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国葬(後編)

11.

 翌日の行事は滞りなく進み、靖国神社を参拝した後、一行は十五時過ぎにホテルへ戻った。ロビーではドイツ大使館の秘書官、パウル・ベルガーがシュミットを待っていた。ベルガーは「小さい」という意味のパウルという名に反し、筋骨隆々とした大男だった。


「弔辞の草案をお持ちしました。」

 ベルガーはシュミットを見つけ、軽く頭を下げながら言った。シュミットは橘と伊達にベルガーを大使館の秘書官だと紹介し、打ち合わせのため自室へ向かった。通訳は不要のため、橘と伊達は別室で休憩。河村は引き続きシュミットの部屋の前で護衛任務を続けた。


 部屋に入る際、ベルガーが持参した書類が一枚、はらりと床に落ちた。河村がそれを拾い、丁寧にベルガーに渡した。

「ダンケ シェーン(ありがとうございます)」 

 ベルガーは感じの良い笑顔で書類を受け取り、ドアを静かに閉めた。河村も同じくらい優しい微笑みを浮かべていた。ドアが閉まるまでは。

──書類の文字、あのメモと同じ。秘書官の文字だろう。


 河村は急いで紙に何かを書きつけ、橘と伊達がいる部屋をノックした。

「すまないが、二階の会議室に行って交代の者を呼んできて欲しい。」

 河村の声を聞き、伊達が顔を出した。

「この紙を渡してくれれば通じる。」

 河村が差し出した紙には、シュミット少将の護衛を交代してほしい旨と河村の名前が記されていた。河村の焦った様子を見た伊達は「分かった」と答え、部屋に戻ってジャケットを羽織った。


12.

 しばらくして、交代の者と一緒に伊達が四階に戻ってきた。河村は伊達に礼を述べ、交代の護衛に秘書官が退出するか異変があればすぐに自分を呼ぶよう頼み、橘と伊達の部屋に入った。橘はソファにもたれ、目を閉じてうとうとしていた。


「さすがに話してもらおうか。」

 伊達が静かに言った。河村は軽く頷き、宝塚劇場で拾った暗号のメモとその内容、秘書官のベルガーが落とした書類の文字がメモの筆跡と一致していたことを伝えた。


「これが何を意味するかはわからないが、秘書官が何か知っている可能性が高い。これから彼を尾行するつもりだ。」

 河村がそう言い終わった瞬間、部屋の扉がノックされた。

「秘書官が部屋を出ました。」

 護衛官の声が静かな部屋に響いた。


「ついでにこのジャケットを貸してくれ。」

 河村は軍帽と制服の上着を脱ぎ捨て、伊達のジャケットに手をかけた。白地の海軍軍服は尾行には目立ち過ぎるが、脱いだままではショルダーホルスターと拳銃が見えてしまう。河村は部屋を出て、急いでジャケットを羽織った。

「気をつけて行けよ。」

 伊達の声が背後から聞こえた。


 ベルガーはホテルを出てそのままドイツ大使館に戻り、河村は物陰で息を殺して退勤を待った。伊達から借りたジャケットは少しきつかったが、裾が長めのおかげで拳銃はしっかりと隠せていた。


 仕事を終えたベルガーが大使館から出てきたのは十九時過ぎだった。巨躯の背を丸め、人目を避けるように辺りを伺いながら、永田町から桜田門へと下った。そしてベルガーは薄暗くなりかけた内堀沿いの道を日比谷方面へ向かった。河村は街路樹に身を隠し、足音を殺して慎重に後を追った。


 ベルガーは日比谷堀にかかる祝田橋を半ばまで渡ると、周囲を警戒するように立ち止まった。河村は橋の先を見やると、帝国ホテルが目と鼻の先にあるのに気づいた。


 橋の向こうから、汚れた作業着に無精ひげの中年男性が現れ、ベルガーに声をかけた。ベルガーは男と人目を避けるように濠を覗きながらしばらく話し、茶色の封筒のようなものを渡した。男は封筒をちらりと開けて中を確かめ、来た方向へ去っていった。


 ベルガーは橋の上に残り、考え込むように濠を眺めていた。男が消えるのを待って、河村は近づきながら声をかけた。

「グーテン アーベント(今晩は。)」

 ベルガーの肩がびくりとし、顔が強張った。

「誰と会っていた?」

 河村の声は落ち着いていたが、右手はホルスターの拳銃を握っていた。ベルガーは無言だった。


「誰と会っていた?」

 河村は語気を強めて畳みかけた。その時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。

「河村、ちょっと待て。シュミット少将から事情を聞いてきた。撃つなよ!」

 息を切らせて現れたのは橘だった。


13.

