不器用な堅物公爵さまは、私に脳をこんがり焼かれてしまったようです。私は好きなことをやっているだけなんですけど
◆ルーファウス:優美な曲線
部下が出してきた書類を見て、公爵のルーファウスは訝しんだ。
この部下が出す書類は、いつもどこか抜けている。それが今日は完璧だ。正確で緻密な論旨が、どこか詩的な文章で綴られている。
見上げてくる部下は、そわそわと落ち着きがない。何か隠し事をしているようだ。ルーファウスが目を細めると、部下は「失礼いたしました」と頭を下げた。
「やはり、公爵さまにはお見通しですね。こちら、私が整えた文章ではありません」
「では誰が」
「街の代筆屋でございます」
部下が言うには、街にたいそう腕利きの代筆屋があるらしい。内容や用途を告げるだけで、文章を整え、依頼主そっくりの筆跡で代筆をする。
ルーファウスはもう一度、部下が出してきた書類を見る。
(どこかで見たことがあるような――)
筆跡は、部下のものにそっくりだ。しかし、ほんの少しだけ、曲線が優美すぎる気がする。この詩的な文章にも、どこか覚えがある。
(この曲線)
指でなぞってみる。
(あいつにそっくりだ……)
心の奥にしまい込んでいた記憶がよみがえる。
◆ルゥ:過去
――十数年前
「ルゥさま。これは稚拙すぎるでしょう」
十歳のルーファウスが書いた詩は、リンにばっさりと切り捨てられた。
「そうかなー?」
自分ではよくできたと思っているのに、リンはいつも手厳しい。
午後の学習室には、開け放した窓から柔らかな光が差し込んでいた。中央の大きなテーブルでは、ルーファウスの兄二人が、家庭教師から書の美しさや文章作法、詩の技巧を教わっている。
自分は妾の子だから、その教えを受けることはない。その時間、ルーファウスは隅の小さな机で、家庭教師の娘のリンと過ごしていた。
リンは、自分よりひとつ上の十一歳。すぐに仲良くなった。彼女は書家の父の影響で、幼い頃から書や文章に親しんでいる。そして生意気にも、自分が書いた文章を添削してくるのだ。
「じゃあ、リンならどう書くのさ」
「私なら――」
そう言って、彼女は慣れた手つきで詩を書く。
「ここ、意味分かんないんだけど」
「古典の引用です。ルゥさま、勉強が足りませんね」
「くそー」
リンの書く詩は、たまに分からない。けれども、その字の美しい曲線も言葉選びも大好きだ。
「これ、もらっていい? 参考にしたいから」
「そんなものでよければ、どうぞ、ルゥさま」
リンがくれた書をしばらく眺める。そして紙越しに、ルーファウスは彼女をこっそりと見る。
彼女は真っ白な紙を目の前にして、目を閉じていた。ふんわりとカールした亜麻色の髪が、あるかなしかの風に揺れる。
やがて彼女は目を開け、ペンを執る。インクをペン先につけ、トンとインク壺のふちを叩き、余分なインクを落とす。
ペン先が紙の上を滑っていく。そうして形になっていく文字を、ルーファウスはただ見つめていた。
(きれいな曲線。俺にはできない言葉選び)
見ているだけで、うっとりする。
◆ルーファウス:街の代筆屋
部下が出してきた代筆屋の書類を見たルーファウスは、居ても立っても居られなかった。
豪奢な刺繍が施されている上着を脱ぎ、スカーフを外し、麻のシャツに着替える。整えられた髪をくしゃっと乱し、街に出る。
幸い領民は、街を歩くルーファウスの正体に気づいていない。
部下から聞いた代筆屋の店は、裏路地にひっそりとあった。表の看板には、「なんでも代筆します。秘密厳守」とある。
扉を開けると、インクの香りが鼻をついた。狭い店内には天井まで棚が設置され、様々な色の紙がきちんと置かれている。書き上げたばかりの書が、梁に渡された紐から、何枚か垂れ下がっている。
全体に薄暗いが、店主が座っているカウンターにはしっかりとランプが灯され、そこだけ明るい。
ルーファウスの訪れに、店主が顔を上げた。自分と同じくらいの年齢の、小柄な青年だ。
ふんわりと癖のある黒髪は短い。象牙色のシャツの上に、ゆったりした若草色のチュニック。線は細くどことなく中性的ではあるが、男性だ。
部下が持ってきた書から連想した人物は、女だった。
(違ったのか)
「どういったご用ですか?」
と彼は短く言う。
「代筆を頼みたい」
「どのような」
「これを、公文書らしく」
ルーファウスは、箇条書きにしたメモを渡す。いつもなら自分でやる仕事だ。それをこの代筆屋は、どのように仕上げるのだろう。
「かしこまりました。何点かお聞きしたいことが」
代筆屋の質問に、ルーファウスは答えていく。そのメモを取る代筆屋の手元を見る。正確には、その手が描き出す筆致を。
(曲線は、あいつそっくりなのに)
彼女が描く優美な曲線に胸を焦がし、何度も真似をした。
「承りました。では、三日後に」
代筆屋の声に、ハッと我に返る。
「お次の方」
いつの間にか後ろに並んでいた客に一礼し、ルーファウスはその場を後にした。
◆
三日後、代筆屋から受け取った文章を見て、ルーファウスは息をのんだ。
(完璧だ……)
公文書なら、いくらでも書いてきたから、自信があった。しかし、そんな自分よりも、腕は上かもしれない。文章は精緻な上に、言葉選びのセンスはどこか詩的で趣がある。
「お代を」
ルーファウスがあまりの出来に動けずにいるのを知ってか知らずか、彼は短く告げる。
「すまん」
代金を払ったルーファウスは、少し考える。
(この代筆屋、祐筆として雇うか?)
