第15話 「で? なんでキスになるんだ?」
朝になり、制服に着替えた藍子は学校に行くことが憂鬱だった。裕人に会わなくてはいけない。もしかしたら裕人が弁解に来てくれるかもしれない。
ふと、裕人の言い訳ぐらい聞けば良かったかもと思う。だが、慌ててそれを打ち消す。藍子にとってはその時その時が大切なのに自分をないがしろにした上、キスまでした裕人が許せない。ただ、決定的な現場を見てしまったことで、涙も出ない自分が不思議でもあった。
いつものように朝食を済ませ、仏間に向かい、瞳を閉じて母へ手を合わせる。
ふと思い出す二年前の出来事。母親は交通事故で死んでしまった。他愛もない会話を繰り返し、いつもの日常に起きた青天の霹靂だった。なんでもっと色々話さなかったんだろう。後悔だけが残った。その日から藍子は自分の気持ちはなるべく伝えようと決めた。だから裕人に告白するときも、内気な自分をなんとか払いのけ「好き」と伝えたのだった。
瞳を開けると目の前には母の遺影が。大切な人のことになるとやっぱり話せなくなる。怖いのだ。でも、遺影を見つめると自然に素直になれた。言わなきゃ。伝えなきゃ。もう後悔したくないよ。「うん」と一言呟くと力強く立ち上がった。
――その瞬間、何かに押されるような感覚に襲われた。勢いのまま壁にぶつかると動けなくなった。「なんのこれ……」わけがわからなかったが、この感触には覚えがあった。裕人のテリトリーの衝撃だった。壁伝いになんとか外にでると一気に押し出されるように家から離れていく。
藍子が背中を押されながら走っていると、隣から悲鳴を上げている人の声が。声のする方角へ顔を向けると同じように走っているエプロン姿のお隣さんが姿が。
「え? なんなのこれ? 裕人君のテリトリーに何か異変でもあったの?」
五分ほど押し出された先には大勢の人たちが集まっていた。ちょうど人だかりの手前で押し出される感覚が止まった。まったく意味がわからないままに立ち尽くしていると、藍子を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると環の姿があった。
「ようやく、真打の登場だな」
「どういうこと?」
「こっちが聞きたい。事情を説明してもらうぞ」
手を引かれて進んだ先には裕人の姉、真理亜と入江アンが立っていた。一瞬、藍子の足取りは止まるが、「気持はわかるが、今は我慢しろ」と環が力強く引き寄せた。
「藍子、見ての通り、ここにいる人たちは裕人のテリトリーに押し出された」
「ええっ? 見ての通りって……」
辺りを見回すと皆ほとんど顔見知りだった。藍子が周りを確認したのを認めると環は説明を始めた。
「この町内の人全員だ」
「ええっ、どうして? だってテリトリーは……」
「そうだ。好きと意識した人だけだったはずだ。なのに今は無差別に広がっている。しかも、じわじわと広がっている」
「なんで?」
「知るか! だが結論から言えば、裕人は全ての人を意識して遠ざけていると言うことだ。原因があるとすれば、お前か入江アンだろうな」
昨日のことだ。と藍子は直感すると同時に俯いて無言になってしまった。環はため息をついて腰に手を当てた。
「話してみろ。私と別れた後なにがあった。」
藍子は観念して、キスの現場を見たこと、喧嘩して分かれたことを説明した。
「立浪裕人……万死に値するっ! 今すぐ私がしばきあげてやる!」
「藍子たん。姉の私からも謝るわ。裕人がそこまでだらしない男だなんて……」
「いえ。私も言い過ぎたから」
「「言い過ぎじゃない!」」
環と真理亜は同時に藍子へ返事をした。なんだか味方が増えた気がして少しホッとした。
「待ってください。裕人は悪くない。悪いのは私なんです」
三人に割って入ったのは入江アンだった。環と真理亜の厳しい視線がアンに突き刺さる。藍子は横を向いて見ないようにした。
「環さんが去った後、裕人は私に『付き合うことができない』ことを伝えてきました」
藍子はアンの言葉に反応して、彼女を見つめた。アンは藍子へ視線を合わせるとハッキリとした口調で答えた。
「だから、私から無理やりキスをしました」
「その行為で藍子がどれだけ傷ついたかわかってるのか!」
「タマちゃん、止めて!」
藍子に抑えられて環はなんとか暴れる気持を抑えた。アンは口許を震わせていたが、やがて唇をかみ締めると、環へ叫んだ。
「私だって必死だったんです! 彼のウィルスが欲しかっただけなんだから!」
「どういうことだ。裕人へ近づいた本当の理由があるようだな」
「はい。ご説明します」
