ゴリラ(前編)
1.
「明日の日曜日、買い物を手伝っていただけませんか?」
帝大教授の伊達政弘に声をかけたのは、海軍少佐の河村学だった。
「知り合いに誕生日の贈り物をしたいのですが、どうにも選べなくて……」
そう言いながら、河村は少しばつが悪そうに頭をかく。
向こうでカード遊びに興じていた橘薫が、手元のカードから目を離さないまま片手を挙げた。
「俺も姪っ子のプレゼントを買いに行くから、手伝ってくれよ。」
伊達はため息をついて手帳を見やった。
「で、明日の昼飯はどうする?」
伊達は橘と河村に問いかけた。
2.
翌日の昼過ぎ、三人は松屋百貨店の前に集まった。 河村は部下の軍医への、橘は姪への贈り物を探すのが目的だ。
「姪の優子が今年、女子学習院に入ったんだけど……ああ、この前黒猫を抱いていたあの子ね。七歳の誕生日に何か贈ろうと思ってる。」
「なるほど。あの可愛らしいお嬢さんだな。図鑑などどうだ?」
伊達の提案に、橘は「図鑑かぁ……」という顔をした。
「では本屋から行きましょうか。」
河村がまとめ、三人は書籍売り場へ向かった。
売り場に着くと橘は動物図鑑を手に取り、ページをめくった。
「おっ、ゴリラだ。俺、昔ロンドンの動物園で見たことがある。大きな猿で、怪力なんだぜ。殴られたら何メートルも吹っ飛ぶと思う。」
「それは怖い生き物ですね……。」
河村が図鑑を覗き込んで言った。
書店内には理科の特設コーナーがあり、そこに顕微鏡が置かれていた。橘は興味を示したが、少し値が張る。
「伊達、半分出してくれないか?」
伊達は少し考え、
「いいぞ。」
と短く答えた。
「言ってみるもんだな。」
橘が愉快そうに笑った。
3.
次は河村の贈り物探しだ。
「相手が呼吸器内科の軍医なので、聴診器も考えたのですが、しっくりくるものがなくて……何がいいでしょう?」
「どんな人物なんだ?」
橘が尋ねる。
「そうですね……性格がねじ曲がっていて、私を嵌めようとする人ですね。」
「どうしてそんな奴に贈り物をするんだ?」
「まあ、いろいろあるんですよ。」
河村は苦笑した。
ネクタイや文房具などを見て回ったが、決め手に欠ける。そんな中、河村は銀製の薬入れに目を留めた。 鎖をつけてペンダントにできるタイプだ。「これにしよう」と決める。河村は口にはしなかったが、「毒薬を持ち運んでそうであるし」と心の中で思っていた。
4.
買い物を終えると、時刻はすでに午後四時を過ぎていた。
「築地に美味いたい焼き屋があるんです。買いに行きませんか?」
河村が提案する。 他にやることもないし、と二人は付き合うことにした。
三人は近道をしようと住宅街を通りぬける道を選んだ。並んで歩いていると突然、路地の奥から悲鳴が聞こえた。
「うわー! 誰か来てくれ!」
伊達たちは声のする方へ駆け寄る。そこには頭から血を流した男が倒れていた。傍らでは助けを呼んでいる男性が一人。
「どうしました?」
伊達が尋ねる。周囲の家々からも人が出てくる。
助けを呼んでいた男は狼狽しながら答えた。
「どさりと物音がしたので外へ出たら、この人が倒れていたんです……面識はありません。」
5.
河村は倒れている男を一瞥した。脈を取るまでもなく、死んでいるのは明らかだ。
……厄介ごとに巻き込まれたくないと、伊達に視線を送るが、「しっかりやってくれ」と言わんばかりの顔をしている。
「はいはい、分かりましたよ。」
河村は独り言を言いながらポケットから白い手袋を取り出して素早くはめた。そして男に近づき、手早く脈を取る。手袋越しにも冷たさが伝わる。死後、しばらく時間が経っているようだった。
ふと視線を上げると、民家の壁の二階あたりにべっとりと血糊がついていた。まだ乾ききっていない。
橘もそれに気づき、つぶやく。
「この場所に叩きつけられたのか? とても人間技とは思えない。もしかして……ゴリラか?」
場違いな発言に、伊達と河村は無言で顔を見合わせた——。