公文書を、必要な形に整え、美しい字で書く。それが祐筆の役割だ。この腕が、在野にあるのは惜しい。
「代筆屋。この腕なら、公爵の元や宮廷で、祐筆として働けるんじゃないのか? 紹介してやってもいいが」
「宮仕えに興味はありません」
にこりともせず、代筆屋は答える。
「そうか。では」
にべもない代筆屋の返答を食らい、ルーファウスは店を後にする。ふと足元を見ると、一枚の紙が落ちていた。
(代筆屋のものか)
風で飛ばされたのであろうか。何気なく拾ってみる。
(――雲)
「雲」の文字が、意匠を凝らして書かれている。流麗な曲線が特徴的だ。その文字からは、壮大な朝焼けに輝く雲と、これから始まる一日への期待と焦燥が感じられる。
(これは――)
やはり、あいつの字。
(いや、そんなはずは)
すぐに理性が否定をする。でも直感は変わらない。彼は、リンに近しい者――兄弟なのかもしれない。
(リンの消息を知っているかもしれない)
あの日以来、会っていない少女。自分のせいで、彼女の人生を狂わせてしまった。彼女は今、どうしているのだろう。
たまらず、もう一度代筆屋のドアを開ける。
「どうしました?」
彼が顔を上げる。
「何か不備でも?」
「いや、そういうわけじゃない」
リンの顔を思い出し、代筆屋の顔と引き比べる。ゆるやかな癖の黒髪、あごのライン、目元。
(似ている気がする――やはり兄弟か?)
聞いてみようかどうしようか。いや、そもそもリンに兄弟はいたか?
ぐずぐずしている間に、代筆屋の顔が、どんどん不審な者を見る表情に変わっていく。
「もう一つ、依頼をしたいんだ」
会話をつなげるために、無理やり話題を作る。
「また公文書ですか。どのような内容でしょう」
「公文書ではなく――恋文だ」
「恋文。どのような方へでしょう」
「昔会ったきり、もう十年以上会っていない人」
「内容は」
「その人に聞きたい。自分のことを覚えているだろうか。彼女は――幸せだろうか」
「なるほど。恋文らしからぬ内容ですね。どちらかというと、消息確認ですが」
「そうだな……」
思いつくまま言っただけだから、自分でも何を言いたいのかよく分からない。およそ理性的ではなく、行き当たりばったりの会話だ。
「それで頼む」
「では三日後に、ルゥさま」
◆リン:恋文の依頼
自分の店に入ってきた男がルーファウスであることに、リンはすぐに気づいた。
(どうして公爵さまがこんなところに)
庶民のような簡素な服を着ているから、変装でもしたつもりかもしれない。しかし変装というのは、もっと完璧にやるものだ。例えば――髪を染め、男装している私のように。
一回目に来た彼は、当たり障りのない公文書を依頼してきた。
その完成品を渡したら、次は恋文を依頼してきた。
(意外とロマンチストだな)
十年以上会っていない女に、ただ消息を尋ねるだけの恋文を、まあよく出そうと思ったものだ。好きとすら言えない、情けないくらいの勇気のなさ。おそらくはどこかの貴族令嬢に恋をして、それを引きずっているのだろう。
ルーファウスのことはよく覚えている。父が家庭教師をしていた公爵家の末弟だ。文字を書く腕も悪くないし、正確な文章は書けるのだが、詩が壊滅的に下手だった。彼が思いを表現すると、どの詩も陳腐で稚拙なものになった。
(なるほど。恋文を代筆屋に依頼したくなるのも、むべなるかな)
「それで頼む」
と、ルーファウスが言う。
リンは少し気もそぞろになっていた。だから、うかつにも口を滑らせた。
「では三日後に、ルゥさま」
この男はまだ名乗っていない。なのに名を。
(しまった)
せっかく公爵さまが変装しているのに、名前を呼んでしまったら台無しだ。それに、自分の正体がバレるかもしれない。
(まあいいか。ルゥさまになら、正体がバレても)
しかしルーファウスは、まったく気づいていないようで、そのまま店を出ていった。
(ま、昔から察しの悪い奴だったからな)
次の客はいない。
リンは恋文に合いそうな珊瑚色の紙を、カウンターの上に敷く。インクの色は、琥珀。
彼の言葉を、恋文に合う文章へと変える。リンは紙と対峙した。いったん目を閉じ、暗闇に言葉の断片を捕まえに行く。
顔を上げ、ペンを執り、インク壺のふちをトンと叩いて余分なインクを落とす。ペン先が紙を擦る音だけが、店内に響く。
三行ほど書いたところで、リンの手が止まった。
(調子が出ないな)
大きくバツ印をつけ、紙を裏返す。
しかし、あの公爵さまが恋を。領民の間では、堅物公爵として通っている。もう妻をとってもいい年ごろなのに、舞い込んでくる縁談をすべて断り、まだ独り身だ。
(それが、こんなにむず痒い恋を……)
自分の思いを告げることすらせず、ただ相手のことを確認するだけとは。
(よっぽど大切な人なんだろう)
裏返した紙に、何となくペンを走らせる。
――雲。
街の代筆屋として誰かの筆致を真似したものではなく、自分の字。
今書きたいのは、あの朝に見た、朝焼けに輝く雲だ。何回書いてみても、納得がいかない。
希望に満ちた朝焼け。目覚め、匂いたつ大地。まだ何者でもない自分。早く何かをしなければという焦り。
(また、だめだ)
リンはその紙を捨て、新しい紙を引っ張り出した。
◆ルーファウス:なんという迂闊
代筆屋を出たルーファウスは、三歩ほど歩いてから立ち止まった。
(――ルゥさま?)
そんなふうに自分を呼んでいたのは一人しかいない。
リン。
お前なのか。
男の格好をして、代筆屋を。
そこで、はたと気づく。
(俺は、本人に言ってしまったのか?)
恋文を頼む、と。
自分のことを覚えているだろうか。彼女は――幸せだろうか、と。
なんという迂闊……!
