研究室(前編)
1.
10月初旬のある夜、帝国大学理学部教授 伊達政弘は特殊な方法で硫酸銅を作る実験をしていた。その実験は実は助教授の杉下の研究だったが、彼が風邪をこじらせて寝込んだため、伊達が代わりに引き受けていた。
杉下は材料とレシピを用意済みだった。
「講師か大学院生に頼んでください。」
杉下は電話口で咳き込みながら提案したが、伊達は実験の内容を踏まえて返事をした。
「いや、二酸化硫黄を使うなら危険が伴う。夜は時間があるから私が作ろう。」
通常、硫酸銅の合成は金属銅と濃硫酸を加熱する方法や酸化銅と希硫酸の反応法で行われ、触媒を必要としない。
しかし、この実験では粒度を揃えた硫酸銅を合成するため、ガスである二酸化硫黄と粒度を決める金属銅を反応させる特殊な方法を用いており、その触媒として二酸化マンガンを銅表面に担持させる手法をとっていた。
伊達はこれまでの実験結果と手順を確認し、「これまでのデータをつなぐ実験だから、大きな問題はないだろう。」
と考え、作業を開始した。
2.
杉下が用意した試薬瓶には物質名と記録用の番号のみが手書きで貼られていた。
「金属銅は粒度毎に分けられているのか。今回の実験で使う銅を間違えないようにしなければな。」
伊達は試薬瓶を慎重に選び、そこから銅の粒子を天秤で量りとった。そして、その銅の粒子をガラスの器具で組まれた密閉された空間に投入した。
その後、念入りにコックや流量計を点検し異常がないことを確認した。後は触媒の用意だけだと、二酸化マンガンを目分量ですくい取り、秤に載せようとした。
3.
「伊達も河村も倶楽部に来ねぇから、遊びに来たぞ!」
その時、背後からと明るい声が響いた。振り向くと、そこには十年来の腐れ縁である橘薫が手をひらひらと振って立っていた。
「何しに来たんだ……」
橘に言った後、秤に向き直って触媒を載せた伊達は、首を傾げてつぶやいた。
「思ったより少ないな。」
目分量がずれることはあまりないのだが、橘のせいかと思いながら、薬匙で追加分を載せた。
伊達の計量作業が一区切りしたところで、
「実験見てて良いか?」
橘が伊達に声をかけた。
「装置には近づくな。」
伊達は特に問題はないと考え、橘の方を見てそう答えてから、実験を開始した。
4.
二酸化硫黄のバルブをひねると反応が始まり、銅が少しずつ変色し始めた。実験開始から数分後、伊達は反応の進み具合を確認するため設置した温度計の上昇が予想以上に急激なことに気づいた。
─流量を間違えたのか? このままでは容器が破裂する危険がある……。
「すぐに部屋の外に出ろ!」
伊達は叫びながら急いでバルブを閉じたが、反応は進み、その熱で容器が割れて内容物が飛び散った。
幸い距離があったことと、伊達が眼鏡を着用していたおかげで、大事には至らなかった。
伊達はため息をつきながら窓とドアを開けた。
「派手な実験だな!」
橘が実験室に入ってきた。
「どうでもいいが、ガラスは拾うなよ。」
伊達は橘に告げた。
「手を切ったりはしないぜ。」
橘は憮然として言う。
「反応しきれず残った二酸化硫黄ガスが残っていたら厄介だからな。まぁ、下に溜まるからしゃがまなければ大丈夫だ。」
伊達は軽く首を振った。
「どんなガスなんだよ?」
「吸い込むと最悪死ぬ。」
「それは大丈夫と言わない…」
橘は肩をすくめた。
5.
橘を休憩室に追い出し、実験室を片付けた後、伊達は失敗の原因を考え始めた。使用した材料に取り違いが無いかラベルを確認したが間違いはなく、残量の記録も正確に一致していた。流量計の不具合も疑い確認したところ、こちらも正常だった。
瓶の中身と物質が違う可能性も考えたが、反応後の物質は狙った成分となっており、成分分析でそれぞれの物質自体はラベルの物と同じ物と確認できた。銅の粒度も間違いが無かった。
杉下のレシピの間違いについて考えた結果も、過去のデータで今回の条件より反応性が高いものは実験済みである。
それぞれの材料の成分に間違いはなし、手順書きにも誤りはない。何かに細工をしたとすると……。伊達は準備段階を思い出して
「なるほどな。」
とつぶやいた。
これは偶然の事故ではなく、おそらく故意によるものだろうと考え、手口もおおよそ見当がついた。一体誰が誰を狙って何のために?
今回、事故に巻き込まれたのは伊達だったが、本来なら助教授の杉下の実験である。杉下が伊達を狙った可能性もあるが、そうなら真っ先に疑われるだろうし、伊達が実験を引き受ける可能性も低い。
狙われたのはおそらく……
前後編です。
トリックなどは工学博士がつくりました!
……夫です。




