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人間になるまで

作者: まぁや
掲載日:2026/08/29

人は、生まれたときから「自分」を持っているのだろうか。


何が正しいのか。

何が間違っているのか。

誰を愛し、誰を憎み、何を大切にするのか。


その多くは、誰かに教えられながら覚えていく。


「これは良いこと」

「これは悪いこと」

「こうするのが普通」

「こう感じるのが人間」


けれど、もし。


その「誰か」が、間違ったことを教えていたら。


もし幼い頃から、間違った価値観を正しいものとして与えられていたら。


それを信じて生きてきた人間は、本当に間違っているのだろうか。


そして、自分が「自分らしい」と思っている感情さえ、誰かによって作られたものだったとしたら。


何をもって、人は自分自身だと言えるのだろう。


これは、暗殺者として育てられた兄妹、(なぎ)(はな)の物語。

序章 森の家


 森には、街にはない音があった。


 朝になると鳥が鳴き、風が葉を揺らし、遠くで枝が折れる。


 凪は、そのすべてを聞き分けることができた。


 鳥が鳴いた。


 風が吹いた。


 枝が折れた。


 動物が走った。


 人間が歩いた。


 彼にとって、音とはそういうものだった。


 生き残るための情報。


 どこに敵がいるのか。


 何人いるのか。


 こちらに向かっているのか。


 逃げるべきか、戦うべきか。


 けれど、隣を歩く花は違った。


「ねえ、凪」


「ん?」


「あの鳥、毎朝いるね」


 凪は木の上を見た。


 小さな鳥が一羽、枝に止まっている。


「そうだね」


「毎朝、何を話してるのかな」


「……分からない」


「凪でも?」


「僕は鳥じゃないから」


 花が笑った。


「そっか」


 少し考えてから、また言った。


「じゃあ、朝だよって言ってるのかも」


 凪は何も答えなかった。


 ただ、もう一度鳥を見た。


 今までなら、その鳥がどこへ飛ぶのか、周囲に何か危険がないかを確認していた。


 けれど、その日は違った。


 鳥の鳴き声を、ただの「音」としてではなく。


 朝の音として聞いた。


 それが、二人にとっての新しい生活だった。


 森の奥にある、小さな家。


 誰も来ない。


 誰にも命令されない。


 誰かを殺せと言われることもない。


 朝起きて。


 食事をして。


 散歩をして。


 夜になれば眠る。


 そんな生活があることを、二人は知らなかった。


 いや。


 正確には。


 知ることを許されていなかった。


---------------------------------------------------


第一章 与えられたもの


 凪と花には、両親の記憶がない。


 物心ついたときには、二人とも施設にいた。


 孤児院。


 そう呼ばれていた場所だった。


 白い壁。


 長い廊下。


 規則正しく並んだベッド。


 決められた時間に食事をし、決められた時間に眠る。


 けれど、そこでは子どもたちに勉強を教える代わりに、殺し方を教えていた。


 ナイフの持ち方。


 人の気配を消す方法。


 急所。


 逃げ方。


 追い方。


 痛みに耐える方法。


 泣かない方法。


 そして


 人を殺すことに慣れる方法。


「一番になれば、ここから出してあげる」


 職員は、いつもそう言った。


「外には自由な世界がある」


「好きなものを食べられる」


「好きな服を着られる」


「好きな人と暮らせる」


「だから頑張りなさい」


 凪は、その言葉を信じた。


 花も信じた。


 だから二人は頑張った。


 凪は、いつも花より先に前へ出た。


 訓練で誰かが花に手を上げれば、その前に立った。


 花が転べば、手を差し出した。


 食事の量が足りなければ、自分の分を半分渡した。


 それは誰かに命令されたわけではなかった。


 ただ、


 そうしたかった。


 けれど凪は、その「そうしたかった」という感情さえ、自分で疑うことができなかった。


 何もかもが、最初から決められていたからだ。


 善いこと。


 悪いこと。


 強いこと。


 弱いこと。


 生きること。


 死ぬこと。


 愛すること。


 憎むこと。


 施設は、子どもたちにすべての答えを与えていた。


 だから。


 自分の答えを持つ必要がなかった。


