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泥童の涙~泡沫に消えたいつかの約束~【冬の童話祭2026】

作者: 高山路麒
掲載日:2025/12/11

『ねえ、泥童どろわろの涙って知ってる?』

『川底に宝石みたいなきらきらした石が見つかる事があるんだけど、それは川に住む泥童って妖怪が流した涙なんだって』

『もしも泥童の涙を見つけたら願いが一つだけ叶うそうだよ』


 子供の頃、僕はそんな噂話を聞いた事がある。


 山と川しかない田舎ではありがちな、子供が珍しいものを見つけた時にすぐに思いつく様なありふれた話だ。


 だけど子供だった僕はその話を真に受けて、町を流れる川の底を懸命に探し泥童の涙を探した。


 それも真冬のクソ寒い時期に。まったくもって馬鹿としか言いようがない。けれど当時の僕はそういうタイプの子供だったのだ。


 欲しいものはたくさんある。


 まずは願い事を増やすという願いを叶えてもらい、それからゲーム機を貰おう。通信ケーブルもおまけにつければクラスのヒーローになれるに違いない。


 ホビー業界はどこまでも強欲だ。時間が足りない程オモチャを提供し続け、金のある時を見越してクリスマスに波状攻撃を仕掛ける。


 サンタクロースも近頃は財政難なので彼らの陰謀の前には無力だ。それを打破するにはただ一つ、底なしの物欲を現実のものとする圧倒的な財力だ。


 しばらくして願いを増やさずとも百兆円くらい貰えばいいのでは、という考えに思い至る。


 きっとそれくらいあればこの世に存在するオモチャを全て手に入れる事が出来るはずだ。だって百兆円だから。


 何にせよ全ては泥童の涙を見つけない事には始まらない。だが探せども探せども泥童の涙は見つからなかった。


 やはり願いを叶えるお宝がわかりやすい場所にあるわけがない。もしもあるとすればそれは町中ではなく秘境に違いない。


 答えを導き出し、宝に一歩辿り着いた僕は山奥に向かい清流の中で泥童の涙を探し求めた。


 僕は川底に沈んだ大きめ石を引きちぎる様に片っ端から動かし、世界の全てを手に入れるためにひたすらその輝きを追い求めた。


 石の下には謎の藻やうねうねと動く生き物が群生し、それに驚いて尻もちをついて全身がずぶ濡れになる。


 寒い。クソ寒い。ここが南国九州と言えど限度がある。体力と根性と馬鹿に定評がある九州男児でも寒さにだけは勝てないのだ。


 こんな寒い時期に川に潜って僕は一体何をしているんだろう。寒さのせいで頭が回らなくなり、冷たさは痛みに変わり僕の心は弱音を吐きかけた。


 コタツに潜ってぐうたらしておけば良かったのではないか。サンタクロースに媚びるため勉強をするふりでもしておけば良かったのではないか。


 脳内では長崎が生んだ御大の盛り下がる曲が再生される。精霊流しの灯と共に自分もここではないどこかに消えてしまうのだろうか。


 だけどここで負けていいのか。


 ホビー業界の陰謀に屈していいのか。


 彼らとサンタクロースはカルテルを結んでいるというのに、言われるがまま餌を与えられトナカイという家畜になっていいのか!


(うん、やめやめ。面倒くさい)


 だけど僕は子供、シンプルに飽きてきたので泥童の涙を探すのを諦めてしまった。


 飽きたからやめる、子供の行動原理にそれ以上の理由は必要ない。


(あれ?)


 ――けれど、川から出ようとした僕の足は思うように動かなかった。寒さのせいで感覚が無くなってしまったのだろう。


 僕はそのまま転倒、硬い何かに頭をぶつけ脳内に星が散る。痛みはなく衝撃だけを感じ、何も考える事が出来なかった。


 山の川の流れは複雑だ。穏やかな様に見えても渦潮のようにうねっている場所や、流れが急激に速くなる場所もたくさんある。


 寒い。冷たい。怖い。


 流された僕の身体は水底に沈んでいき、次第に痛みも苦しみも感じなくなってしまった。


(ああ、またなのか)


 意識を失う間際、僕はそんな事を思ってしまった。


 けれどその言葉の意味が理解出来ないまま、僕は闇の世界に飲み込まれてしまう。


「シロちゃん」

(……?)


