初詣(前編)
1.
昭和9年1月6日、正月に初詣の都合がつかなかった海軍少佐、河村学は神田明神で友人の橘薫と伊達政弘を待っていた。まだまだ松の内のため参拝客は多いものの、三が日であった去年と比べて人出はやや少なく感じられた。去年のことを少し気にして、河村は鳥居の内側の邪魔にならない場所で二人を待っていた。
「伊達さんがいるから大丈夫だと思ったんですけどね。」
河村は独り言を漏らしつつ腕時計を確かめた。時刻はすでに待ち合わせを二十分過ぎていた。このまま待つか露天を巡るか迷っていたところに、橘と伊達が姿を見せた。
「河村、明けましておめでとう。」
橘がポケットに手を入れたまま屈託のない笑顔で新年の挨拶をした。
「すまん、かなり余裕を持って橘のアパートに行ったんだが、起こすのに時間がかかってしまってな。」
伊達が橘の方を見ながら言った。河村はくすりと笑い、
「去年の半分の待ち時間です。それに今年は変な子どもにも、稲……」
まで言ったところで背後から澄んだ女性の声がした。
「変な子にも、変な稲葉さんにも会わずにすむ予定が、ごめんなさいね。」
振り返るとそこには稲葉美月がいた。美月は去年の和装と違い、紺色のワンピースに茶色のケープを羽織っていたが、右腕に副え木が当てられ、三角巾で吊られた状態であった。
「転んで腕を折ってしまいましたの。」
美月の方を見ながら、軍医で専門が整形外科である河村は── 肘が固定されていて、体側に寄せられている。おそらく上腕の骨幹部だろうが……。普通に転んで折れるような場所ではないなと思った。
美月は険しい目つきの河村を見て、伊達と橘に見えないようそっと左手の人差し指を立てて口に当て「秘密」のポーズをとった。
「この後のご予定は?」
美月はそっと左手を戻した後に、三人に聞いた。
「お参りした後はまだ未定。河村がカフェ巡りって言うと予想してるんだがね。」
橘がおどけたように言った。
「一緒に行きますか?」
河村が聞くと、
「ご迷惑でなければ喜んで。」
美月は嬉しそうに答えた。伊達は頭をかいて少し視線を逸らしていた。そんな伊達の様子を見た橘はニヤリと笑い、
「俺、ちょっと用事思い出したわ。河村と置屋に行くんだったわ。」
と言いながら、河村の手を引っ張って参道の外へと走って行った。
河村は前につんのめるような姿勢で橘に手を引かれ、二人から離れた。
「置屋になんていきませんよ。」
憮然とした表情で言う河村を見て、橘は
「俺も行かないよ。というか伊達の顔見て気づかなかったわけ? 河村、鈍いな。」
と楽しそうに言った。
男二人でカフェは気まずいと感じた橘は、河村を東京秘密倶楽部に誘った。時間はまだ夕方だったが、土曜日である本日ならもう営業しているはずだ。
2.
橘と河村が倶楽部に着いた時、正月だからか、あるいは早い時間だからか、他の会員の姿はなかった。神田明神から歩いて来たため、二人の身体は冷え切っていた。カウンターに座ると、橘はコーヒーを、河村はココアを頼んだ。
「そういえば河村、チェス覚えたいって言ってなかったっけ?」
河村が頷くと、橘は棚からチェス盤を取り出してカウンターの上に置いた。
「河村、将棋はできるか?」
「まぁ、それなりには。」
「それなら話が早い。」
橘はルークをつまみあげた。
「これ飛車な。」
「歩じゃなくて、いきなり飛車から説明なんですか?」
そう聞いた河村に、橘が
「歩にあたるポーンはちょっとややこしいのよ。」
と言ったとき、ギィと音をたてて、倶楽部の入り口の扉が開いた。
そこには明るくお調子者の田中が立っていたが、いつもと違い青い顔をしていた。田中は橘と河村を見るなり、震えながら言った。
「助けてください。私、呪い殺されるかもしれません。」
「まぁ、あったかいものでも飲んで、落ち着いて話そうか。田中さん、コーヒー派だったよな。」
橘がボーイにホットを一つ頼んだ。河村は椅子を一つずれて座り直し、自分と橘の間に田中が座れるようにした。
コーヒーを飲んだ田中は少し落ち着いたように見えたが、まだやや青ざめた顔で二人に一昨日の出来事を話し始めた。
「丑の刻参りを見てしまったんですよ。」
田中は三が日が明けてすぐの、造り酒屋の集まりの帰り、近道をするために通った自宅近くの神社で、白い着物で頭に鉄輪と蝋燭をつけて古木に藁人形を打ちつける女を見てしまったと語った。
「慌てて逃げようとしたら、気づかれまして。女が鬼のような形相で追ってきたんです。どうにか振り切って家に帰りましたが。」
田中はその時のことを思い出したのか、ブルブルと震え始めた。
「丑の刻参りって、見られた方が死ぬって話を聞いたことがあるけども。」
橘が小さく手を挙げて言った。
「私が聞いたのは、見られたら効力が無くなるって話でした。」
河村が続けた。
「伊達が一番詳しいのにねぇ。」
橘が苦笑した。
「見られたから、相手を殺すなんてことはないですよね。」
オカルト話が好きな田中だが、子供が生まれて慎重になったのか、それともその女の形相がよほど恐ろしかったのか、まだ怯えた様子であった。
「そんなに気にしなくても大丈夫だと思いますよ。今日は送っていきましょうか?」
河村が田中に聞いた。田中はほっとした様子になった。
「ではぜひ、うちの荒ばしりを飲んでいってください。」
橘が河村を見ると、河村は細い目をさらに細くして喜んでいた。
3.
家に着くと、田中の妻が出迎えてくれたが、どこか顔色がすぐれなかった。
「急にお邪魔してすみませんでした。お忙しいようでしたら、私たちはこれで失礼します。」
河村が田中に言うのを聞いた妻は、慌てて
「違うんです。」
と片手を振った後、田中の方を見た。
「まずはお二人を客間にお通しして。」
田中は女中を呼んで橘と河村を案内させることにし、そのまま玄関で妻と話すことにした。
「田中、なかなか来ないな。」
客間では橘が待ちくたびれた様子を見せていた。河村は茶請けの岩おこしを食べながら、
「これ美味いですよ。特に予定もないですし、いいじゃないですか。」
と茶をすすった。
しばらくして二人の前に現れた田中の顔色は、倶楽部で見た時よりもさらに青かった。「これを見てください。」
田中が橘に渡したのは、差出人が無い封書で、中を見ると真っ赤な文字で
『今年の酒は呪われている。』
と書かれていた。
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