---------------------------------------------------


第二章 十八歳


 凪が十八歳になった日。


 施設では、小さなケーキが用意された。


「十八歳、おめでとう」


 凪は、少しだけ笑った。


 ようやく終わる。


 十八歳になれば、ここから出られる。


 花と一緒に。そう思っていた。


 その夜。


 職員から一枚の紙を渡された。


 そこには、人の名前が書かれていた。


「明日の朝までに」


 凪は紙を見た。


「……これを?」


「そう」


「僕が?」


「君が一番だから」


 その瞬間、凪の中で何かが崩れた。


 十八歳になれば自由になる。


 それは違った。


 十八歳になれば。


 ようやく「商品」として完成するだけだった。





 初めて人を殺した夜。


 凪は吐いた。


 何度手を洗っても、血が落ちない気がした。


 指の間まで洗った。


 爪の隙間まで。


 それでも。


 落ちなかった。


 その日の夜、花が隣に座った。


「凪」


「……ん?」


「手、震えてる」


「寒いだけ」


「そっか」


 花は、凪の手を両手で包んだ。


「じゃあ、あっためる」


 凪は何も言えなかった。


 怖かった。


 人を殺したことが怖かった。


 自分が人を殺せることが怖かった。


 そして。


 何より怖かったのは。


 翌朝になれば、また普通に朝食が出てくることだった。


 人が一人死んでも。


 世界は何も変わらなかった。


 鳥は鳴いた。


 太陽は昇った。


 パンは配られた。


 訓練は始まった。


 凪はそのとき初めて思った。


 もしかすると。


 人間にとって「普通」というものほど、恐ろしいものはないのかもしれない、と。


---------------------------------------------------


第三章 森


 二人が施設を出たのは、それから何年も経ってからだった。


 逃げた。


 追われた。


 戦った。


 そして、森へ辿り着いた。


 小さな家を見つけた。


 古い。


 けれど住める。


 誰もいない。


 それだけでよかった。


 最初の夜、花が言った。


「明日は何する?」


 凪は答えられなかった。


「……分からない」


「そっか」


「任務がないから」


 花は少し考えて。


「じゃあ、明日考えよう」


 凪は、その言葉が妙に嬉しかった。


 明日を決められていない。


 何をしてもいい。


 何もしなくてもいい。


 それは自由だった。


 自由というものが。


 こんなにも怖くて。


 こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。


---------------------------------------------------


第四章 二人の生活


 凪は料理を始めた。


 最初は酷いものだった。


 野菜は固い。


 味は薄い。


 肉は焦げる。


 それでも花は笑った。


「美味しい」


「嘘」


「本当」


「顔が変」


「どんな顔?」


「無理してる顔」


 花は笑った。


「でも、美味しいよ」


 凪も笑った。


 何度か作るうちに、ポトフができるようになった。


 鍋を火にかける。


 野菜を切る。


 肉を入れる。


 塩胡椒を入れる。


 弱火にする。


 コトコトと鍋が鳴る。


 トントンと包丁が鳴る。


 その音を、花は好きになった。




「この音、安心する」


「どうして?」


「分からない」


 花は目を閉じる。


 野菜を切る音。


 鍋の煮える音。


 湯気の匂い。


「誰も死なない音だからかな」


 凪は、包丁を持ったまま止まった。


 いつもと同じように刃物を握っていた。


 その刃物は人を傷つけるためのものだった。


 今、同じ手で野菜を切っている。


 道具は変わらない。


 変わったのは。


 それを使う自分だった。


 凪は、そのことを少しだけ誇らしく思った。


---------------------------------------------------


第五章 おすそ分け


 ある夕方、インターホンが鳴った。


 二人の身体は瞬時に反応した。不穏な空気。


 凪が花を見る。


 花が窓を見る。


 逃げ道。