 その時誰かの声が聞こえた気がした。天使の羽衣の様に美しい鮮やかなヒレを持った女性は、懸命に手を伸ばし僕の手を掴もうとする。


 この女の人が誰なのかわからない。


 だけどあの場所に戻りたい。


 まだ生きていたい。


 死にたくない。


 僕は無我夢中で差し出された手を掴む。


 オモチャなんていらない。生きていればそれだけで良かったんだ。




 意識を取り戻した僕はほのかなぬくもりを感じ、心地よさに身を委ねた。


 誰かは赤ん坊をあやす様に僕の頭を優しく撫でてくれる。その優しさは悠久の時を流れる大河の様に僕を包み込んでくれたんだ。


「ん……」

「気が付きましたか?」


 僕はようやく誰かに膝枕をしてもらっていた事に気が付いた。どうやらその女の人が僕の頭を撫でてくれた様だ。


 僕は霞が漂う場所で池の様な場所の中央の孤島にいた。池の水面は鏡の様に澄み渡り、世界をそのまま反転させていた。


 真っすぐと伸びた巨木には黄緑色の葉っぱが生い茂り、結界の様に池の周囲を取り囲む。


 この世のものとは思えない美しさは、同時にこの場所は人がいてはいけない場所だという事を理解させた。


「え、僕死んだの?」


 僕は次第に意識を失う前の事を思い出した。


 まさかここはあの世なのか。


 僕は川で溺れて死んでしまったのか。


 その事を理解し始め、だんだん恐怖を抱いてしまった。


「ふふ、死んでませんよ。後で元の場所に送りますから」

「そ、そっか、良かった~」


 だけど女の人は狼狽える僕をおかしそうに笑った。


 きっとこの女の人がそう言っているのなら僕は死んでいないのだろう。根拠はそれ以外なかったけど僕は安心してしまったんだ。


 でも女の人はどうして手足にヒレがあるのだろう。どうして鱗があるのだろう。この女の人はどうしてこんな場所に一人でいるのだろう。


 僕はその事が不思議で仕方がなかったけれど、彼女のヒレや鱗はガラス細工みたいでとても綺麗だったんだ。


「駄目ですよ。子供が川で一人で遊んだら泥童に足を引っ張られるって言われなかったんですか?」

「ご、ごめんなさい……でも僕、泥童の涙が欲しくて、欲しい物がたくさんあって、願いを叶えてもらおうって……」


 女の人は悪さをした僕を叱りつける。僕は今更になって馬鹿な事をしてしまったと深く反省し、泥童の涙を見つけられなかった事もありひどく落ち込んでしまった。


「泥童の涙……ああ、人間さんはそう呼んでいるんでしたっけ。欲しければお土産にいくらでもあげますよ」

「え、いいの? しかもこんなにたくさん!」


 女の人は年季の入った昔のお菓子の缶を取り出して蓋をカポ、と開け、僕はその中にあった眩い光に目を奪われてしまう。こんなにあれば好きなだけ願いを叶えられるに違いない。