ルーファウスはその場でしゃがみこんだ。膝に額を置き、何度か深呼吸をする。
しばらくそうして、彼はゆらりと立ち上がった。
三日後に、自分の恋文が出来上がる。他ならぬ、彼女の手によって。
◆
――三日後。
公爵邸の午後の執務室には、柔らかな陽光が降り注いでいた。中庭に植えられた木々が風に揺れ、使い込まれた海老茶色の執務机に、複雑な影を落とす。
ルーファウスは、机の上に高々と積まれた書類を前に、彫像のように座っていた。
「――さま、公爵さま」
部下から二回呼ばれて、ルーファウスはやっと顔を上げた。
「こちらの書類、二回目ですが……」
戸惑ったように、部下が二枚の紙を出してくる。同じ公文書を、自分は二回も書いてしまった。
「すまん」
短く言って、二枚を見比べ、出来の悪いほうをゴミ箱へ捨てる。そうして、机の上に積まれている書類を一枚取り、目を通し始める。しかし、頭は別のことを考えてしまう。
(彼女は、あの恋文の相手が自分だと、気づいただろうか)
(いや、あの言い方なら、何も気づいていないかもしれない)
(そもそも、リンではない可能性も。髪の色が違ったし)
三日間ずっと、悶々としながら、何度も同じ考えを巡らせている。
ルーファウスは、今日何度目になるかわからないため息をついた。
夕方、ルーファウスは上着と絹のブラウスを脱ぎ、麻のシャツに着替える。
(自分で取りに行くしかない)
気恥ずかしいから部下に行かせることも考えたが、内容は恋文だ。とても取りに行かせられない。
重い足取りで、代筆屋へ向かう。扉を開けると、店主が顔を上げる。
「出来ていますよ」
「うむ」
「ご確認を」
代筆屋は、前回とまったく変わらない表情だ。愛想はなく、ただ事務的に紙を差し出してくる。
淡い珊瑚色の紙。ルーファウスはそれを、恐る恐る受け取る。
深呼吸をし、紙を開いてみる。
会えなかった十年以上の間、彼女が恙なく暮らしているかをひたすら案じる思いが綴られている。古い詩がところどころに引用され、心を打つ。美麗すぎず、素朴すぎず、今の自分にぴったりな内容だ。
(俺は十年以上、こう思っていたのか)
その答えを得たような、そんな詩。
「お代を」
淡々と、代筆屋が言う。
(聞いてみようか、お前はリンか、と)
もしそうだったら。
そうだとして、自分は何がしたい。
(いや、無事が知りたいだけだ)
あの日から、リンは突然いなくなった。思い出すたびに、後悔がよみがえる。何度か行方を探させたが、ようとして知れなかった。
「お前は――リンか?」
ルーファウスの問いに、代筆屋が瞬きをする。ゆっくり息を吸い、口を開いた。
「はい。ご無沙汰しておりました、ルゥさま」
そうして、にやりと笑う。
「ルゥさまも、隅に置けませんね。このような思い人がいらっしゃるとは。お返事が来たら、また代筆しますよ。ごひいきに」
(リンだった――)
(そして、まったく気づいていない!!)
◆ルゥ:川辺
十歳のルーファウスは、家を出て川辺へと向かった。以前、夕方に川辺を訪れたとき、偶然リンに会った。また会えるかもしれないという期待があった。
川辺には誰もいなかった。水面には、夕日がきらめいている。対岸の山はすでに暗く、どこかで鳥が鳴いている。
小石だらけの河原になんとなく座り、懐からリンの書を取り出す。その書をじっくり見て、優美な曲線を指でなぞる。そうして、足元の枝を拾い、地面に文字を書いてみる。
(うまくいかないな)
地面の文字とリンの筆致を見比べていると、後ろから声がかかった。
「ルゥさま」
リンの声だ。慌てて、リンの書を懐にしまい込んだ。
「偶然ですね」
と、彼女は隣に座った。
偶然などではない。会うために来たのだから。
しかしルーファウスは、うん、と頷いた。
「家は気詰まりなんだ」
兄二人は、自分のことを蔑んでいる。大好きだった母上は、もう死んでしまった。あの家に、妾の子である自分の居場所はない。
「そうですか。私もです」
「じゃあ、おそろいだね」
リン自身のことは、あまり聞いたことがなかったから、事情は分からない。
「家がつまんないなら、またここに来れば? 俺も来るし」
「そうですね」
ルーファウスは、石をひとつ拾った。それを川へぽんと投げる。小さな飛沫があがった。リンも同じように投げる。
「どうしたら、リンみたいに書がうまくなるかな」
「練習と、古典や神話の勉強です。あとはまあ、才能でしょうか」
はっきりと言い切るリンが、とてもまぶしい。
彼女は、公爵の息子である自分に媚びない。彼女の前だけでは、自分でいられる気がする。
「リンはきっと、すごい祐筆になれるよ。ナーレンみたいな」
ナーレンは、リンがよく口にする伝説の祐筆だ。宮廷の書記官を務めながら祐筆も兼ね、洒脱な古典の引用と、さりげない韻を織り込んだ公文書を数多く残した。
しかしリンは、うっとうしそうに眉を寄せ、
「女の身では、宮仕えができませんので」
と言い捨てた。
その言葉に、ルーファウスはハッとする。彼女が女であるために祐筆になれない現実を、何も分かっていなかった。リンを傷つけてしまった。
「ごめん……」
「いえ、いいんです。仕方のないことなので」
リンは、ひときわ大きな石を、川へ投げ込んだ。ドボンと大きな水しぶきが上がる。ルーファウスも真似をして、大きな石を投げる。しかし、選んだ石が大きすぎた。遠くに投げられず、すぐ近くで水しぶきが上がる。
「うわっ」
水がこちらに飛んでくる。それを見て、リンがくすりと笑った。ぶるぶると頭を振り、顔についたしぶきを袖でふき取った。
今度は、小さい石を投げ込む。リンも同じくらいの石を投げた。
「どこか、遠い所へ行きたいね……」
ルーファウスは、川の流れをじっと見つめる。
この川の流れる先。知っている人が誰もいない街。そこなら、公爵の息子として扱われない。兄上たちもいない。
