デルタトロスの子どもたち《外伝》
本編では描かれなかった後日譚
今なお脳裏に鮮明に蘇るのは、黒髪を指先で梳き上げたあの柔らかな感触と、肌に伝わる温もり。
そして、彼女が熱を帯びた声で名を呼んだ、あの一瞬の光景だった。
(―――テルウ)
夢ならば、どうかこのまま覚めないでほしい――。
そう願いつつ、そっと薄目を開けると、視界の中に揺れる長い黒髪が映り込んだ。それは、あの時と同じ光景だった。
夢ではなかったのだ。
安堵に胸が満たされテルウは静かに頭を撫でた。
しかし、掌に感じたのは、ジェシーアンよりもはるかに小さな温もりだった。
「……なんだ、お前だったのか、ミラ?」
木陰で横たわるテルウの腹の上にすっぽりと覆いかぶさっているのはミラだった。
彼女はリトの次に誕生したヒロとシキの長女である。
とにかく手足が長く、腰まで届く艶やかな黒髪を持つ美しい少女だ。
「っ……どけ! 重いんだよ!!」
テルウが声を荒らげても、ミラは全く動じることなく、そのまま彼の上に居座り続けていた。
「テルウ、お父様がずっと探してるわよ」
そう言うと、彼女は華奢な腕をテルウの首に絡め、まるで甘える子猿のようにじゃれついた。
「呼び出されたところで、どうせまた子守りを手伝えって言われるに決まってる。お前の父さん、政務は母さんに丸投げでハッキリ言って暇人だろ。だから子どもが増える一方なんだよ。おかげで、この俺が毎日子どもの世話に追われる始末だ」
「仕方がないわ。お父様とお母様は誰もが羨むほど仲睦まじいご夫婦ですもの。二人のようになりたいと願う人たちの間で、今、恋愛結婚が流行りですのよ」
「子守ばっかりで、恋愛どころか息抜きもできやしない。いっそ、カルオロンにいるカイのところにでも移住するか……」
そう口にしたものの、テルウにはカルオロンへ向かう勇気などなかった。
カルオロン城の歴代皇帝陵に刻まれたジェシーアンとシュウの名。その皇帝陵を間近に感じるだけで、テルウの胸には敗北感だけでなく、ジェシーアンを失った深い悲しみが容赦なく押し寄せてくるのは目に見えている。
「……ちょっと、今また誰か別の女の人のことを考えてたでしょ?」
テルウの胸中にあるわだかまりを敏感に察したミラは、突如怒り出し、そのままテルウの腹の上で勢いよく暴れ始めた。
「ぐふっ……!? おい、ミラ! 腹の上で暴れるな!!」
「だめ! ほかの人のこと考えちゃだめ! 私はテルウのお嫁さんになるってもう決めてるんだから!」
「冗談もほどほどにしろ。俺はお前の母親と同い年だぞ。ついこの間までおしめをしてたガキと、誰が結婚するか!」
ミラは小さな手でぽかぽかとテルウの胸倉を叩き始めた。その小さな拳から繰り出される意外にも手加減なしの力強さに、テルウはすっかり圧倒されてしまっていた。
「テルウひどい! 無事に帰ってきたら一緒になるって、あのとき約束したのに! だからその時は、手首に巻きつけている紐で、もう一度私の髪を結んでほしいの!!」
「はあ!? お前、一体何の話をしてるんだ……?」
理解が追いつかず、テルウの思考は混乱した。
その約束をしたのはジェシーアンとの最期の会話。数年前に生まれたミラが知るはずのない会話である。
ジェシーアンは弟の仇を討ちに行き、二度と戻ることなくそのまま逝ってしまった。
テルウの心は、あの場所に置き去りにされたまま動くことはなく、ただ虚しさだけが深く残り続けている。
誰かと一夜を共に過ごそうとも、その胸の奥に空いた穴が埋められることは決してなかった。
だが、もし―――
この状況を憐れんだジェシーアンの魂が、別の姿。すなわちミラとしてこの世に転生したのだとしたら……。
そんな考えが、ふと頭を過ったのだ。
「ちょっと、テルウ、どうしたの? 食べ過ぎでお腹が痛いの?」
ミラの不安げな声が耳に届き、はっと我に返ると、頬を伝う涙がいつの間にか止めどなく溢れ出していた。
もう二度と叶うことはないと諦めていた、遠い昔の恋心――。
そして今、それがミラを介して新たな形で実を結ぶかもしれない。そう思った瞬間、彼の胸に湧き上がった感情は、言葉では到底言い尽くせないものだった。
テルウはまるで小さなたからものを手にするように、そっとミラを抱き上げた。
「お前、いくつになった?」
「六つよ」
ちょうど、あの従者がシキと出会った頃と同じ年頃。
翠の瞳と透き通るような白い肌。その繊細な美しさは、母親をも凌ぐかもしれない。
父親に似ているところと言えば、せいぜい髪色くらいだろう。
「よし、決めた!! あと十年待ってやる。その間に母さんを超えるいい女になれよ。まあ、問題は、お前の父さんが許すかどうかだな。あいつ、お前を溺愛してるからな」
(非の打ち所のない女性が、自分の手の中で美しく花開くのは男としてこの上ない喜びだとは思わないか?)
あの従者がシキを大陸一の淑女へと育て上げたように、テルウもまた、ミラと共に新たな道を歩み出そうとしていたのである。