「別に願いは叶いませんよ。綺麗ですから川のお掃除も兼ねて集めていますけど」

「なんだ、そっかあ」


 けれど女の人は悲しい真実を告げ、僕はとてもガッカリしてしまう。


 いや、そんな事考えなくてもわかり切っていた事実だったはずだ。特別な石で願いが叶うとか馬鹿馬鹿しい話を真に受ける僕の方が悪いだろう。


「でもお守りにはなるかもしれませんよ。さあ、どれでもどうぞ」

「うーん、じゃあこれにしようっと」


 僕は直感で緑色のきらきらした石を選んだ。願いが叶わなかったとしても綺麗だから価値はありそうだ。


「あなたはどんなお願い事をしますか?」

「そうだなあ、勇気が欲しいかな。僕っていっつもビビりだって言われるし」

「そうですか」


 だけど宝物を手に入れ、僕が嬉しそうにそう答えると女の人はとても悲しそうな顔をしてしまった。


 でもまだ子供だった僕はそれが何を意味するのかも分からず、少し不思議に思っただけで気の利いた言葉をかける事はなかった。


「もしもあなたの願いが叶ったのなら、それを私に返してくれますか。それはあなたに必要のないものですから」

「え? うん、わかったよ!」

「はい、約束です。それでは指切りしましょう」

「いいよー、指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーます」


 女の人は寂しそうに笑いながら不思議な約束をし、僕は言われるがまま女の人と無邪気に指切りをする。


「約束ですよ。今度はちゃんと守ってくださいね」


 きっと女の人にとってその願いは大切なものだったのだろう。その約束をした時、女の人はとてもホッとした笑顔になった。


 僕は何かを言おうとしたけれど、それが言葉になる事はなかった。


 霞は全身を包み込み、もっとお話をしたいという切なる願いも飲み込んでいく。


 そしてそれが、最初で最後の彼女との想い出だった。




 月日は流れ、無事にそこそこの大学を出て、福岡でそこそこの会社に就職した僕は故郷でもある川灘かわなだ町に戻って来た。


 この町には山もあるし川もある。けれどそういうのを世間では何もないと言うのかもしれない。郷土愛があまりない僕が都会に出るのにさほど躊躇はなかった。


 人生が物凄く上手くいっているわけじゃないけど大変という程でもない。不景気の今の時代じゃ幸せな部類に入るのだろうけど。


 お金とか将来の事じゃない。僕は漠然とした不安に苛まれ、どこか遠くに行きたくなってしまった。


 こういう場合行動力のある人なら日本一周をしたり、アフリカや南米に行ったりするのかもしれない。


 だけど僕にはそこまでの勇気はなく、里帰りも兼ねてこうして地元に帰って来たというわけである。


(だけど……本当に何もないなあ)