 武器。


 距離。


 相手の人数。


 すべてが一瞬で頭の中に浮かんだ。


「いないのかしら?」


 女性の声。


 二人は息を殺す。


「余り物があるんだけど」


 沈黙。


「よかったら食べて」


 女性は玄関前に煮物を置いて帰っていった。


 凪はしばらくしてから、ドアをそっと開けた。


目の前には手作りの食べ物らしきものがある。


「……」


「どうする?」


「食べる?」


「毒かも」


「でも、いい匂い」


 二人は、少しだけ笑った。


 そして食べてみた。


 美味しかった。


 花はその夜ずっと考えていた。


「ねえ」


「ん?」


「もらうって、不思議だね」


「何が?」


「何もしてないのに、もらえる」


 凪は答えられなかった。


 施設では。


 何かを与えられるには理由があった。


 褒美。


 対価。


 命令。


 評価。


 だから、何の理由もなく誰かが何かをくれるということが、二人には理解できなかった。


「返したい」


 花が言った。


「何か返したい」




 義務ではなかった。


 借りでもなかった。


 ただ。


 嬉しかったから。


 自分も誰かを嬉しくしたかった。


 その感情を。


 誰かに教わった記憶はない。


 だから凪は初めて思った。


 もしかすると、普通というものは。


 教えられたものだけではないのかもしれない。


---------------------------------------------------


第六章 ケーキ


 花が十八歳になった。


 凪はケーキを買った。


 ホールケーキ。


 白いクリーム。


 赤いいちご。


 チョコレートのプレート。


「十八歳おめでとう」


 花は目を輝かせた。


「……綺麗……」


 凪はろうそくに火をつける。


店員さんが教えてくれた。


 花の顔が小さな炎に照らされた。


 パチ…パチ…。


「早く消して!」


「え?」


「ろうそく!」


「どうやって?」


「吹くんだよ」


 花は手で仰ぐ。


 火は消えない。


 凪は慌てて全部吹き消した。


 花は笑った。


「私の誕生日なのに、凪が消した!!!」


「だってケーキに垂れるから」


 二人は笑った。


 ケーキを半分に切る。


「孤児院じゃ、一切れだったよね」


「うん」


「これ」


 花はホールケーキを見る。


「最初から丸だったんだね」


「……そうだね」


「知らなかったね」


 二人は笑った。


「今日は料理ないね」


「ケーキがご飯」


「いいね」


 その夜。


 二人はケーキを食べて。


 お腹いっぱいになって。


 そのまま眠った。


 平和だった。


 それは、誰かに与えられた平和ではなかった。


 二人が。二人で選んだ平和だった。


---------------------------------------------------


第七章 アイツ


 それから何ヶ月か経った。


 スーパーから帰ると、家のドアがおかしかった。


 凪は何も言わずに裏へ回った。


 窓。


 傷。


 違和感。


「何か仕掛けてある」


「また家探さなきゃね」


 花が言った。


「ここ、好きだったのに」


「俺も」


「街に降りて、お家みてみる?」


「行くか、」



 森を出ようとしたその瞬間。


 振り返った先に、そこにいた。


職員だ。


「花が十八になった」


 男は笑った。


「素晴らしいことだ」


 凪の前に立つ。


「任務がある」


 凪は花を見る。


 そして身体を動かした。


 腰のナイフ。


 右足。


 左足。


 三本。


 それは孤児院で叩き込まれた習慣だった。


 悔しかった。こんなときまで。


 あの場所が自分の身体を動かしている。


 けれど、その瞬間。凪は気づいた。


 この身体は。


 もう。


 施設のものではない。


 施設が教えたのは、ナイフを抜くところまで。


 その先を決めるのは自分だった。


 人を殺すために使うのか。


 花を守るために使うのか。


 選ぶのは。


 自分だ。


 戦いは長く続いた。


 互いに傷つく。


 血が流れる。


家が壊れていく。


 花も加わった。


 けれど、男が花を狙った瞬間。


 花の動きが止まった。


「躊躇したな」


 男が笑った。


「任務をしていないからだ。可哀想に。」