「とにかくシュミット少将から話を聞いてくれ。」と橘に説得され、河村はベルガーを連れてホテルに戻った。ベルガーは黙って従った。


 部屋に入った瞬間、シュミットが申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

「宝塚のメモも私がベルガーに置くよう頼んだものだ。祝田橋での取引も私が彼に指示した。」

 シュミットは目を伏せて言った。

 

 河村は動揺を悟られないよう、一呼吸置いて尋ねた。

「一体どういうことですか。」

 部屋を重い沈黙が包んだが、シュミットが意を決したように話し始めた。

「亡命だ。」

 シュミットの手はわずかに震えていた。


「亡命であれば、なぜこのようなメモを。」

 河村は静かに尋ねた。

「当局に追われないよう、死んだことにしたかった。明日、祝田橋で撃たれ堀に落ちたように見せかける予定だった。それに……」

 シュミットはそこで言葉を切った。


 再び沈黙が訪れた。口を開いたのは伊達だった。

「日本とドイツ、いや日本とナチス政権の間に亀裂を入れたかった。違いますか?」

 伊達の言葉に少将は驚いた顔をし、大きく頷いた。

「ナチスと手を結ぶ国を一つでも減らしたかった。あれは力を持つのにふさわしい人間ではない。」

 シュミットの目は真剣だった。


「ドクトルは見逃してはくれないだろね。」 

 シュミットが河村の方を向いた。

「ええ、国の威信に関わることですから。」

 河村は抑揚のない声で答えた。

「報告するなとは言わない。ただ、ベルガーのことは秘密にしてくれ。彼は私に脅されただけだ。」

 シュミットは深く頭を下げた。


「脅されてはいません。自分の意思です。少将は私の兄の恩人です。先の大戦で負傷した兄を、上司の命令を無視して背負って帰ったのはシュミット少将でした。」

 これまで沈黙を保っていたベルガーが突然口を開いた。声が震えていた。


 伊達は何も言わずに河村を見つめた。

「なぁ、河村……」

 橘がおずおずと話しかけた。


 河村は深く息を吸い、目を閉じた。

「何も起こらなければ、私の報告書は『異常なし』です。今夜はもうお休みください。」

 河村は踵を返し、部屋を出た。続いて伊達が部屋を出し、慌てて橘が続いた。



14.

「河村、お前いい奴だな。」

 自室に戻るなり、橘が嬉しそうに言った。

「いい奴ついでに三十円貸してくれないか?質の期限が明日なんだ。明日忙しくて行けないと質草流れちまうし。」

 伊達がじろりと橘を睨んだ。


「やっぱりいいわ。アパートひっくり返せばたぶんあるし。というわけで俺、ちょっと抜ける。」

 橘は肩をすくめた。

「明日には返せ。」

 伊達が財布から10円札を3枚取り出した。

「さすが、伊達教授。」

 橘はうやうやしく札を受け取り、軽く手を振って走るように部屋を出ていった。


「明日が国葬の本番だ。私たちは早く休んだ方がいい。シャワーを先に使っていいか?」

 伊達の問いに河村が頷いた。


 結局、橘が帰ってきたのは深夜だった。橘は上機嫌で部屋に入り、風呂も入らずベッドに潜り込んだ。


15.