 観光地の多い長崎は魅力あふれる華やかな場所だけど、この辺にはそうしたきらきらしたものは何もない。


 一応温泉や特産品としてトマトやアスパラガスはあるけれど、大体の田舎に似た様な名物があるのであまり自慢にはならない。


 ささやかな自慢として全国レベルのブランド和牛はあったけど、僕は別に畜産に関わっているわけじゃないからあまり実感はなかった。


 特有の史跡としてキリシタンの遺構があるにはあるけど、興味がある人はもっとメジャーな五島列島や立派な天主堂に行くはずだ。


 実家で適当にくつろごうと思ったけど帰ってすぐに母さんから小言を貰い、父さんとは微妙にぎくしゃくとした会話しか出来なかったので、僕は頃合いを見て外に出かけた。


 羽休めをするつもりだったのに疲れて仕方がない。


 某RPGの主人公は自宅に帰るとタダで泊まれるけど、そのたびにこういうやり取りがあるのだろうか。実際の帰省なんてそんなに楽しいものではないというのに。


 僕は仕方なく仲が良かった地元の友人に連絡し、町内にある数少ないレストランを訪れていた。


「おー、久しぶり、シロちゃん」

「コバちゃんも元気そうだね。なんかイメージ変わったけど」

「朝から晩まで牛と子供の世話をしていたら自然とこうなるさ」


 幼馴染のコバちゃんは昔は丸坊主で太っていたけど、今は随分とマッチョなガタイの良い風貌に変わっていた。


 見る人が見れば強面だけど、笑った時の顔はあの頃と何も変わらない。名作ドラマの画伯の様におにぎりを頬張っていた子供時代の彼がすぐにイメージ出来てしまう。


 コバちゃんは地元に戻り実家の畜産農家を継ぎ、ブランド和牛を生産して毎日充実した日々を過ごしているらしい。


「子供って、いつの間に結婚したのさ」

「半年くらい前に離婚したけどな」

「本当? 全然知らなかったよ」


 またコバちゃんは知らない間に結婚して知らない間に離婚しており、僕は軽く衝撃を受けてしまった。


 この手の話は田舎のあるあるネタだけど、実際体験すると置いてけぼりにされた気分になり寂しさを感じてしまう。


「それで急に戻って来てどうしたのさ。都会暮らしに疲れて出戻りするつもりか?」

「疲れてないわけじゃないけど、なんとなく地元に戻りたくなって」

「そっかあ。無理はするなよ」


 僕達は近況を話し合い取り留めのない想い出話に花を咲かせた。僕の漠然とした物足りなさは、気休め程度にほんの少しだけ満たされた。


 けれど彼の会話の節々から日々が充実している事が伺える。子育ても畜産業もとても大変だというのに、どうして彼はこれほどまでに幸せそうなのだろう。


「そういや昔シロちゃんって昔川で溺れた事があったよな」

「ああ、あったね」


 しばらくしてコバちゃんは僕がかつて行方不明になった時の事を話した。僕は帰省したもう一つの目的を思い出し、手間を省いてくれた彼に心の中で感謝をした。


「あの時は警察も消防も出動して大騒ぎになったっけ。で、しばらくして何事もなく戻って来て……何があったんだっけ?」

「泥童の涙を探していたら女の人に助けられたって言って、いろんな場所に連れて行かれたんだよ」

「そういうオカルト的な機関に?」

「普通に病院」

「まあリアルでそんな事を話したらそらそうなるわな」


 僕の証言は大人達にとってはとても奇妙に映った事だろう。最終的には子供の作り話とされ、いろんな人に怒られ僕とこの町は日常を取り戻したんだけど。


「でもちゃんと泥童の涙は貰ったんだよね。ほら、これ」

「ん」


 僕はポケットからフェルトで作った手作りのお守りを取り出し、そこから緑色に輝く泥童の涙を取り出した。


「どこからどう見てもシーグラスだな。見つかったのが川の場合なんて言うのかわからないけど」

「だろうね。これをくれた女の人も川の掃除を兼ねて集めていたって言ってたし」


 だけどコバちゃんは訝し気にそれを眺めた後そう告げ、僕もその事はなんとなくわかっていたのですぐに認めた。


 シーグラスはガラスの欠片が水によって削られたものだ。出来るまでには数十年、数百年単位の長い年月がかかるので、そういう意味では貴重なものではあるのかもしれない。


 独特の風合いはアクセサリーの素材として人気があり、色や状態によっては一つ数千円単位で取引されるという。


「現にお土産にくれたものがここにあるし、取りあえず僕を助けてくれた女の人は実際にいたんだと思う。泥童だったのかどうかはわかんないけど」


 ただいずれにしてもこの緑のシーグラスは泥童の涙なんかではなく、神秘的な現象に由来するものではないのだろう。


「だろうなあ。でもあの一件で泥童の涙捜索の禁止令が出たっけ。今じゃ川で遊ぶ子供はほとんどいないし、泥童の言い伝えを知っている子供も減ってきたよ」

「そうなんだ。ならなんか悪い事をした気がするなあ」

「別にシロちゃんは悪くないだろ。安全に配慮する今のご時世じゃどこもそんな感じだし。田舎だとしてもコンプライアンスには抗えないのさ」


 元々川に引き込むという泥童の言い伝えは河童と酷似しており、安全への啓発という意味合いが含まれていたのかもしれない。だけど今の時代は妖怪の代わりにコンプライアンスがその役割を担っている様だ。