「ええ」
彼女はぽつりと同意した。
どこか遠い所へ、リンと一緒に。
祐筆になりたいのなら、男のふりをして、仕官すればいい。知っている人が誰もいない街なら、それができるかもしれない。
(リンと一緒に、遠い所へ)
◆ルーファウス:伝説の祐筆
昼間の執務室で、ルーファウスは一通の公文書に取り組んでいた。
ペンにインクを付け、インク壺のふちをトンと叩く。
ほとんど迷いなく、公文書はできた。それを読み直す。よくできた、いつもの自分の文書だ。必要なことを、過不足なく伝える内容。
(物足りない)
リンだったら、これをどのように表現するだろう。そんなことばかりを考えてしまう。
ふと、有名な祐筆による文書を見たくなってきた。参考になるかもしれない。ルーファウスは書庫へ向かった。
書庫の一角には、有名な祐筆たちが手がけた文書の写しが、何枚も束ねられていた。あまり見ることはないから、ほこりが溜まっている。顔をしかめながら、ほこりを手で払った。
ぱらぱらと眺めてみる。どの文書も公文書としての格を保ちながら、洒落た言い回しや古典の引用を織り込んでいる。
(リンは、祐筆のなかでもナーレンを気に入っていた)
ルーファウスは紙の束から、ナーレンの文書の写しを見つけだした。
リンが気に入るのも分かる。技巧に走りすぎず、韻や言葉選びがさりげなく文章へ溶け込んでいる。
(リンがこれを見たら、どういう顔をするだろう)
◆
結局ルーファウスは、代筆屋に来てしまった。リンならどう書くのだろうと考えていたら、自分の文書が、急につまらなく見えてきたのだ。
しかも自分は、ナーレンの書の写しを持ってきてしまった。
(俺はなにをしているんだ)
扉を開ける。店主が顔を上げる。
「ああ、ルゥさま。あの恋文、返事来ました?」
来るわけがない。出していないのだから。
(あの恋文の相手が自分だとは気づいていないようだ)
それは、残念なような、ホッとしたような、複雑な気分だ。
「今日は、公文書だ」
どうにも納得がいかなかった文書を出す。
「なるほど。何点かお聞きしますね」
そう言って、リンはペンを執り、インク壺のふちをトンと叩く。そうして、メモを取り始めた。
ルーファウスはその手元を見る。誰の真似でもない、彼女自身の筆致。
インク壺のふちをトンと叩く癖を真似してみても、憧れた流麗な曲線は描けなかった。
質問が終わり、では三日後にと告げられる。
「リン、これを。たまたま見つけたから、この前の仕事の礼として」
と、ナーレンの写しを渡す。
「これは……!!」
彼女の瞳が驚きに見開かれる。そしてそのままキラキラと輝きだした。口元はふにゃふにゃ緩んでいる。
「ナ、ナーレン師匠の文書じゃないですか。うわー! 何この文末。韻の踏み方がおしゃれすぎるでしょ。たまんない。くぅー! ここで引用!? 技巧がすごいのに、押し付けがましくないのがまた」
見たことのない満面の笑みでまくし立てる彼女から、まったく目が離せない。
「もらっていいんですか?」
「う、うむ」
「ありがとうございます!」
普段は無愛想なのに、この笑顔はなんだ。
「では、頼んだぞ」
あまりに彼女がまぶしくて、ルーファウスは逃げるように店を出た。そして、三歩ほど歩く。ついに腰が抜け、その場でうずくまった。
まだ心臓がどくどくしている。すっかり火照った耳から熱が引くまで、彼はその場を動けなかった。
◆ルゥ:きれいだね
十歳のルーファウスが川辺へ通うようになって半年が過ぎた。その日は、ルーファウスの母の三年目の追悼儀式だった。彼女は三年前、賊に襲われて命を落としたのだ。
儀式も終わり廊下を歩いていると、兄二人が話しているのが聞こえた。
「相変わらず父上は、演技がうまいな」
「父上は分かってたんだろ? あの妾が死ぬの」
あの妾。母上のことだ。
「どういう意味ですか?」
ルーファウスは思わず兄に話しかけた。
「なんだ、ルゥか」
兄は鼻白んだ。
「父上は知ってたんだよ。あの妾が賊に狙われていることを。それをあえて放置した。政敵を取り潰すための大義名分が欲しかったんだろ」
「そんな――」
そんな。そんな。
母上は道具じゃない。
(母上、母上)
温かい手も、自分を見つめるやさしい瞳も、穏やかな声も、そんなもののために失われていいものじゃない。
この家はおかしい。公爵家だからって、なんでも許されると思っている。
(リン――)
無性にリンに会いたかった。この家の人間じゃない人、公爵家の自分に唯一媚びない人。
(もう、この家はいやだ)
ルーファウスはすぐに自室へ行き、カバンに荷物を詰め込んだ。着替え、お金、明かり、筆記用具、リンの書。それに厨房からパンとソーセージをいくつか拝借し、ルーファウスは公爵家を後にする。向かうのは、川辺だ。
◆
ルーファウスにとって、これは賭けだった。
(リンが来たら、一緒にこの街を出る)
大きな荷物を横に置き、ルーファウスは膝を抱えて座った。流れていく川をじっと見つめる。
(この川の流れる先)
誰も知っている人がいない、隣の領地。
まだ夕方にはならない。太陽は、じれったいほどゆっくりと落ちていく。
影が伸びてきた。そろそろ来るかもしれない。今日は来ないかもしれない。
足音がした。振り返る。
「リン」
果たして彼女は来た。夕日を背負って。
思わず駆け寄り、手を取る。
「ルゥさま、どうされました?」
自分はいつもと違う目つきだったのだろう。彼女が戸惑っている。
「リン。一緒にこの街を出よう。川を下って、誰も知っている人がいない街へ」
「ルゥさま……」
自分でも、どこか絵空事だと分かっている。でも、もうあの家は嫌だ。行動を起こさないと気が済まない。
彼女は現実的だ。ばかばかしいと一蹴するかもしれない。それはそれでいい。俺の目を覚ましてくれ。
「いいですよ。算段は?」
「え?」
いいって?
