歓喜の一匙
俺は黒木圭介、大学2年生。彼女も友達もいて、平凡だけど悪くない毎日を過ごしていた。
あのゼミに入ったのは、ただの好奇心からだった。
桐谷教授の研究テーマ――「旨味の奥にある新たな味覚の創出」という、どこかSFじみた響きが面白そうに感じたからだ。
美咲とは同じサークルで、ゼミも一緒に選ぼうと約束していた。自然な流れで、そのまま俺たちは桐谷ゼミへと進んだ。
ゼミを指導する桐谷教授は、四十代前半には到底見えないほど若々しく、どこか不思議な魅力を放っていた。
シャープなスーツの上に白衣を羽織り、黒縁眼鏡の奥の瞳が静かに光っていた。無造作に流れる髪が、その若々しさをより際立たせていた。
その存在には、妙な色気と威圧感があった。
この大学だけでなく、世界的にも名の知れた天才――そう言われるのも頷けた。
「君たちが未来の味覚を創るんだ」
低く、静かな声。けれど、その言葉は妙に耳に残り、まるで心の奥をくすぐるように響いた。
ーーー
ゼミの最初の数週間は、至って普通の研究だった。舌の構造、味蕾の反応、温度変化による味覚の錯覚。レポートはやたらと多かったけれど、内容は興味深くて、美咲も楽しそうだった。
「サンプルができたよ。試してごらん」
そう言って出された赤みがかったスープは、ひと口飲んだ瞬間、全身に電流が走った。
甘さ、酸味、ほのかな苦味が一体となって、深い旨味が口の中に広がった。
なにより、どこか懐かしかった。
飲み終えた後、俺も美咲も、しばらく言葉を失っていた。
「すごい……このスープのコク……」
「……ジューシーすぎる……何の肉?」
教授は満足そうに微笑んだ。
「トマトのグルタミン酸、そして肉のイノシン酸。こうしたものを数値化して掛け合わせると、旨味は何倍にも膨らむんだよ」
その説明を聞いたとき、俺は思った――この人は、本物の天才だ。トマトや肉で、あんな深みを出せるなんて……
だが同時に、あの“味”には、説明のつかない何かが隠されていた。
俺たちはその味に取り憑かれたかのように、研究を深めていった。
――それは、自分が“選ばれた存在”だと信じるように。
だが、ある週から、ゼミの空気が少しずつ変わり始めた。
「……あれ? 高橋、今日来てないの?」
「うん。体調崩したって」
「小野寺もいないね」
「実家の都合らしいよ」
ゼミ生が一人、また一人と、静かに姿を消していった。最後に見かけた高橋は、舌を気にして何度も口の中を擦っていた。
最初は誰も気に留めなかった。けれど、“連絡がつかない”という声が増えていった頃には、誰もその話題に触れなくなっていた。
それでも、教授だけはいつも通りだった。
まるで何も異常が起きていないかのように。
ーーー
あのスープを口にしてから、俺の感覚は、どこかおかしくなっていた。
舌の奥に残る、微かな甘み。
頭の内側にこびりつくような余韻。
……それはもはや“味”ではなく、記憶に近いものだった。
心の奥に沈んでいた何か――
幼い日の幸福、母のぬくもり、初恋の面影――そして美咲の笑顔。それらが、ひと匙に詰まっていた。奇跡としか思えない味だった。
だが、それは終わりの始まりだった。
その夜から、夢を見るようになった。
暗闇の中に、無数の舌が蠢いていた。
粘ついた音、湿った膜をこする音。
遠くで、誰かがすすり泣いている。
何かが、俺の身体の内側から、ゆっくりと舐め回していた。
目を覚ますと、ベッドは汗でびっしょりと濡れていた。
ーーー
次のゼミの日。美咲は来なかった。
LINEは既読がつかず、電話も繋がらない。
バイト先に問い合わせても、「数日前から来ていない」とのことだった。
そんなはずはない。
前日まで、普通に連絡を取っていた。
「最近ちょっと体調変だけど、大丈夫だよ」
そう笑っていた声が、耳の奥にこびりついて離れない。
不安に駆られ、俺はゼミを休み、美咲のアパートへと足を向けた。何度呼び鈴を鳴らしても応答はなく、管理人に頼んで中を確認してもらった。
部屋は、きれいに片付いていた。
ただ、机の上に一枚のメモが置かれていた。
「あの味の奥に、なにかいる。」
間違いなく美咲の文字だった。
ーーー
その日の夕方、俺はゼミ室に忍び込んだ。
室内には、大音量のクラシックが流れていた。
まるで“何か”を掻き消すように。
教授の机の引き出しを開けると、重厚な研究ノートが出てきた。
ページをめくるたび、喉が渇き、指先が冷えていく。
『味覚は、精神を支配する』
『構成要素の融合により、幸福と狂気は共存する』
『私は、ようやく“扉の向こう”にたどり着いた』
『これこそが、全ての原点だ』
『私の研究は完成した』
ページの端には、見覚えのある名前が並んでいた。
高橋、小野寺、杉山――そして、美咲。
そして、最後にこう記されていた。
『学生達には感謝している――』
……その瞬間、俺はスープの正体に気づき、吐き気が込み上げてきた。
ふと――
背後に気配を感じた。
ゆっくりと振り返る。
そこに、桐谷教授が立っていた。
「――あぁ、来てくれたのか……黒木君」
今になって、背後で鳴り響いていたクラシックの旋律がはっきりと耳に届く。
それは、ベートーヴェン。
――交響曲第九番「歓喜の歌」。
教授の口元が、音楽と同調するようにゆっくりと歪んだ。
それは、人間の笑顔ではなかった。
感情の欠けた皮膚が、何か異物に操られているように、ただ形だけをなぞっていた。
「――君たちが未来の味覚を創るんだ」
今思えば、あの言葉の意味を――
俺は、決定的に履き違えていたんだ。
「……フ……フフ……、フッ……ハ……ハハ……」
「ハハハハハッ……ッハッ、ヒッハハッヒ、ハハハハハハッハハァッ……」
教授は、高らかに笑った。
声にならない、乾いた音が俺の耳に木霊した――
――その瞬間、逃げられない事を悟った。
「歓喜の歌」は続いている。
完成した研究を、祝福するかのように。
「君は……どんな味かな――」