「でもそんなものを大事に持っているって、やっぱり初恋の人とかそういう奴か?」

「どうなんだろうね。でも願いが叶ったら返すって約束もしたし、もう一度会いたいなとは思うよ」


 コバちゃんが笑いながら尋ねた質問を僕は否定しなかった。


 今ではどんな姿をしていたのかもよく思い出せないけれど、彼女は間違いなく命の恩人には違いないしお礼程はしたほうがいいだろう。


 それに僕はあの時の寂しそうな笑顔を知りたかった。


 どうして勇気が欲しいと言った時に彼女があんなに悲しそうな顔をしていたのか、その理由を。


「ふーん。だけど俺も長い事住んでるけど、そんな奴知らないしなあ……でも大村おおむらさんなら知ってるかもしれないぞ。泥童に会った事があるって言ってたし」

「大村さん? あのいつもどこかで掃除をしている人だっけ」


 大村さんは元々町議会議員を務めていて、今は清掃ボランティアをしているおじいさんだ。僕も何度か見かけた事があり、登下校中に優しく挨拶をしてくれた記憶がある。


「大村さんは川沿いで掃除してる事が多いな。流石に泥童ってのは冗談だとしてもその人とは顔見知りかもしれないし、会えば話を聞かせてもらえるんじゃないか?」

「そっか、ありがとう。じゃあ後で散歩がてら探してみるよ」


 僕は頼れる情報屋からヒントを貰った。急ぐ必要もなさそうだし、のんびりうどんをすすってから向かっても遅くはないだろう。




 僕は川沿いを散歩しながら歩き続け、山沿いに広がる棚田を軽く見上げた。


 最近では棚田はおろか田んぼ自体も少なくなってしまったけど、この町では今でも現役だ。


 澄み切った空気の中で清流のせせらぎを聞きながら、こののどかな景色を見れば地元に帰って来たんだな、と安心してしまう。確かにこんな場所なら妖怪の一匹や二匹いるに違いない。


「こんにちは、シロちゃん」

「こんにちは。お久しぶりですね、大村さん」


 自由気ままに散歩をしていると僕はさほど苦労せずに大村さんと会う事が出来た。コバちゃんが言っていた通り、彼はゴミ袋とトングを持ってゴミを拾い集めているらしい。


「しばらく見ない間に随分と大きくなったね。帰省しているっていうのは聞いていたけど。いつまでいるんだい?」

「明日には帰りますよ。フラッと戻って来ただけなので」

「そうか、そうかぁ」


 のんびりとした大村さんとおしゃべりをしていると時間の流れが遅くなったように感じてしまう。


「ところで大村さん、ちょっと聞きたい事があるんですが」

「うん? なんだい?」


 このまま仲良く談笑していてもいいけど、日が暮れてしまいそうなので僕は本題を切り出す事にした。




 僕は昔溺れた時に女の人から泥童の涙を貰った事や、彼女との約束の事について話した。


 馬鹿馬鹿しい話だと思うのが普通なのに、大村さんはうんうんと頷き、聞き終わった頃には少しだけ寂しそうな顔になってしまった。


「それで大村さん。大村さんは泥童に会った事があるって聞きましたが、それって本当なんですか?」

「ああ、本当じゃよ」


 僕が一番大事な事を大村さんに尋ねると彼はあっさりと認めた。やっぱり僕が見た女の人は幻なんかじゃなかったんだ。


「ずっと昔、儂もまだ生まれてなかった頃にあの辺にはまだ人が住んでいたんじゃよ。大水のせいで人も集落も全部流されてしもうたがのぉ。泥童はその集落の守り神だったんじゃ」

「そうだったんですか」


 僕は大村さんから山奥の集落の歴史について教えてもらった。大村さんは戦前の生まれだから、集落があったのは明治や大正、下手をすれば江戸時代くらいの話なのかもしれない。


「実は儂も君と同じ様に泥童の涙を見つけ、そのまま川に流されて溺れてしもうての。その時にイノリさん……泥童と出会ったんじゃよ」

「イノリさん……」


 僕はその時初めて泥童の名前がイノリさんという名前である事を知った。彼女には相応しい清らかで優しい名前だな、とそんな事を思ってしまう。


「儂がどうしてこんな場所にいるのかと聞くと、彼女は人間の世界で生きる事が出来ないからと言った。本当は常世の世界に戻る事も出来るが、恋人の帰りを待ち続けているとも」


