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サーカス(中編)

3.

 支配人室は、倶楽部の奥にある重厚な扉の向こうに位置していた。室内は落ち着いた調度品でまとめられ、無言のうちにこの倶楽部の格式を物語っている。


 支配人は白髪交じりの初老の男で、その眼光にはどこか鋭さがあった。

「お呼び立てして失礼しました。」

 支配人が恭しく頭を下げた。


「話というのは何です?」

 橘が座りながら訊ねると、支配人は困惑と警戒の入り混じった顔つきで続けた。

「実は、近頃若い女性が行方不明になる事件が相次いでおりまして……」

 その声には重みがあった。


「この倶楽部の会員のお嬢様も巻き込まれたと聞いております。」

「興味深い話ですね。」

 伊達はそう言いながら、鋭い観察眼で支配人の表情をじっと見据えた。


 橘が煙草を一本取り出し、火を灯す。

「それで、俺たちに何をしろと?」

 支配人は重々しく答えた。

「何卒、この事件を解明していただきたいのです。警察に頼るのは難しい事情がありまして……」


「なるほどね。わかりましたよ。どうやら、このカードの引き手は悪くなかったようだ。」

 橘が笑みを浮かべながら立ち上がり、伊達も静かに腰を上げた。


4.

 数日間にわたり、橘は失踪した令嬢の足取りを追った。周囲の証言や家族の話を丹念に拾い上げたが、これといった手がかりは見つからなかった。失踪当夜、令嬢は自室で静かに読書をしていたとされ、その後、いつの間にか姿を消していた。


 駆け落ちのようなロマンティックな話もなく、家族や友人との関係も円満だったらしい。事件は一見して平穏無事な生活の中に不意に現れた裂け目のようだった。

捜査が行き詰まり、もはや手詰まりかと思われた矢先、東京魔術倶楽部の支配人から急報が入った。


「2人目の失踪者が出ました――」


 橘は伊達に連絡を入れ倶楽部に駆けつけた。失踪者の名を告げる支配人の声は緊張に満ちていた。その名前を聞いた瞬間、橘と伊達はすぐにある出来事を思い出した。数日前、子ども達と共に足を運んだサーカスのショーで、人体消失マジックのゲストとして選ばれた女性の名前であった。


「夜に家を抜け出し、失踪したとのことです。」支配人の言葉に、伊達は橘と視線を交した。


 支配人から家族に問い合わせてもらった結果、

「1人目の令嬢も、サーカスに行ったことが分かりましたよ。」

 橘が、煙草を口に咥えながら呟いた。

「サーカスに何かがあるな。マジックのトリックじゃない、本物の『消失』ってやつかもしれない。」

 伊達も煙草を一本取り出す。

「確かめる必要があるな。しかし、失踪の原因を探るにはもっと具体的な手がかりが必要だ。」


 二人は相談の末、伊達の家で女中をしている新庄恵梨に協力を依頼することにした。彼女は元々、東京魔術倶楽部で働いていた経験があり、その優れた機転と聡明さで伊達家の信頼を得ていた。


「サーカスに行けと言うのですか?」

 恵梨は少し驚いた顔をしたが、伊達の落ち着いた説明を聞き終えると、ためらうことなく了承した。

「恵梨さんには、名家の令嬢のような装いをしていただきます。サーカスで人体消失マジックのゲストとして選ばれることを目標として下さい。」

 伊達が言うと、橘は恵梨を一瞥し、少し悪戯っぽく笑った。

「似合いそうだな。何なら、名家の令嬢として本当にデビューしてみるか?」

「冗談は結構です。」

 恵梨は少しツンとした口調で言い返した。


 伊達の指示のもと、恵梨は上品なドレスと真珠のネックレスで装い、洗練された貴族の娘そのものとなった。

「これはいい。サーカスの連中もまんまと騙されるだろう。」

軽く手をたたいて、橘も太鼓判を押した。


 その日も、煌びやかなライトに照らされたサーカスのテントは、幻想的な雰囲気に満ちていた。観客席には、好奇心に目を輝かせた子どもや大人が並び、空気には香ばしいポップコーンの匂いが漂っていた。