自分と一緒に、知らない街へ。
リンが一緒に行ってくれる。
こんなに心強いことはない。
「さ、算段はついてる。川下の街には、大きな宿屋がある。そこで、丁稚奉公するんだ。16歳になったら、リンは祐筆として、その街の公爵さまにお仕えすればいい。俺は――そのまま宿屋で働くか、他の仕事を探すから。あ、リンは俺の服を着て、男の格好をしよう。名前も男の名前にしてしまえば、祐筆として雇ってもらえる」
早口で言い切って、リンの顔を見てみる。リンはあまり表情豊かではない。だから今も、何を考えているのかよく分からない。
(この算段で大丈夫だろうか)
川辺に来るまでの間に考えた作戦だ。自分では悪くないと思っている。
「なるほど。では着替えますから、服を貸してください」
ルーファウスは驚いた。まさか彼女が承諾してくれるとは。
慌てて荷物から服を出す。リンに渡し、後ろを向く。衣擦れの音が聞こえる。しばらくすると、いいですよと声がかかったので、ルーファウスは振り返った。
「どうですか?」
リンが、自分の服を着ている。とてもくすぐったい気分だ。
「似合ってる」
「ありがとうございます。ハサミはお持ちですか?」
「ハ、ハサミ?」
「髪を切らないと。これでは男と言い張るには長すぎるので」
そう言って、彼女は背中まで伸びた亜麻色の髪を指す。
「ハサミは……忘れた」
迂闊だった。そもそも、彼女が乗ってくれること自体、頭のどこかではありえないと思っていた。
「そうですか。まあ、なんとかなるでしょう」
川を下るんですよね、と彼女は下流へと歩き始める。ルーファウスは慌ててその後を追った。自分の服を着た彼女の後姿を見ながら、ルーファウスは考える。
(どうしてリンは、承諾してくれたんだろう)
自分でも、絵空事であることは分かっている。自分より大人っぽい考え方をする彼女ならなおさらだろう。
◆
荷物を交代で持ちながら、二人は川辺を歩く。
やがて日が落ち、暗くなってきた。さっきまで夕日に輝いていた川は真っ黒で、どうどうと流れている。周りの木々のざわめきは、なんとも不気味だ。足元だけを、ランプが弱々しく照らしている。
「今日はこのあたりで夜を明かしましょうか」
というリンの声に、ルーファウスはホッとした。もう足も腕も限界だった。何より怖かった。
ちょうど大きな木を見つけたので、その下に座り込んだ。ランプを足元に置く。二人がいる空間だけが、ぼんやりと照らされる。世界で二人だけになったみたいだ。
「結構歩いたね。疲れたよ」
「このくらいで疲れていたら、丁稚奉公などできませんよ。大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
「どうだか。公爵家のお坊ちゃまは、か弱くていらっしゃる」
それに少しむっとしながら、ルーファウスはカバンからパンとソーセージを出し、リンに渡す。
「ありがとうございます。意外と準備がいいんですね」
「意外と、は余計だ」
二人はパンを手で割り、ソーセージを挟んで食べた。こんなに歩いたのは初めてだ。空腹だったこともあり、ルーファウスはあっという間に食べ終わってしまった。リンを見ると、彼女はまだ食べ途中だった。
リンが食べ終わるのを待ち、気になっていたことを聞いてみる。
「どうしてリンは、ついてきてくれたの?」
反対されると思っていた。なのに、味方になってくれた。
リンは軽くため息をついた。
「無謀なことをしようとしているルゥさまを、放っておけないでしょう。それに――私もちょうどそんな気分だったので。やけってやつです」
「そっか……」
リンの言う「やけ」というのがどういうものなのかは聞けなかった。代わりに、リンの手に自分の手を重ねてみる。少しだけ彼女の手がピクリとしたが、抵抗されることはなかった。その手をぎゅっと握る。
「リン……。ありがとう」
味方になってくれて。
◆
木にもたれてリンと眠っていたルーファウスは、ふと目を覚ました。夜が白んできている。ハッとして隣を見るが、一緒に眠っていたはずのリンがいない。
「リン!」
いなくなってしまった。全部夢だったんだ。急に不安になり、泣きたくなってくる。
慌てて立ち上がり、目の前の川に近づく。薄暗い水面には葉っぱが一枚浮かび、なすすべもなく川下へと運ばれている。
リンもこうして流された?
ありえない――しかし恐ろしい想像に、胸をぎゅっと掴まれる。恐る恐る川下を見てみるが、何もない。
「リン!」
名前を呼びながら、周りを見渡す。土手に人影があった。慌てて駆け寄る。
彼女は、返事もせずに立ち尽くしていた。空を見ているのか。亜麻色の髪が、緩やかな風になびいている。
(良かった……)
ルーファウスは、リンの隣に立って、彼女と同じものを見る。リンの存在を確かめたくて、彼女の手を軽く握った。勇気を出してぎゅっと握ると、同じ力で握り返してくれた。
藍色の空は、地平線近くに行くにつれて茜色に染まっていく。山々の稜線の下にある太陽が、たなびく雲の輪郭を山吹色に輝かせる。鳥が二羽、地平に向かって飛んでいく。やがて来る、力強い日の出を祝福するように。
稜線から太陽が少しずつ昇ってくる。地上を照らし、自分たちを照らし。
「きれいだね……」
自分の口から出たつまらない感想に、また辛辣な評価が返ってくると思ったが、彼女は何も言わなかった。彼女はこちらを一瞥した後、空をずっと見ていた。
◆リン:素直で不器用な少年
薄暗い代筆屋の店内で、リンはまた、書き損じの裏に「雲」の文字を書いていた。しかし納得がいかない。あの日太陽に照らされていた雲は、もっと雄大で、これから起こる何かを予感させるものだった。
自分が書いた文字を眺めながら、あの日のルーファウスの感想を思い出す。
――きれいだね。
なんと月並みでつまらない感想。この文字と同じくらいだ。
(ルゥさまと同レベルなんて)
自嘲しながら、紙を捨てようとしたが、思いとどまった。
もう一度、あの朝焼けを思い出そうとするが、隣で手をつないでいた少年の姿が先に思い浮かぶ。小麦色の髪も、エメラルドの瞳も、少し赤みがかった鼻梁も、黄金に輝いていた。
雄大な景色を前に、彼はただ、呆けている。心ではいろいろな思いが渦巻いているのであろう。
しかし、その言葉の海からすくい取った一葉が「きれいだね」。
凡庸な言葉だ。
でも素直で嫌味がない。
あの少年がどんな大人になるのか、ずっと見ていたいと思った。あの時つないだ手の感触を思い出す。
ペンを執り、インクをつける。インク壺のふちをトンと叩いて、「雲」の文字の横に、「少年」の文字を書いてみる。素直で真っ白で、豊かな感情を言葉にできない、不器用な少年。
(いいじゃないか)
「雲」はともかく、「少年」は出来がいい。あのみずみずしい少年を、そのまま閉じ込めたような文字。思わずにやりと笑った。
(ルゥさまは、どんな大人になるのだろう)
久々に見たルーファウスは、体こそ大きくなっていたし、公爵という責任のある立場になっていた。しかし話してみれば、まだその内面は少年だ。今後どんな大人になるのか、見てみたい。
あの日のことを、リンはまた思い出す。
リンは父が大嫌いだった。俗っぽく金に執着し、保身しか考えていない父。
父には、公爵家以外にも、いくつか家庭教師先がある。そこの息子との縁談を持ってきたのだ。まだ11歳の娘に。
「もちろん、嫁に行くのは16歳になってからだ。この縁談は、父にとってもとても大事なものなんだ」
相手は、貴族だ。確かに父にとってはありがたい話だろう。しかし、娘の気持ちを考えたことがあるのか?