 翌日の6月5日、東郷平八郎元帥の国葬が日比谷公園内の特設会場で行われた。台車に乗せられた棺には白布がかかり、麹町の自宅から儀仗兵や士官に囲まれ、通りをゆっくり進んだ。


 夏日に近い暑さにもかかわらず、沿道には、元帥との最後の別れを惜しむ数万の市民が詰めかけていた。誰もが軍神への追悼を胸に無言で棺を見送った。


 葬儀には大日本帝国海軍関係者の他、政府高官、華族らに加えて各国の外交団、軍関係者らも多数参列していた。河村、伊達、橘はシュミットと共に帝国ホテルから徒歩で日比谷公園へ向かった。


 伊達は華族として参列するため、モーニングにシルクハット、白手袋を着用していた。橘は参列せず、外務省の臨時職員として待機するため、黒のスーツとネクタイで喪服に近い格好をしている。


 河村はシュミットを国外来賓席に送った後、警備に就くため濃紺の詰襟制服を着用していた。左胸には儀礼用の略綬が二段に整然と並び、腰には儀礼用の短剣が差されていた。

「くれぐれも早まったことは、なされぬように。」

 シュミットとの別れ際、河村は一言残し群衆の中へ消えていった。


 伊達も一礼をして華族席の末席へ歩んだ。

「じゃ、また後で。」

 葬儀ゆえに橘は小さな声でシュミットに挨拶し、待機場所へ向かった。


 日比谷公園の周りは数万の群衆で埋め尽くされていた。その最前列、祝田橋に面した場所に、河村少佐が立っていた。


 日差しを吸い込む深い藍色の制服の下には汗がにじみ、首筋を伝って背中を濡らしていたが、河村は姿勢を崩さず視線を群衆に走らせた。黙祷の瞬間も目を閉じず、あやしい動きがないか監視を続けた。式の間、神経を張り詰めていた。


 やがて式典が終わり、群衆が散り始めた後も、河村はその場からしばらく動けなかった。何事もなかった……。ようやく河村は制帽を脱ぐと胸に手を当て、祭壇があった方向に頭を下げた。


 

16.

 河村がシュミットを帝国ホテルに送るため待機場所の広場に行くと、先に到着した伊達がいた。

「橘は待たなくていいんじゃないか?勝手に来るだろう。」

 河村は伊達の言葉に吹き出しそうになったが、最後まで気を抜かないよう笑いをこらえた。

「ヘル ドクトル、心配しなくてもきちんとホテルに帰ります。濠沿いではなく内側を通りましょう。そうすれば祝田橋は通りません。」

 シュミットは河村を見て言った。

「そうしていただけると助かります。」

 河村はシュミットの左に回って付き添った。伊達が河村を補助するように右についた。


 帝国ホテルまで数分の道をゆっくり歩くと、後ろから橘の声がした。

「置いて行くのはひどくないか?」

 走ってくる橘は上着を小脇に抱え、ネクタイはもう緩んでいた。


「なあ、河村。少将閣下と銀座のビアホールに行ったらだめか?今日は暑かったし。」

 橘はネクタイをさらに緩め、手で扇ぎだした。

「だめです。明日の帰国までホテルにいてください。」

 河村はぴしゃりと言い放った。

「ホテルのレストランならいいか?どうせ夕食を食べるんだ。そこでビールを飲んでもいいだろう。」

「それを止める権利は私にはありませんよ。」 

 河村の返事を聞いた橘はご機嫌に乾杯の歌を口ずさみ始めた。


「アイン プロージット、アイン プロージット。実は昨日賭場で少し儲けてね。これでハンス兄ちゃんに飯を奢れるよ。」

 伊達が唖然とした目で橘を見ていた。

「橘、昨日あれから賭場に行ったのか!?」

 そこでシュミットが口を挟んだ。

「ヘル タチバナは何と言っているのだ?」

 伊達は咳払いをした。

「今日は暑かったので、幼い頃お世話になった閣下にビールを奢りたいと。」

「それはうれしい。」

 シュミットは目を細めながら答えた。


17.