 花は、悔しさを噛み殺した。


 そして。


 刃を振った。


 男の腕に深い傷が走る。


 男は笑いながら消えた。


「また来るよ。今日は良いものが見れた。」






 家へ戻る。


 玄関を開ける。


 ドアが外れる。


 天井がない。


 二人はしばらく呆然と空を見る。


 星が出ていた。


「……綺麗」


 花が言った。


「うん」


「こんな状況なのに」


「うん」


 二人は笑った。


「普通になれたかな」


「分からない」


「私も」


「でも」


 凪は空を見た。


「普通になりたい」


「私も」


 二人はその夜、満天の星を見ながら眠った。


---------------------------------------------------


第八章 普通


 数ヶ月後。


 花が言った。


「スーパー行きたい」


 凪は深く考えた。


「、、、、一緒に行こう」


 二人は森を下りた。


 鳥。


 花。


 蝶。


 以前なら何度も立ち止まっていた。


 けれど街へ近づくにつれて、その景色は変わった。


「なんか、いつもと違うね。変な空気。」


答えがわかった。


 銃弾。


 焼けた建物。


 廃墟。


 突然「逃げろ!」


 男が走ってきた。


 銃声。


「政府反対派が暴動を起こしてる!」


 男は二人をパッと見る。


「なんでお前ら、走らないんだ、?」


 二人は。答えられなかった。


 焦れない。


 怖くない。


 いや、


 怖いという感覚そのものが。


 普通の人間とは少し違っていた。


 それでも。


「スーパー行く?」


 花が言う。


「行こう」


 店の中には、ほとんど何もなかった。


 米も。


 パンも。


 缶詰もない。


 残っていたのは、土と種だった。


 二人は持って出る。


 しばらく歩いて花が言った。


「……これ、盗んで来ちゃったよね」


 凪が止まった。


「……戻ろう」


 二人はゆっくりと、レジにお金を置いた。


 誰も見ていなかった。


 誰にも褒められない。


 罰せられもしない。


 それでも。二人はお金を置いた。


 それは「盗むな」と教えられたからではなかった。


 自分たちが、そうしたいと思ったからだった。


 凪は、そのとき確信に近いものを感じた。


 普通とは。


 教えられたルールではない。


 少なくとも。


 それだけではない。


---------------------------------------------------


第九章 子どもたち


 夜。


 あの女性が二人の家を訪ねてきた。


 子どもが連れていかれた。


 助けてほしいと。大人の手が足りないと。


 二人は女性と街へ向かった。


 工場地帯。


 コンテナ。


 大勢の大人。


 子どもたちを見つける。


 大人たちは叫び、子どもたちは逃げる。


 その姿を見て花が言った。


「親って」


「ん?」


「こんな感じなのかな」


「分からない」


「自分より必死」


 凪は大人たちの顔を見る。


 怖い顔。


 怒っている顔。


 泣いている顔。


 走っている。


 叫んでいる。


 ただ。


 子どもを探している。


「親がいるって」


 花が呟く。


「いいね」


 凪は何も答えられなかった。


 自分たちにも誰かがいたら。


 こんなふうに探してくれただろうか。


 それは、もう分からない。


 でも、あの人たちが、子どもを大切にしていることだけは分かった。


 誰かを大切にする。


 その理由を。


 誰かに教えられる必要はないのかもしれない。


---------------------------------------------------


第十章 最後の刃


 そして。また何ヶ月か経った。


 再び男が来た。


 一瞬の隙だった。男が花の腕を掴んだ。


 息を飲む。凪がナイフを掴んで切りかかる。


 戦った。


 何度も。


 何度も。


 花を取り返す。その一心で。


 最後…


 凪はアイツを殺そうとした。


 けれど。体力が限界だった。もう疲れてしまった。


 拘束されていた花が、抜けた。


 その一瞬。


 凪の手が止まる。







 花が。


 刃を突き立てた。


 男は笑った。


 そして、花が刺した刃は人を殺す為のものだった。









