垣間見た聖母
「まだ、作品を描いてくれないの?」
牢屋の向こうで彼女が言った。
救いがたき悪女。
地獄に落ちるべき女性。
「せっかく、あなたが絵に向かい合える最高の環境を作ったのに」
おそらく彼女は本気でそう思っている。
この牢屋の中には最高の画材が揃っている上にその他のものは何もないのだ。
本もないから僕の思考は逃れることは出来ない。
蝋燭もないから僕は朝になれば起きて夜になれば寝るしかない。
そして、ここには僕の最愛の妻も息子もいない。
全て、彼女が奪ってしまったのだ。
僕が作品に向き合えるために。
「もう一年にもなるのに。これじゃ、死んだ奥様も息子さんも浮かばれないわ」
「黙れ」
僕は彼女を睨む。
あぁ、憎しみや視線の強さで人を殺せたならどんなに良かっただろうか。
「良かった。話す元気はあるのね。なら、絵を描くことも出来るわ」
僕は高名な画家だった。
愚かにも自らの才能を世界に示してしまった。
だからこそ、この悪女に魅入られたのだ。
『私のために絵を描いて。私の絵を』
彼女の依頼は実に単純だ。
要するに自画像を描いて欲しいと言うだけ。
僕は馬鹿だった。
芸術に生きていた愚者だった。
だからこそ、僕ははっきりと言ってしまったのだ。
『申し訳ないですがその気になりません』
芸術に生きたからこそ、芸術には嘘をつけない。
描きたいものだけを描く。
そうして生きてきたのだから。
『なら、描けるような気持ちにしてあげるわ』
僕は当たり前のことを忘れていた。
つまり、芸術は人を狂わせることで人を喜ばせるものだということを。
彼女は僕の妻を殺した。
彼女は僕の息子を殺した。
その上で僕を攫い監禁した。
『こうすればあなたは余計なことを考えなくて済むわ』
僕は窓が一つしかない牢屋に閉じ込められた。
もうどれだけの朝と夕をここで過ごしたのか分からない。
『ねえ。まだ作品は描けないの?』
死んでも描くものか。
それがせめてもの抵抗だ。
そう思いながら僕は今もこうして生きている。
朝と夕を繰り返し、繰り返し、繰り返しながら――。
*
「自殺はしないんだ」
ある日、彼女はそう言った。
その言葉はあまりにも不愉快で。
殺したくて仕方ない、この上ないと思った気持ちをさらに増徴させて――。
「なんだって?」
だからこそ、僕を冷静にさせていた。
僕の問に彼女はくすりと笑う。
「ううん。別に責めているわけじゃないの。むしろ、嬉しいの。だって、生きていれば絵は描けるもの」
ふざけるな。
そう思い切り怒鳴り散らしてやりたかった。
今すぐにも命を絶ってやりたかった。
きっと、そうするべきなのだと思った。
「それじゃ、また明日ね」
手をひらひらと振って踵を返す悪女を見つめながら僕の心は今までにないほど。
冷静に。
冷徹に。
不愉快極まりないほどに状況を理解した。
*
僕は絵を描くのが好きだった。
だから絵を描いた。
周りの人々は僕の才を誉め散らした。
高名と聞く評論家たちが僕の絵を読み解き解説した。
趣味の悪い指輪をした商人たちが僕に新作をいくつも願った。
『描きたいものも描けない』
僕のぼやきに妻は苦笑いをする。
『描きたいものを描いたなら良いのではありませんか?』
『あらゆるものが、些細なものが僕の邪魔をする』
その言葉を聞くと妻は僕の頭を軽く抱いた。
『気負わないでください。私はあなたの味方です』
その声を聞いて息子が走ってくる。
手には僕の道を真似て描いた、未熟な絵を持って。
『僕も絵を描いたよ!』
妻は芸術を理解しない。
だからこそ言う。
『もちろん、この子もあなたの味方です』
僕は二人に感謝の言葉を口から吐き出し、笑みを作りながら心の中で思う。
君達だって僕を縛っているんだ――って。
*
僕はようやく理解する。
憎しみは本心だ。
あの女を殺してやりたいと思う。
出来る限り苦しめて、死ぬ寸前まで慈悲を請わせながら、それでもゴミのように処理してやりたい。
だけど、僕がこうして生きているのはそんな夢物語のためじゃない。
この夢物語を果たせるなんて考えるほど僕は愚かじゃない。
そう。
つまり、この状況は本当に。
『せっかく、あなたが絵に向かい合える最高の環境を作ったのに』
僕が望んだ状況そのものだったんだ。
望みもしないのに僕の指は自然と筆をとる。
腹立たしくて仕方ないのに僕の心は歓喜していた。
ここには何も分からない人々も。
馬鹿みたいな解釈しかしない評論家も。
何の役にも立たないのに愛情ばかり深い家族もいない。
「描いてやる」
一枚だけ。
あの悪女に作品を。
*
「ふうん」
僕から手渡された絵画を見て悪女はにっこり笑う。
「あなたからはこう見えているの? 私は」
「馬鹿か? 鏡を知らないのか?」
「そうね。この絵は私の顔と似ても似つかない」
悪女はそれでも愉快そうに肩を震わせる。
「だけど、気に入ったわ。もう死んでいいわよ」
「言われなくても死ぬさ」
精魂尽き果てているのだから。
本当にもう。
全て出し切ったのだから。
「奥様と息子さんの傍に葬ってあげる――って、もう死んじゃったか」
くすくす笑う悪女の言葉。
それが遠い。
清々する。
「私の絵ではないけれど。家宝にするわ、これ」
勝手にしろ。
精々、自分とかけ離れた聖女の絵を自分だと主張し続ければいい。
死ぬまでも。
死んでからも。
『あなた』
妻が駆けてくるのが見えた。
あぁ、良かった。
死後の世界はあったらしい。
胸の中で泣き続ける妻に僕は告げる。
『最高の作品を描けたよ。もう心残りなんてない』
妻は歓喜して泣き続けた。
芸術のことなんて分からないくせに。
だけど、それでいい。
今じゃ、僕もあんまり芸術は好きになれそうにないから。
ちらりと滑稽な悪女を見た。
あの悪女ときたら今もじっと見惚れている。
聖女の絵に。
馬鹿みたいに。
『行こう』
僕は妻の手を取って歩き出した。
そして、二度と振り返らなかった。