父と大喧嘩し、家を飛び出した。なんとなく足は、川辺へと向かっていた。そこには、大きな荷物を持った、公爵家の三男坊がいた。聞けば、家出を目論んでいた。
(乗ってやろう)
家出の計画は杜撰。おそらくうまくいかない。そもそも十歳では、親の庇護下からは逃れられない。でも、絵空事を本気で言うおぼっちゃまがあまりに眩しくて、その計画に乗りたくなった。
だって、万が一にもうまくいくかもしれない。男として生まれ変わって、祐筆として書を極める。ナーレン師匠みたいに。そんな夢が、叶うかもしれない。
少なくとも、父の元にいては叶わない。どこぞの貴族に嫁がされるだけだから。
だからリンは歩みださずにはいられなかった。それが、破滅への第一歩になると予感していても。
(ある意味、今は夢を叶えたのかもしれない)
すっかり短くなった髪をいじり、リンは考える。
男のふりをして、字で身を立てる。たった一人でこの街に来て、髪を切って代筆屋を始めてみたら、意外にも生活が成り立った。恋文、反省文、公文書、感謝の手紙に退職願。なんでもござれの代筆屋。
本当は、ナーレン師匠のように祐筆として身を立てたい。
(でもそれは、無理な話。私は街の代筆屋でいい)
◆ルーファウス:あの日の顛末
ルーファウスは執務机で思案していた。
目の前にある書類は、領内で起こった問題の裁定だ。川でとれる魚のことで揉めている。上流の村が網で魚の通り道をふさいだため、下流で魚がとれなくなってしまった。そんな内容だ。
もう裁定内容は決まっているから、部下に文書を書かせてみた。そうして返ってきたのがこれだ。必要なことが書かれていないし、どちらともとれる曖昧な部分もある。
問題の箇所を指摘し、部下を叱責した。そうして書類を引き取って、自分なりに直した。
(これでいいはずだ)
必要な条件を、わかりやすく明示した。曖昧な記述は、解釈が一つに定まるように修正。しかし、納得がいく出来ではない。
代筆屋なら、どう書く?
さきほどから、そればかりが頭に浮かぶ。そうして、代筆屋のことを考えると同時に、あのふにゃふにゃの笑顔も思い出してしまう。
(あれは、だめだろう……)
普段はほとんど表情を変えないのに、あんな顔になることがあるのか? 思い出すだけで、胸がそわそわする。
(また見たい)
しかし、ナーレンの文書の写しは、かなり貴重なものだ。もう屋敷の書庫にはない。
(いかん、仕事が)
今は、川の魚のことを考えないと。
仕事が進まない原因のひとつがこれだ。リンの表情ばかりを思い出し、集中できない。
(もう三日経つか)
以前依頼した公文書ができる頃だ。どうしても納得できなかった公文書を、彼女はどのように整えるのだろう。
(そうだ。この川の問題も頼んでみるか)
ルーファウスは、書類をつかみ、代筆屋のもとへ向かった。
いつものように扉を開けると、愛想のない店主が顔を上げる。
「できていますよ」
と、リンが紙を渡してくる。
ざっと確認し、さすがだと感嘆した。自分からは逆立ちしても出てこない語彙と表現。このほうが分かりやすいし、美しい。
「これも依頼したい」
川の問題に関する裁定内容をメモした紙を渡す。
「分かりました。では三日後に」
相変わらず、彼女の表情は変わらない。
どうしてリンは、この街に戻ってきたのだろう。あの日から、いなくなってしまったのに。罪悪感で、ピリリと胸が痛む。
聞いてみたいが、それは聞けない。悪いのは、全部自分なのだから。
◆
自室で酒を飲みながら、ルーファウスはあの日の顛末を思い出す。何度思い出しても苦い。
朝日を見た後、すっかり固くなったパンを、二人で食べた。そうして手をつないで、下流へと歩き始めた。
そこで、彼女が縁談を押し付けられそうだと知り、ひどく動揺したものだ。お父上の強引さに、鼻息荒く憤慨した。
ひたすら歩き、夕方になる頃に街が見えてきた。この街の宿屋は、小さい頃に一度訪れたことがある。大きな宿だったから、すぐに見つかった。
二人で主人のもとへ行き、丁稚奉公にと頼み込んだ。追い出されるかとも思ったが、宿の主人は、案外簡単に承諾してくれた。
明日から働いてもらうねと言われ、使用人の部屋ではなく、客室へ通された。夕食まで食べさせてもらえた。
部屋はあちこちにランプが置かれ、明るかった。隙間風一つ入ってこない。昨日の川辺に比べて、すごく安心できる。明日からは、公爵家の息子ではなく、この宿で下働きとして暮らす。ちゃんと覚悟はできているから大丈夫だ。
テーブルの向かいに座っているリンは、少し考え事をしているようだった。明日からの新しい生活を、不安に思っているのかもしれない。
「ここのご主人、いい人そうで良かったね」
「ええ」
「リン。明日から、頑張ろうね」
ルーファウスは、大きなあくびを一つした。
「今日はもう寝よう」
ひどく疲れていたから、眠くてたまらない。二人で一つの布団に入り、手をつないだ。
「リン、ありがとう」
これからは、ずっと一緒にいられる。誰も自分たちを知らない街で、リンと一緒。手をぎゅっと握ると、同じ力で握り返してくれた。
ずいぶんと深く眠っていたらしい。目覚めは突然だった。
「私のせいでこのような仕儀となり、誠に申し訳ございません」
リンが平伏し、謝っている。
――誰に?
まだ眠気で靄のかかる頭を振る。
「父上……!」
怒気をあらわにした父が、リンを叱責している。その後ろには、宿屋の主人と、屋敷の衛兵たちがいる。
(連れ戻しに来たんだ……!)
