだよ、こだわってる自分がバカみたいじゃないか。
ムカつく、悔しい……でもなんなんだよ、この胸がドキドキする感覚は。
胸の奥からこみ上げてくる多幸感を裕人は抑えることができなかった。瞳の奥がじんわりと熱くなり、自然に身体が震えた。
裕人は俯いていた顔を上げる。涙を必死にぬぐいながら彼は答えた。
「うん。なろう、本当の恋人に」
「――裕人君っ!」
藍子は一気に駆け出すと裕人の胸に飛び込んだ。ベッドで二人はもつれ込むように倒れる。息気遣いが分かるほどの至近距離に迫っている二人。藍子はゆっくりと裕人の胸元から彼の瞳へと視線を合わせた。瞳の奥からじんわり涙が溢れそうになるのを必死に抑えたが、潤んでいくのを止められなかった。
やがて、二人は近づいていく。藍子の視線の先には裕人の口許しか映っていない。彼女が瞳を閉じると唇がそっと触れた。やや湿った柔らかい生の感覚が藍子の唇へと広がり伝わる。数秒後、藍子が瞳を開くと裕人の瞳が目の前にあり、少し驚いて唇を離した。
藍子の上気した頬や鈍く光る唇から視線を潤んだ瞳へと合わせた。裕人はもう彼女からを離せなくなる。
二人の息遣いだけしか聞こえない。藍子は寝転んだまま口許に手を当てて悪戯っ子ぽく笑い、裕人を見つめた。
「キスしちゃったね」
「う、うん……」
藍子はスカートへ手を持っていくと同時に裕人の耳元で呟いた。
「裕人君。女の子の『好き』を侮らないでください」
裕人の瞳が大きく開くと唇を震わせながら「は、はい……」と言うのが精一杯だった。彼の震える唇を塞ぐように藍子は唇を近づけた。
二度目のキス。今度は触れるだけではなく、口を少し開いてお互いの唇を甘噛みするような形になった。前後に軽く動かすと二人の粘膜が絡み合い、粘り気のある音を立てた。
裕人は目が細くなりうっとりした瞬間、異物を感じて目を大きく開いた。
「――っ?」
急いで顔をそらすけど、異物はノドの奥へと進み、ごくりと飲み込んでしまった。
「な、なにを……」
「ん? なんだと思う? それはね……お薬だよ!」
「えええええぇぇぇっ!!」
数秒後、裕人は眠り込んでしまった。入江アンの説明ではウイルスと戦うため、裕人は数時間眠ることになるということだった。
外では人の声が聞こえた。どうやら夕方になっていたようだ。
藍子は寝息を立てる裕人の頭をそっとなでて呟いた。
「最後にキスは勝つ……だったね」