「終わったね」


 花が言う。


「……うん」


「終わったよ」


「……うん」


「また普通に戻れるね」


 花は笑っていた。


 凪は笑えなかった。


 怖かった。







 自分が、初めて人を殺したとき。


 どれだけ怖かったか。


 吐いたか。


 泣きそうになったか。


 何度も何度も手を洗った感覚。


 人の肉を割く感覚。常に罪悪感があった。


 なのに。


 花は。




 凪はその瞬間。


 自分が一番恐れていたことに気づいた。


 自分と同じものを背負わせてしまったのだと。


 そして。


 夜、花は自分の手をじっと見つめていた。


「怖くなかったな、」


 ぽつりと言う。


「……」


「怖くなかった」


 花の声が震えた。


「怖い」


 涙が落ちる。


「なんで、、、なんで、、、」


「……」


「なんで私、怖くないのかな?」







 凪は答えられなかった。


 花は自分の中を探していた。


 悲しみ。


 恐怖。


 罪悪感。


 どこかにあるはずのものを。


 必死に探していた。


 でも。


 見つからない。






 そして花は思った。


 自分には、人間らしい感情がないのではないか。


 そのとき、もう一つの疑問が生まれた。


 凪は本当に兄なのだろうか。


 兄妹だと。


 教えられただけ。


 証拠はない。


 記憶もない。


 もしかしたら。


 全部。


 施設が作った関係だったのではないか。


 花は眠っている凪を見る。


 料理をする優しい手。


 ケーキを買ってくれた手。


 自分に服を選ばせてくれた手。


 何度も自分の前に立っていた背中。


 それらを思い出した。







 血が繋がっているか。


 それは、もう重要ではなかった。


 凪が自分にとって兄なのか。


 それを決めるのは。


 施設でも。


 誰かでもない。


 自分だった。


「……お兄ちゃん」


 花は眠っている凪に呟いた。


 凪は少しだけ寝返りを打った。


 花は、そのまま目を閉じた。


---------------------------------------------------


最終章 人間


 翌朝。


 凪は包丁を持って軽やかに料理を作っていた。


 トントン。


 包丁がまな板を叩く。


 コトコト。


 鍋が鳴る。


 花はその音を目を閉じながら、聞いていた。


「凪」


「ん?」


「普通って何だと思う?」


 凪の手が止まった。


「難しいこと言うなぁ……」


「昨日から考えてたの。」


人を殺したから?とは聞けなかった。


 凪は、しばらく考えた。


「施設で教えられたことね、」


「うん」


「強くなれだったでしょ?」


「うん」


「弱い奴は死ぬ。仕方がないってね、」


「うん」


「あそこのご飯、食べて、人殺しの練習して。」


「うん」


「命令には従わなくちゃ、」


「うん」


「それは普通だったのかな?」







 凪は答えなかった。


「でも」


 花が話を続ける。


「それを教えられたからって、本当に自分だったのかな」


「……分からない」


「俺も。分からない。」








 二人は沈黙した。


 窓の外で、鳥が鳴いた。


「じゃあ……」


「今の私たちは?」


「……」


「何を信じればいいの?」






 凪はゆっくりと包丁を置いた。


花の前に座る。


「分からないよ。ごめん。」


 正直な答えだった。


 昔なら、分からないことは恥だった。


 正解を知らなければ怒られた。


 だから、分からないと言うことさえ…怖かった。


 でも。


 今は。


「分からなくてもいいんじゃないかな」


 凪が言った。


「……」


「誰かに答えをもらわなくても」


「うん」


「自分で考えて」


「うん」


「間違えたら、また考えればいいよ。」


 花は黙って聞いていた。







「人間って」


 凪は窓の外を見る。


「矛盾してるんじゃないかな」


「矛盾?」


「普通ってよくわからなくて。俺。」


「……」


「怖いのに子どもの為だからと戦うこともある」


「うん、」


「頑張ってやった事に、何も感じなかったりさ」


 花の目に涙が浮かぶ。


「優しくなりたいと思いながら、誰かを憎むこともある」


「……」


「正しいことをしたのに、誰かを傷つけることもある」