 橘と伊達は、恵梨を伴い、さりげなく一番値段が高い観客席に着いた。恵梨は他の観客に交じりながらも、どこか引き立つ存在感を放っていた。


 マジックショーが始まると、ステージ上のスポットライトが次々と輝きを変え、歓声と拍手が沸き起こる。


 そして、いよいよメインの演目――人体消失マジックが始まった。

「本日、我がショーの輝きを一層増してくださるのは――こちらのお嬢様です!」

 司会者が恵梨を指差した瞬間、観客席にどよめきが走り、その後拍手が沸き起こった。


 橘が小声で言った。

「予定通りだな。恵梨さん、大丈夫か?」

 恵梨は微かに頷き、ステージに上がった。ライトに照らされたその姿は、まさに貴族の令嬢のようだった。


 恵梨は、奇術師の指示に従い、大きな箱に入る。その扉が閉じられ、数分後――箱が開いたとき、そこに彼女の姿はなかった。会場が拍手喝采する中、橘は小声で呟いた。

「さて、どこへ消えた?」


 数分後、箱の中から再び現れた恵梨は笑顔を浮かべながら観客に手を振った。特に変わった様子はなく、すべてが順調に進んだように見えた。


 帰り道、伊達は恵梨に問いかけた。

「マジック中、何か異変を感じましたか?」

 恵梨は少し考え込んだ後、首を横に振った。

「特に何も。ただ、箱の中で一瞬だけ奇妙な光を見たような気がします。本当に一瞬だけです。」


 橘が、軽く息を吐いた。

「あまりに無傷だと、それはそれで気になる。次の手を考えないとな。」

 

 夜の冷たい風が、三人の周りを吹き抜けた。サーカスの謎は、さらに深い暗闇の中へと入り込んでいくようだった。


4.

 遡ること1時間前、人体消失マジックのゲストとして選ばれた恵梨の身に置きた出来事は、こうだった。

 大きな箱の中に入り、観客の歓声が外で響く中、その箱の内側は嘘のように静まり返り、薄暗闇が広がっていた。


 箱の中で待機している間、恵梨は特に異変を感じることなく落ち着いていた。しかし、突然、耳元で囁くような声が響いた。


「リラックスして、深呼吸をしてください。」


 その声は滑らかで、心地よい響きを持っていた。まるで全ての警戒心を溶かしてしまうかのような、不思議な魅力があった。恵梨は、導かれるまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「あなたは今、安全な場所にいます。何も心配はいりません。」


 その声がさらに続くにつれ、恵梨の意識は次第にぼんやりと霞み始めた。喧騒や緊張感が遠のいていき、柔らかい霧の中に吸い込まれるような感覚を覚えた。


「これから、あなたの心に一つの鍵をかけます。」


 その言葉はどこかぞっとするような威圧感を帯びていた。


「家に帰り、普段通りの生活を送ってください。そして、特定の言葉を聞いたとき、その鍵が解かれます。」


 恵梨の心は、不思議とその言葉に抗えず、声の響きがそのまま彼女の心に刻まれるように感じた。


「その言葉は、『月夜の舞踏会』。この言葉を聞いたら、夜の十時に、誰にも見つからず、再びここに戻ってきてください。」


 それが告げられた瞬間、内側につけられたライトがフラッシュのように輝いた。恵梨の意識はふっと断ち切られるように暗転し、気がつけば再び観客の前で拍手を受けていた。


5.

 恵梨は数日の間、何事もなかったかのように生活をしていた。しかし、ある日、何気ない会話の中で「月夜の舞踏会」という言葉を耳にした瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ虚ろになった。それは当時流行していた映画のタイトルだった。


 その夜、恵梨はいつも通りに挨拶をして部屋に引き下がると、静かに身支度を整え始めた。部屋を出る際には、ドアをそっと開ける音すら立てず、廊下を歩き始める。その動きは機械的で、まるで操り人形のようだった。


 だが、恵梨の異変を察知していた人物がいた。恵梨が何かに囚われている可能性を感じ取っていた伊達は、彼女の部屋のドアに細工を施し、開くと分かる仕掛けを作った。鈴が鳴る音を耳にした伊達は素早く準備を整え、彼女を尾行し始めた。


 恵梨の歩みは一定で、迷いがなかった。彼女はまっすぐにサーカスのテントへ向かっているようだった。伊達は冷静に距離を取りながら後を追った。


 やがてサーカスのテントが見えてきた。そのとき、伊達は入り口の少し手前で恵梨の肩を軽く叩いた。


「恵梨さん。」

 その一言で、恵梨はハッとしたように立ち止まり、振り返った。その顔には一瞬、戸惑いの表情が浮かび、それから驚愕の色が濃くなった。

「伊達先生……どうして?」

「自分がどこへ向かっているか、分かりますか?」

 伊達の低い声に、恵梨は自分の足元を見下ろした。そして、何かを思い出したかのように目を見開いた。

「……そうだわ。マジックの箱の中で……」

 彼女は震える声で語り始めた。箱の中で聞いた声、そして「月夜の舞踏会」という言葉の記憶が蘇る。

 

「催眠術だ。」

 伊達が短く言った。

「彼らはマジックを装って観客に暗示をかけている。おそらく、特定の条件下で再びサーカスに戻らせるために。」

「私は……操られていたのですね。」

 恵梨はその場に立ち尽くした。

「まずは戻るべきだ。真実を掴むのは、その後でいい。」


 伊達は恵梨と共にサーカスから離れ家へと急いだ。その背後には、ぼんやりと明かりが灯るテントが不気味にたたずんでいた。

前後編でおさまらず三部作です。

後編は、伊達先生の意外な特技が出てきます。


この頃は伊達先生贔屓してた気が。

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