アンは頷くと地球人にも分かりやすいように用語を変化させて説明を始めた。
「戦争で同胞が減ったなんて嘘です」
「嘘だと? なんのために」
「見栄です。戦争とか星人滅亡とか絡めたら大事になるかなって。心配してくれるかなって」
「宇宙人が見栄張るなっ! この狼少年ならぬ、狼宇宙人!」
真顔で『見栄』と言い切るアンをみて、環は空いた口が塞がらなかった。藍子も眉を八の字にした。
「本当は地球で言うところのウイルスが原因なんです」
「ウイルスだと?」
「はい。このウイルスに感染すると、好意を持った人物に近づけなくなる病気です。私の星ではこの病気が大流行しました。好意によって発生する体内ホルモンを食料とするウィルスが感染すると、切なさを増大させるために、テリトリーを発生させて、接触による発散を防ぐという症状をもたらすのです」
「やっかいなウイルスだな。繁殖活動ができづらくなるな」
「タマちゃん。繁殖活動って?」
環は一気に赤面し、藍子へそっと耳打ちした。すると藍子も一気に赤面する。
「聞いた私が馬鹿でした……続きをどうぞ」
環と藍子につられて赤面したアンが咳払いをして話を続けた。
「環さんがおっしゃったように好きな人に近づけないことで少子化が進みました。子供が減っていき。愛のある結婚が困難になり……星は壊滅状態に」
「なるほど」
環は腕組みをしてうなずくとゆっくりアンに近づき、頭を叩いた。
「痛っ!」
「タマちゃん!」
「うるさい。ウイルスって十分大事だろうが! 見栄張る意味がわからんわっ!」
涙目になりながら、頭を摩るアン。宇宙人像からことごとく離れていく彼女を見て、環はため息をついた。
「はぁ。だが、お前たちの星も馬鹿の集まりではないだろう。ワクチンは作ることができたのか?」
アンは首を振った。
「私の星の状況では打開策が見つからなかった……そこでウイルスへの抗体を作るべく、環境の違う地球へ病原体を撒いて観察することにしました。過去にも地球でウイルスを撒いて進化できた実績があったので」
「なるほどな。お前がシードマスターだったわけだ」
「結果は芳しくなかったのですが……最近、裕人の体に数値上の変化が現れました。テリトリーが大きくなったり、消えたりするなんて、私達の星ではなかった。だから私は彼のウイルスが欲しかっただけなの」
「で? なんでキスになるんだ?」
「あのウイルスは粘膜感染しかしないからです。キスが手っ取り早いかなと思って……」「どうしてそうなるんだよ! 口の中の粘膜を採取すればいいだけだろ」
「事情を話そうと思ったら、彼が『もう付きまとうのは止めてくれ』って言うものですから。今、採取するにはこの方法しかないって……」
「っていうかお前も感染するだろ」
「でも、宇宙船のコンピュータが採取しろって言うので……それにもう私は発症しているので問題ないです」
「だったらなおさら意味ないだろう。お前はなにがしたいんだ?」
「もしかして私の努力は無意味? コンピュータの言うとおりにしたのに!」
「お前はそのコンピュータ依存から抜け出したほうがいい」
「でも、私は頭が弱いから無理~~」
するとアンは両手を頬で覆い、左右に顔を振って恥ずかしがった。環はそれをみてため息をついた。
「この宇宙人は馬鹿がアホかわからんな」
「タマちゃんどっちもけなしてるよ」
「だって、私達の星のウイルスには日没前にテリトリーがなくなるなんて症状無かったものですから……」
「なんだと? それは本当なのか!」
環はアンに掴みかからん勢いで迫った。アンは口をパクパクさせながらもなんとか答えた。
「は、はい。ですからこれを解析して一時間でも好きな人と触れ合うことができれば、私達の星もやり直せるかもしれないと……」
「おい、地球にはあって、お前たちの星に無いものはなんだ! 答えろ! 特に夕暮れ時だ!」
「ええっ!? 急に言われても……私、頭が弱いから」
アンは腕組みをはじめ考え出した。環は「宇宙人も腕組みして考えるのだろうか?」と藍子に耳打ちした。数秒後、ぽんと手を打つとアンは答えた。
「そうだ! あんなに綺麗なオレンジ色の恒星を見ることはなかったわ」
「恒星? ああ、夕日のことか。心もとないがそれをヒントに探すしかないだろ」
「うーん、うーん……」
「入江アン。お前に期待はしていない。早くUFOのコンピューターに考えさせるんだ」
「はっ! そうでした。早速行ってきます」
大急ぎで走り去るアンを見て環はため息をついた。
「あの星の仲間も皆馬鹿なんじゃないのか? UFOも偶然作れたとかさ」
それを聞きながら藍子は顔を引きつらせて笑うしかなかった。