 凪は。


 静かに続けた。


「だから、感情に正解があるんじゃないかと思う」


「じゃあ、何が人間なの?」


 花が聞いた。


 凪は、すぐには答えなかった。


 しばらくして。


「選ぶことじゃないかな」


「選ぶ?」


「うん」


「でも………」


 花は自分の手を見る。


「私たち、ずっと選ばされてきたよ?」


「そうだね」


「殺せって言われたから練習してきた。」


「うん」


「強くなれって言われたから強くなった。」


「うん」


「怖がるなって言われたから、怖がらなくなった。」


「……」


「じゃあ……」


 花は。


 少し震える声で言った。


「私が今感じてることも……本当に私のものなのかな」


 凪はその言葉を聞いて、しばらく黙った。


 そして。


 静かに答えた。


「分からない」


「……」


「たぶん、誰にも分からないんだと思う」


 花が顔を上げる。


「普通って」


 凪は言った。


「最初から自分の中に完成した形で、入ってるものじゃないんじゃないかな?」


「……」


「誰かに教えられた事が全てじゃなくてさ、」


「うん」


「誰かに傷つけられて、傷ついたって思って」


「うん」


「誰かに優しくされて、今度は誰かにしたいと思って」


「うん」


「自分で考えて、色々間違えて」


「うん」


「それでもう一度選んで」






 凪は、花をじっと見つめた。


「その繰り返しで、自分って、自分になっていくんじゃないかな」


 花は、目を伏せた。


 殺すための場所。


 半分こしたカビのパン。


 ボロボロの雑巾みたいな服。


 二人で夜の道を、息を切らしながら走った日。


 消せなかったろうそく。


 丸いケーキ。


 道の花や蝶。


 スーパーに置いてきたお金。


 子どもを必死で探す親。


 綺麗だと思った星空。


 全部。


 誰かに教えられたものではなかった。


 いや、正確には。


 それらを感じる「きっかけ」は、全て、誰かとの出会いから生まれた。


 けれど、その先で何を思うかは。


 二人が決めた事だった。


「じゃあ」


 花が言った。


「私が凪を兄だと思うのも」


「うん」


「私がここにいたいと思うのも」


「うん」


「誰かに優しくしたいと思うのも」


「うん」


「全部」


 花は自分の胸に手を当てた。


「私が選んだなら」


 凪は静かに頷いた。


「それでいいんだね……。」


 花は泣いた。









 けれど、前と違うのは今度の涙を「正しい涙」なのかどうか考えなかった事。


 悲しいから。


 怖いから。


 嬉しいから。


 安心したから。


 全部が混ざっている。


 たぶん、これが自分なのだ。


 矛盾している。


 だから。


 人間なのだ。


 凪は再び料理に戻って、包丁を握った。


 トントン。


 野菜を切る。


 花はテーブルに皿を並べる。


「今日なに?」


「んー、適当だよ、まだ下手だからさ」


「美味しいよ。カビてないし!」


「そりゃそーだろ!」


「美味しいよ。お兄ちゃんの料理。」


「じゃあ、いいか」


 二人は笑った。


 窓の外。


 鳥が鳴いている。


 昔なら、その音に意味を探した。


 敵がいるのか。


 何か起きているのか。


 けれど今は。


 ただ。


 朝が来たのだと思う。


 それだけでよかった。







 人間は優しい生き物ではない。


 残酷にもなる。


 誰かを殺すこともある。


 誰かを守ることもある。


 愛することも。


 憎むこともある。


 正しいと思って間違えることもある。


 間違っていると思いながら。


 誰かを助けることもある。


 感情すら。


 いつも正しい形では現れない。


 だから。


 人間に「正解」はないのかもしれない。


 あるのは「選択」だけだ。





 誰かに与えられた価値観を。


そのまま信じるのか。


 一度疑ってみるのか。


 傷つけられたから。


 自分も誰かを傷つけるのか。


 それとも。


 ここで終わらせるのか。


 優しくされたから。


 自分も誰かに優しくするのか。


 それとも。


 何もしないのか。


 どれを選んでも。


 きっと、間違える。


 それでも。


 もう。


 誰かに決めてもらう必要はない。


 凪と花は自分たちで選ぶ。


 何を食べるか。


