第1話 「あと三メートル五十センチ」
「好き」
たった一言伝えるだけで、少女にとっては大事件、命懸けだ。十代少女にとっての決闘の場、それが告白現場である。
ここ、向坂高校にも命懸けの女の子がいた。体育館裏などと、呼び出されただけで「告白されるんじゃね?」と期待させるベタな場所を選び、少女はか小さき体で戦に挑もうとしていた。
胸に手をあて、伏目がちに前方をうかがっている。心音が頭の中で響き、口の中が乾きながらも、舌で唇を軽く舐めて、なんとか話しかけようとしていた。
やがて意を決し、ゴクリと生唾を飲み込むと第一声を発した。
「立浪裕人君」
ううっ、なぜにフルネームで呼んじゃったの私?
少女は心の中で自分に突っ込みを入れる。
名前を呼ばれた張本人は「はい」と返事した後、頬を人差し指でかきながら話しかける。
「なんの用かな?」
わざとらしい。と、客観的に見れば思うかもしれない。
だが、立浪裕人と呼ばれた男の子は眉をひそめて口は一文字。困ったような表情を浮かべている。
極めて情勢は少女に厳しい。
「えーっと、えーっと……」
少女は呼び出したにもかかわらず、告白の雰囲気に飲まれようとしていた。今にも泣き出しそうな表情だ。
なにか話さなきゃ! じゃなくて、今日は告白に来たんだよ! 言わなきゃ。伝えなきゃ。もう後悔したくないっ!
少女は軽く息を吸い込むと、瞳に力を込めた。
「わ、私は三組の仁村藍子って言います! ええっと、ええっと……以後よろしくお願いします!」
自分の名前を言い切った後、藍子は勢い良くお辞儀をした。
「え? はぁ、こちらこそよろしく」
裕人もつられてお辞儀をした。二人のお辞儀は、戻すタイミングを失って、しばらく頭を下げたまま数分間続いた。藍子は心の中で頭を抱えた。
違――――うっ! こんなことが言いたいんじゃないよ。確かに名前は覚えて欲しいけどなにやってんの私。頑張れ自分! ここまできたらもう退けないよ!
勢い良く頭を振り上げると、顔がすっかり上気していたが、気にしないで藍子は言葉を続けた。
「わた、わた、わた……しと……」
「綿? 使徒?」
「違います!」
「はい!」
「好きです! 私と付き合ってください!」
言葉を言い切った瞬間、藍子の脳内ではシャンパンファイトが開始された。さまざまな藍子が押し合い圧し合いでお互いの健闘を称えあった。やったー言えた! 言えた!
しかし、長老っぽい格好をした脳内藍子が手で制する。「まだ返事を聞いていないぞよ」と。
我に返った藍子は裕人の反応をうかがった。彼の表情は赤面しているわけでも、状況が飲み込めず固まっているわけでもなかった。
ただ斜め下を見つめ、苦笑を浮かべているように見えた。
裕人の態度に藍子はお腹の底から冷たいなにかが湧き上がってくるような感覚に襲われる。どこにも捕まれないような感覚。なにか言葉を繋がなくては、という衝動に駆られた。
「あの、やっぱり駄目ですか?」
しばらく斜め下を見ていた裕人だったが、小さく頷くと藍子と視線を合わせた。
「いいよ」
「え? ……本当?」
「うん。お付き合いしましょう」
えええええぇぇぇぇっ! 脳内藍子たちは一斉にざわめき、お互いを見つめあった後、一気に感情を爆発させた。私、歴史的大勝利っ!
「やった―――っ!」
「仁村さん、聞いてくれる? ただし、条件があって……」
すでに藍子は裕人の言うことを聞いていなかった。嬉しさのあまり、裕人の手を握り、何度も握った手を振った。
「本当だよね? これって本当なんだよね! なんて言ったらいいの? あぁ、もうわからない!」
藍子の両手に包まれた裕人の手。彼は間近にいる藍子を意識すると顔が一気に赤くなっていった。
「仁村さん、だ、駄目だよ! 手なんか握ったら――あっ」
「――っ!」
裕人が言葉をいい終わらないうちに藍子は目の前からいなくなった。正確には吹き飛ばされ、彼の数メートル後ろで倒れていた。
彼女は何が起こったから分からず、寝転んだまま呆気にとられている。
少し離れた場所で裕人がため息混じりに話を続けた。
「今頃かもしれないけど、付き合う条件は三メートル五十センチ以内に近づかないことなんだ」
「嘘? 嘘だよね。本当だけど嘘だよね……」
気が動転したまま藍子はうわ言のように呟いた。