 僕は口にはしなかったけど、イノリさんに好きな人がいると知り少しだけガッカリしてしまった。


 こんな風に思ってしまうなんて、やっぱり僕は彼女の事が好きだったんだな。


「あれ、でも大村さんが子供の頃に会って、僕も彼女に出会ったって事はまだ恋人に会えてないって事なんですか?」

「そうなるんじゃろうねぇ」


 話を聞いていた僕はすぐにわかる事実に気付いてしまった。その恋人が人間ならば、きっともうとっくに死んでいるに違いない。


 だというのに彼女は独り寂しく時の止まった場所で、愛する人と再び巡り合うためにこの世界にとどまり続けている。僕は無性に切なくなってしまった。


「シロちゃん、彼女の恋人に会いたいかい?」

「え? 会えるんですか?」

「流石に生きてはいないけどね。慰霊碑はあるから」


 けれど大村さんはドキッとする事を言って、僕は少し悩んでからわかりました、と答えた。


 イノリさんの想い出に土足で踏み込む様で悪い気もしたけど、こうなったら最後までたどり着きたかった。


 僕があの時勇気が欲しいと願った時、どうしてあんな悲しそうな顔をしていたのか、その理由も知りたかったから。




 大村さんに連れて来られてやってきた場所は戦時中の遺構だった。


 現在は当時の歴史を伝える資料館になっているけど、おおよそ観光する程の物でもないこぢんまりとした物で、僕も存在は知っていたけれどほとんど訪れた事はなかった。


 資料館には当時の事を伝える資料や兵器の模型、慰霊碑があるけどそれくらいのものだ。


 同じ戦争絡みの遺構ならば長崎には有名なものがたくさんあるし、言い方は悪いけどどうしても目立たなくなってしまうのだろう。


「大村さん、ここって確か特攻艇の」

「そうじゃな。同じ特攻なら神風特攻隊や回天が有名じゃから、地元の人間もあまり知らんがのぉ」


 ただここが戦時中に行われた特攻艇による攻撃に関連するものである事だけはなんとなく知っている。だけど恥ずかしい事に知っていたのはそれくらいだ。


震洋しんようは特攻兵器と言ってもボートに爆弾を載せただけじゃからね。たくさん死んだ割にあまり戦果を挙げられんかったから有名ではないのかもしれんのぉ」


 震洋――それがこの船の名前なのだろう。だけどその言葉を聞いても僕は恐怖も怒りも何も感じなかった。それはきっと僕が無知で実感がわかなかったせいだろう。


「ひょっとしてイノリさんの恋人って」

「ああ。彼女の恋人はこの街にあった基地で訓練をしていたんじゃ。死ぬための訓練を」


 大村さんが寂しそうにそう言って、僕は全てが腑に落ちてしまった。


 僕が勇気が欲しいと願った時、彼女はもしかしたら同じ事を恋人から言われたのかもしれない。


 もちろん僕と亡くなった恋人との状況は全然違うけれど、その言葉は彼女の辛い想い出を呼び起こすものだったのだ。


 だから彼女はあの時願いが叶ったら返してほしいと言ったのかもしれない。僕は恋人と同じ様に、勇気を奮い立たせ死を選ばない様に。


(そっか、なら……)


 もしもそうならばイノリさんは何もかもわかっていたはずだ。もう恋人がこの世にいない事も。


 僕は彼女から貰った泥童の涙を取り出し、きゅっと握りしめる。やり場のない悲しみを、泣きたくなるほど寂しい気持ちを押さえつけるために。




 資料館から出た僕は慰霊碑に手を合わせた後、故郷の海を眺めた。


 いつ見ても変わらない平和で静かな海だ。もしもこの海が物悲しく見えるのなら、それは僕の捉え方が変わったせいなのだろう。


 この海のどこかにイノリさんの恋人も眠っているのだろうか。


 ならばこの泥童の涙は彼に返してあげたほうがいいだろう。彼女の想いを伝えるために。


 僕は煌めく海に泥童の涙を放り投げた。こんな事をしても自己満足にならないと、わかってはいたけれど。


 それっきり何か特別な事が起きるわけでもない。現実なんてそんなものだ。


(ありがとう)


 ただ海の向こう側で、寂しげに微笑むイノリさんがいた気がした。


 それは結局幻だったのかもしれないけれど。


「さて、と」


 ずっと心残りだったけれどようやく胸のつっかえが取れた。これで少しは彼女に恩返しが出来たかな。


 明日には僕は現実に戻ってしまう。働いて家に帰るだけの平凡な日々が。


 この事をきっかけに日々を大事に生きようとか、平和を大切にしようとか、そんな特別な事を思うわけじゃない。


 だけどきらきらと輝く故郷の海を眺め、少しくらいは世界の美しさにも目を向けてみようかな、と僕は思ったんだ。


 ひょっとしたらこの世界は僕が思っているよりも少しだけ優しいかもしれない。


 どこまでも優しくて美しい海を見て、僕はそう信じてみたくなったんだ。

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― 新着の感想 ―
真冬のクソ寒い時期では川底の藻も既に無くなっている気がします。 後は『長崎が生んだ御大』というワードが笑えました。 そして『きらきら』が、かなりこじつけになっていた感が拭えませんでした。
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