 どこで暮らすか。


 誰を大切にするか。


 何を許すか。


 何を許さないか。


 そして。


 どんな人間になるのか。


 自分たちで決めていく。









「凪」


「ん?」


「今日、星を見ようね」


「いいよ」


「雨だったら?」


「そのときは家で寝ようよ」


「そっか」


 凪が笑う。


 花も笑った。


 森の奥の小さな家から。


 包丁の音が聞こえる。


 トントン。


 トントン。


 誰かを殺すためだった手が。


 誰かと生きるための食事を作っている。


 それだけのことだった。


 けれど。


 二人にとってはそれが。


 何よりも大切な証明だった。


 自分たちは。


 最初から普通だった。


 ただ。


 普通であることを。


 教えてもらえなかっただけだった。


 そして今。


 二人はようやく。


 誰かに教えられた「普通」ではなく。


 自分たち自身で。


 人間になっていく。


 その答えに。


 終わりはない。


 明日も。


 その次の日も。


 きっと。


 迷う。


 間違える。


 傷つく。


 笑う。


 泣く。


 それでも。


 自分で選ぶ。


 その繰り返しを。


 二人は。







 「生きる」と呼ぶことにした。

凪と花の物語を書き終えて、最後に残ったのは、「人間とは何なのだろう」という問いでした。


二人は、最初から人間でした。


笑うこともできた。

誰かを大切にすることもできた。

傷つくこともできた。


ただ、それを「人間らしい」と教えてくれる人がいなかった。


代わりに二人が教えられたのは、殺すことでした。


命令に従うこと。

強くなること。

弱いものは淘汰されること。

感情を持たないこと。


二人は、それを疑うことなく生きてきました。


けれど、森で暮らし始めてから、少しずつ世界が変わっていきます。


料理を煮込む音。


誰かからもらった食べ物。


初めて食べた大きなケーキ。


消せなかった誕生日のろうそく。


森の花。


鳥の声。


夜空の星。


そして、誰かの子どもを心配する親たち。


どれも、二人が施設で教わったものではありません。


誰かに「こう感じなさい」と命令されたわけでもありません。


それでも二人の中には、少しずつ何かが生まれていきました。


だから、この物語で描きたかったのは、「悪い環境から抜け出せば、人は自然と正しい人間になれる」という話ではありません。


むしろ、その逆です。


人は、育った環境によって形を作られる。


誰かの言葉によって価値観を作られる。


傷つけられれば、傷つけることを覚える。


愛されれば、愛し方を覚える。


だからこそ、自分の中にあるものが本当に「自分のもの」なのかを疑うことが、とても大切なのだと思います。


人を殺した過去は消えません。傷つけた過去も変えられません。


恐怖の感じ方も、罪悪感の形も、人それぞれで違うかもしれない。


それでも二人は、自分たちで選び始めました。


殺すのか、殺さないのか。


逃げるのか、立ち向かうのか。


誰かを信じるのか。


誰かに優しくするのか。


そして、誰かに「兄妹だ」と教えられた関係さえ、自分たち自身の意思で選び直しました。


そこに、この物語の答えがあります。


人間らしさとは、最初から正しい感情を持っていることではない。


優しいことでも、強いことでも、誰も傷つけないことでもない。


矛盾する感情を抱えて。


間違えて。


迷って。


それでも、自分はどうしたいのかを考えて。


もう一度、自分で選ぶこと。


もしかすると、それこそが「自分として生きる」ということなのかもしれません。


凪と花は、後から普通になったわけではありません。


二人は最初から普通だった。


ただ、誰かに決められた「普通」ではなく。


自分たちが選んだ「自分自身」の「普通」を生き始めただけなのです。


この物語を読んだあと。


もし少しだけ、自分自身の「当たり前」を振り返ってもらえたら嬉しいです。


それは、本当に自分が選んだものなのか。


誰かに教えられたものなのか。


そして。


もし違うと思ったなら。


今から、自分で選び直してもいいのではないか。


そんなことを、この二人の物語から感じてもらえたらと思います。


最後まで凪と花の人生を見届けてくださり、ありがとうございました。

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