リンと逃げなきゃと思うが、逃げられる場所なんてない。
衛兵二人が、リンの腕を掴み、引き起こす。リンはほとんど抵抗していない。
「リン!」
駆けつけようとしたルーファウスの体を、別の衛兵が留める。
「くそ! 離せ!」
身をよじるが、衛兵はビクともしない。
リンが連れていかれる。彼女がこちらを振り返った。少しだけ、微笑んでいる。その瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。
「リン!」
ゆるやかにカールする亜麻色の髪は、衛兵の鎧に呑まれ、すぐに見えなくなった。それが、ルーファウスがリンを見た最後だった。
(結局――)
ルーファウスは酒を傾ける。
後に父から聞いたところ、宿屋の主人は、ルーファウスを一目で見破っていた。隣の領の公爵家の息子だと。主人は二人を安心させるように客間へ通し、ルーファウスを公爵家のご子息として丁重に扱いながら、すぐに早馬を立てていた。
家庭教師の娘が、公爵家の三男坊を誘惑し、かどわかした。
そういうことにされた。
リンとリンの父は領地を追い出されたと聞いた。もちろん、貴族との縁談も立ち消えた。もう会えないなんて信じられず、何度も川辺へと向かった。しかし彼女は一度も来なかった。
(全部、俺のせいなのに)
罪をかぶったのはリンだった。
ルーファウスは、大人たちからリンに騙された少年として扱われた。
「気の毒に」
「ひどい目に遭わされたね」
「あのふしだらな娘が悪かったのよ」
周囲の人たちの慰めが、辛かった。
なんとなく持ち帰った、彼女の「雲」の文字を見つめる。
あの日、手をつないで見た朝日。もしかしたら彼女は、あの朝焼けをこの文字に込めたのかもしれない。
ずっと一緒にいたかった。祐筆としての腕を振るうリンを、見ていたかった。
あの日の思いは変わらない。
ルーファウスはペンを執り、インク壺のふちをトンと叩いた。
◆リン:気に病んでなければいいが
リンは、ルーファウスから依頼されている書類に取り組もうとしていた。言葉のかけらを探しに行こうと目を閉じるが、集中できない。
あの日、いずれ連れ戻されるだろうとは分かっていた。
(あの宿屋の主人の鋭い目つき)
丁稚奉公にと頼み込むルーファウスを、主人は値踏みするように見ていた。多分、あの時点でバレていた。さらに主人は二人を客室に通し、夕食まで用意してくれた。これは、かなり危ないなと思った。
このおぼっちゃまに自分の憶測を告げれば、逃げようと言い出すだろう。でも、逃げてどうなる。
宿屋で働けないとすると、他に住み込みでの働き口は思いつかない。この街にも、おそらく噂が回る。どこへ行っても逃げ場はない。
(だったら)
どうせ終わりは見えているんだ。今日だけは二人で夢を見たっていいじゃないか。
甘ったれのぼっちゃまは、すぐに眠たいと言い始めた。一つの布団に身を寄せ合った。彼の横は温かかった。手を握ってくれたので、握り返した。つながったのは、手だけじゃない気がした。
それからはもう、想像通りの展開だ。たたき起こされ、衛兵に連れていかれた。
――ルゥさまは、なんの咎も背負わされませんように。
振り返って彼を見たら、衛兵に取り押さえられながらも、必死にもがいていた。
せめて笑顔でお別れしよう。そう思ったのに、涙が一粒落ちた。
(どんな大人になるのか、見ていたかったな)
周囲の大人から、さんざん叱責された。父とともに領地を追い出され、各地を転々とした。お金と保身が大好きな父は、自分の家庭教師としての地盤も、貴族との縁談も台無しにした娘を疎んだ。疎まれたから、父のもとを去り、どうせならとあの少年の治める領地に戻ってきた。
(別に、大したことじゃない)
二人で過ごした一日は、とても楽しかった。男の格好をし、パンとソーセージを食べて、一緒に眠り、朝日を見た。口を開けば疲れただの、足が痛いだの言う甘ちゃんを叱咤し、ひたすら歩き続けた。万が一の希望に向かって。
(もう一回やったっていいくらいだ)
結局今は、案外いい暮らしをしている。
あの甘ったれぼっちゃまが、気に病んでいなければいいが。
◆ルーファウス:胸ポケットの手紙
どう書けば、自分の気持ちが伝わるだろう。ルーファウスは真っ白のままの紙に問うが、答えは返ってこない。
あの日の後悔、懺悔、責任。
本当は、ずっと一緒にいたかった。あの街で、新しく生まれ変わって。
祐筆として思う存分ペンを振るうリンを、そばで見ていたかった。
リンが好みそうな古典、神話、韻と比喩。
何も浮かんでこない。出てくるのは、すまないとか、ありがとうとか、そんな凡庸な言葉だけだ。
ルーファウスはため息をつき、せめてものヒントを求めに、書庫へと向かった。
書庫には、多くの古典や神話が収められている。ルーファウスはその中から一冊を取り出し、ぱらぱらとめくった。
(これだ――)
神話に登場する、人間に文字を与えた女神。
(これを引用しよう)
これなら洒脱に、気持ちを伝えられるはずだ。
◆
三日後、ルーファウスは決意を新たに、代筆屋へ向かう。胸のポケットには、三日間悩みに悩んで書いた手紙が入っている。
扉を開ける。いつもならすぐに顔を上げる店主が、今日はカウンターに置かれた紙を見下ろしたままだ。よく見ると、にやにやと笑っている。
(あんな表情)
初めて見た。いや、ナーレンの写しを見せた時と同じか。
「リン」
声をかけると、彼女は一瞬で表情を引き締め、顔を上げた。
何を見ていたのか気になってカウンターを見てみると、自分が渡したナーレンの写しだった。
(気に入ってくれていたのか)
我ながら、いいプレゼントをしたものだ。
「できていますよ」
いつものどおりの、ぶっきらぼうな声。
あの、川の魚をめぐる裁定の文書だ。目を通し、やはりその才能に感嘆する。自分が書いたものも、公文書としては十分だったはずだ。簡潔で、誰が読んでも誤解がない。
彼女はそのさらに上を行く。感情は一切乗っていないのに、どこか詩的な言葉選び。公文書という枠組みを守りながら、美しい一枚に仕上がっている。
「今回もいい出来だ。恩に着る」
「お代を」
短く言う彼女に、代金を渡す。そうしてルーファウスは、胸ポケットに手を入れた。
「リン。渡したいものがある」
◆リン:わかりやすい詩を
リンは、ルーファウスが胸ポケットから出したものを受け取った。珊瑚色の手紙だ。
(これは――)
少し前に依頼された恋文だ。たしか、十年以上会っていない女に、幸せだろうかと問う手紙だ。とっくに意中の人に出したと思っていた。
(お相手から突っ返された?)
