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風に揺られて

作者: 翠田宙
掲載日:2026/09/15

キーンコーンカーンコーン…。退屈が波となり押し寄せて、欠伸を誘発する。締め切った部屋の空気はズンと重い。生暖かい空気は、僕の周りにまとわりついてきて、絶え間なく不快感を覚えさせる。ねっとりと纏わりつく奇妙さに鳥肌がたった。今朝から雨が降っていて、床は僅かに湿気で膨らむ。湿度が高く、蒸し暑さに汗をかいている人もいた。先生は少し慌てるようにして入ってきた。委員長に号令をするように声を掛ける。待っていたかのように

 「起立!」

 と声を響かせた。いつもより澄んだ声をしている。頭の奥の方から叩き起こされる。

「気をつけ。礼」

「今日はアフリカの地誌からやっていきます。教科書の152ページ開いてください。」

 慣れた手つきで授業の冒頭を済ませた。あの瞬間、僕は教室には居ない。先生も認識すらしていないはずだ。背景として適当な人間がいる事を確認しているだけ。そこに座っているのが僕で無くても気が付かないだろう。委員長と儀式を済ませたのみ。他の全員を置き去りにしたのに、講義へと無理やり引き摺り込んだ。熟練の手つきである。僕が望んだ訳ではないのにどうしてか自然に受け入れる。そのまま流れに乗せて話始めた。その声は風となり僕の風見鶏を静かに大きく動かしている。あまりの熱量を持っていたせいか、微風というよりは寧ろ熱風が僕目掛けて襲いかかる。これを感じたのは僕だけではないようで、あまりの蒸し暑さに、窓際の生徒が一人大胆に窓を開け放った。突然の熱波に苦しそうにしていた空気は気持ちよさそうに外へ出て行って、錆び始めた鉄枠には雨水が滴っている。校舎の窓を覗くと、遠くから山脈が顔を出していた。山の上には風車がぽつりぽつりと立っており、気持ちよさそうに山風を受けている。

 なんとか机の上に目線を戻すと、そこに鎮座する教科書は広大なサバンナへの片道切符を渡してくる。少し痩せて赤みを帯びた土壌はひび割れていて、カラッとした空気が鼻に抜ける。細く背の高い草がひっそりと肩を寄せ合い、目印となるように木々が散っていた。キリンが優雅に首を揺らしている。大きくぷっくりとした長い舌を草木に差し出して、見返りとしてその生命を取り込んでいる。長い舌に巻かれた草はそのままもしゃもしゃと音を立てながら暗闇に呑まれていった。泥のような水を浴びる象の親子も確認できる。皺の入った大きな体は、耳を大きくパタパタと動かしながらのんびりと給水をしていた。

 視線を少し右にずらすと、テキストの隙間に雄大なキリマンジャロが顔を見せる。頂上に少し雪が降り積もったその山は、荘厳な歴史を感じさせる佇まいであった。ごつごつとした山の手前には、低いようで高いようで、掴みどころのない木々がキリマンジャロを守るようにして立っていた。

「…アフリカの東部、キリマンジャロの辺りにはアフリカ大地溝帯があって、その影響で古期造山帯にも関わらずかなりの標高となっています。キリマンジャロコーヒーというのもありますね。ここまでは前回確認しました。」

 前から聞こえてきた声にハッと現実に連れ戻される。無責任にアフリカまで連れて行ったのに、帰りのタイミングも決められるのか。呆れた様子でゆっくりと顔を前に向ける。そこでは飼い主が帰ってきた子犬のように、艶を帯びた長い髪が僕のことを待ち構えていた。

 凛としたその髪には光がほんのりと差し、僅かに茶色味をしている。光の照らす加減でその色の濃淡は所々に変化が見られる。毛先の一本一本が生きており、腰の辺りまで伸びた髪は少し椅子にかかっていた。椅子の輪郭を覆い、滝のように落ちるその髪は椅子を滝壺としてすっぽりとおさまる。今僕が椅子だったらどれほどよかっただろう。毛先を丁寧に整えて、枝毛を切ってやる。背後から僅かに覗かせる腕は純白で、指先までが一つの美術品と化している。ペンを持って動かすその指遣いに、目が離せない。ここが美術館なら、多くの人間が感想を言い合っているだろう。今なら、その中でも一際本質を突いたものが言えそうな気がした。

 少し時間が経つと、開いた窓から様子を伺うようにして風が入ってきて、滝が風に揺られる。ほんのりと甘い匂いが鼻をくすぐった。あの子の髪は、ふわふわするような良い匂いがする。頭の中で脳みそが湯に浸かるような匂い。どうにも僕の好みらしい。香水の様な匂いと、本人の匂いがほのかに混じっている。揺られた滝は廊下の方面へと走って行き、慌てるようにして元の位置に駆け戻る。なんとも可愛らしいものだ。

「はいじゃあ授業プリント配りますねー。」

 紙が一枚一枚宙を舞いながら、僕の方まで手早く伝達される。あの子はチラッと僕の方を向いて

「はいこれどうぞ!なんか難しそうだね。」

 といって、晴天の笑みを浮かべて僕のことを見つめてくる。綺麗な二重の下には宝石を携え、すっと筋の通った鼻がある。肉厚で赤みがかった唇は、果実のようだ。じっと顔を見つめていると、あまりの明るさに手元が狂って、プリントを落としてしまった。一瞬宝石が大きく輝いて、そのまま耳に美しい声を運んでくる。

「ああごめんね!」

 優しさが湿った空気を伝わって滲み出てきた。滝壺から水がサッと流れ出て、床に滴りそうになる。床を濡らすまいと、プリントを拾う。綺麗な水が床に流れてしまっては、勿体無い。拾ったプリントをよく見ると、ほとんど暗記だから難しいとかはないだろう。可愛らしい。

 そのまま何もなかったかのように講義に戻る。甘美な香りがまだ僕の鼻を離れようとしない。滝壺に咲いた向日葵は、その花弁を深緑の板の方へ向けている。少し遅れを取ったからか普段よりも急いでペンを動かすその手には、一切の狂いも見られない。チョークを走らせる音が、生徒たちのペンの音を掻き消す。

 恋という眼鏡を掛けると、どうしてこうも近視になるのだろう。僕の目の前だけは、かつてないほどピントがはっきりと合うのに、周りはぼやけてまるで見えなくなった。黒板が妙に遠のいていく。

 目を凝らして時計の方を見ると、漸く10分が経過したかという程の時間。滝壺には依然として清流がある。僕もいつかその滝の麓に訪れて、写真でも撮ろう。

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