 部屋に帰ると、シュミットはまずクローゼットを開けて小さなかばんを取り出し、中身を河村に差し出した。

「これは、血糊袋と雷管ですか?」

 河村は袋を指で軽く押さえて尋ねた。

「ああ、雷管の安全ピンを抜いて衝撃を与えると爆発して血糊が飛び散る。葬儀の帰り祝田橋でこれを使うつもりだった。雷管の爆発音は銃撃に聞こえる。」

 シュミットは狙撃されたように見せかけて堀に落ち、仲介役と落ち合う予定だったと説明した。


「ドクトルにばれたから中止にしたが、あの群衆と水深を考えればやめて正解だったかもしれない。前金はむだになったがな。」

 シュミットの声には少し自嘲が混ざっていた。

「ちなみに前金はいくら?」

 橘が興味深そうに尋ねた。

「そうだな。中古のベンツが買えたな。」

 シュミットの答えを聞いた橘は驚いた顔をした後、

「まあ、ビール分は慰めましょう。」

 と胸を叩いた。


「レストランでも護衛をさせていただきますので、着替えだけさせて下さい。」

 河村は部屋に戻ろうとして身体の向きを変えた瞬間、壁に手をついた。連日の緊張と、今日の暑さが河村の気力と体力を削ぎ取っていた。

「見張り交代すれば?」

 橘が軽い口調で言った。

「見張りでなく護衛です。」

 河村は腕時計を確認した。

「交代時間にはまだ少しありますが、体調を考えると変わった方が良さそうですね。戻ってくるまでは部屋に居て下さい。」

 河村は交代要員を連れてくるため部屋を出た。


 十数分後に若い大尉を連れて河村が戻ってきた時、三人は礼服やスーツを脱ぎ普段着に着替えていた。

「今夜は宿舎に戻ります。元々通いの予定でしたし。また明日よろしくお願いします。」

 河村はシュミットに敬礼をし帰途についた。手にはシュミットから受け取った雷管入りのかばんが握られていた。


 河村は帰り道でサイダーを買った。家に入るとすぐに栓を抜き、コップに移さずそのまま瓶に口をつけた。砂糖の甘さが全身に広がり、疲れが少し和らいだ。

「はぁ、うめぇな。」

 河村は長い一日を終え、ここで初めて肩の力を抜いた。

 上着を脱ぎ捨て、シャツ一枚になり畳の上で大の字になる。銭湯で汗を流したかったが、動く気になれなかった。「よし」と小さくつぶやいた瞬間、黒電話がけたたましく鳴った。急いで出ると相手は先程交代した大尉だった。


「シュミット少将が姿を消しました。」


 河村がホテルに戻ると、ロビーに大尉がいた。

「ドイツ大使館から連絡がありました。シュミット少将が英国大使館に入った。つまり、亡命です。」


 河村は「やられた」と思ったが、同時にほっとした気持ちも抱いた。失態ではあるが、暗殺事件は起こらず、少将個人の亡命なら国家の名誉に傷はつかない。少将の亡命の意思を知りながら、自分がそれを隠していた河村は大尉を責める気にはなれなかった。


「責任は私が取る。」

 河村は大尉の肩を軽く叩き、橘と伊達が待っている部屋へと向かった。


 その頃、二人が待機する部屋では橘が伊達に話しかけていた。

「一緒に謝ってくれるか?」

「誰にだ?」

「兄貴、それに河村に。」


 伊達は眼鏡を外してテーブルに置き、静かに話を聞いた。

「昨日、賭場には行ってない。質屋には行った。ただ、質入れにだ。祖父の形見の金時計で千円借りた。利子が膨らむ前に返したいから、兄貴に頭を下げようと思う。」

「その後はどこ行った?」

 伊達は落ち着いた声で尋ねた。


「英国大使館。少将をそのまま帰国させたくなかったんだ。」

 橘はバツが悪そうに笑った。


「金時計を担保に千円は貸そう。たまに変わった時計も悪くはない。」

 伊達はため息混じりに答えた。橘が顔を上げる。伊達はそのまま言葉を続けた。

「河村には自分で謝れ。側には居てやる。」

 丁度その時、部屋の扉がノックされた。おそらく河村だろう。


「河村、話したいことがあるんだ。」

 そう言いながら橘はドアを開けた。

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