この恋文を読んで、心を動かされないとは。気の毒に。よほどこの男は、意中の人から嫌われているらしい。
「これでだめなら、もう脈なしでしょう」
リンは公爵を見上げた。
「違う。これは、お前に出したかった」
「はあ?」
私に?
――十年以上会っていない人。
思わず立ち上がった。
(こいつ……!)
私あての手紙を、私に書かせたのか?
(頭がおかしい。おかしすぎる)
「ルゥさま。ちょっと意味が――」
「続きだ」
もう一通、手紙を渡される。
そこには、相変わらず陳腐な詩と、拙い言葉が並んでいた。それらを何とか読み解く。
半分ほど読んで、リンは顔を上げた。
「ルゥさま、あの日のことは、気にしないでください」
やはりこの男は気に病んでいた。ぐじぐじと意気地ない言葉で、謝罪と後悔が綴られている。
リンの言葉に、ルーファウスの表情が揺れる。十歳のあの頃のような、無防備な表情。
「確かに誘ったのはルゥさま。でも、私は自分の意志で乗ったのですから。あなたが責任を感じることはありません」
それに、とリンは笑って付け加えた。
「あの日はとても楽しかったですよ。か弱すぎるおぼっちゃまを歩かせるのは大変でしたが」
そう言いながら、甘ったれたことを言う少年を思い出す。早く休もう、疲れた、足が痛い、荷物持って、お腹すいた、歩きたくない、もう動けない――あらゆる弱音を聞いた。
「どのみち、父の元にいれば、どこぞの貴族さまに娶わせられるだけでしたから。きっかけを下さってありがとうございます。それに――」
リンは、すっかり短くなった髪に触れる。
「男のふりをして、字で身を立てるという発想は、私にはありませんでした。ルゥさま、ありがとうございます」
「そうか……」
ルーファウスは口元に手をやり、少し顎を上げる。まだ少し情けない顔をしているが、さっきよりはましだ。
リンは、手紙の続きを読み始めた。
あの日の謝罪の次は、これまた分かりにくい詩が連ねられていた。首をかしげながら、なんとか解読していく。
「私に――お屋敷に住めと?」
祐筆として公的には雇えないから、私的に。街の代筆屋ではなく、屋敷でこっそり働く祐筆。
面白い提案だ。
(それもいいかもしれない)
祐筆としての屋号は何にしようか。そんなことを考えながら、リンは口を開いた。
「いいでしょう」
「本当か?」
堅物公爵さまが、妙に興奮している。信じられないものを見るかのように、エメラルドの目を見開いている。
「承諾に感謝する!」
カウンター越しに抱きしめられる。
「ルゥさま。落ち着いてください」
そんなに祐筆が欲しかったのか? さすがに興奮しすぎだ。
「リンが妻になってくれるなんて。こんなに嬉しいことはない」
はあ?
「妻?」
「この手紙に書いたとおりだ。屋敷に住んでくれるんだろう?」
「え? 妻? ――祐筆は?」
「もちろん、祐筆も」
リンはルーファウスを突き飛ばした。
「つ、妻になってほしいなどとは、どこにも……」
もう一度、手紙を読み返す。
屋敷に住んでほしいこと、私的な祐筆として腕を振るってほしいことは伝わる。その解釈は間違っていないはずだ。
(妻……?)
読みにくい詩を、もう一度読んでみる。
雪霏々たる夜
赤狐は人の灯火を訪う
主はその身に温を分かち
膳を設けて異客を饗す
動物が村人の家を訪ね、一夜の宿を求める。古典でよくある異類婚姻譚の型に見える。
神話では、赤狐は暁の女神の化身とされている。彼女は人間に文字を与えた女神だから、それを祐筆に喩えるのは分かる。
しかし暁の女神は同時に、あまたの求婚を退け、誰とも添わない孤高の女神でもある。婚姻譚の喩えには使わない、普通は。
古典と神話と比喩を一気に鍋につっこんで煮込んだ結果、最悪な料理が出来上がっている。
(いくらなんでも、下手すぎる)
リンは頭を抱えた。
突き飛ばされた彼は、ずぶ濡れのネズミのようなしょぼくれた表情をしている。
(まったく。なんて顔をするんだ)
――ルーファウスの妻か。
考えたこともなかったが、まあ悪くないかもしれない。
山ほど弱音を吐きながらも、頑張って歩き続けたぼっちゃま。心の中にあふれる豊かな感情を表現するすべを持たない、不器用で素直な少年。
(ルゥさまは、私の才を買ってくれている)
この人なら信じられる。自分のやりたいことを、ずっと見守ってくれるだろう。
(それに――)
あの家出の続きができる。あの日つないだ手の感触は、ずっと残っている。
リンは手紙をカウンターに置き、ルーファウスを見つめる。
「かしこまりました、ルゥさま。この手紙の件、お受けいたします」
ほぼ死んでいたずぶ濡れネズミが、息を吹き返した。
「ほ、本当か?」
「ええ」
「妻も?」
「妻も」
ルーファウスの瞳が、潤みだす。
(まったく……)
なにが堅物公爵さまだ。十歳の頃と何も変わっていない。いや、あの頃は拙いながらもまっすぐな言葉で伝えてくれた。今は、妙に技巧を凝らすせいで、かえって不器用さに拍車がかかっている。ついには、こんな失敗作までこさえる始末だ。
「感謝する!」
ルーファウスがまた、カウンター越しに抱きしめてくる。ポンポンと背中を叩いてやり、いったん身を離す。そして、公爵さまの書いたひどい手紙の上に手をのせ、彼を見上げる。
「ただ――ルゥさま。こちらは、もう少し分かりやすい詩にするべきです」
「え?」
リンはにやりと笑った。
「――代筆しましょうか?」
◆完◆
(※代筆にはヒアリングが必要なので、この後地獄が待っています)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
感想、いいね、ブクマ、リアクションなどとても励みになりますので、よろしくお願いいたします!
長編化も考えています。




