降霊会
1.
都会の一角に佇む会員制クラブ「東京魔術倶楽部」は、その夜も特異な雰囲気を漂わせていた。洒落た調度品に囲まれたラウンジでは、葉巻の煙が揺れ、柔らかなランプの光が天井に影を描いている。
伊達政弘と橘薫は、いつもの席に腰掛けていた。教授としての品格を滲ませる伊達は葉巻をくゆらせながら新聞を広げ、橘は興味深げに支配人の話を聞いていた。
今夜、秘密部屋で降霊術の儀式が行われるが、参加者の一部が流感で来られなくなったという。その欠員補充を頼まれた二人の意見は対照的だった。
「君が降霊会に参加したいのは勝手だが、私はご免だ。」
伊達の声は低く、冷静だった。かつて倶楽部の奥にある禁じられた空間を垣間見た記憶が、彼の中に不吉な予感を呼び起こしていた。
「私は遠慮させてもらう。あのカーテンの奥には、二度と足を踏み入れん。」
伊達は葉巻を灰皿に押し付け、冷めた視線で支配人を見た。
「そう言わずに。こんな面白そうな話、滅多にないぜ。」
橘は笑いながら銀のコインを取り出し、軽く弾いた。硬貨がテーブルに転がり、“勝利”を意味する面が上を向くと、伊達は深い溜息をついた。
「君の運命論に付き合うのも疲れるな。」
2.
地下の秘密室は、厚い木製の扉の向こうにあった。蝋燭の明かりが不気味に揺れる部屋に入ると、中央には円形のテーブルが据えられていた。そこには降霊術者の老女、彼女を補助する若い助手、橘と伊達、さらに会員三人が座っていた。支配人によれば、今夜は悲劇のフランス王妃マリー・アントワネットの霊を呼ぶという。歴史が好きな参加者のたっての願いだった。
「皆様、今宵は亡き者との交信に臨む覚悟をお持ちください。」
術者の静かな声が響き渡り、全員が席に着いた。厳かな呪文が続き部屋の空気は次第に重くなっていく。水晶玉に靄のようなものが漂い始めたとき、それは起こった。
「ぐっ……!」
突然、会員の一人――体格の良い男が胸を押さえながら呻き声を上げ、椅子から転げ落ちた。橘が反射的に立ち上がり、男に駆け寄る。その瞬間、蝋燭の火がテーブルの端に引火し、布製の装飾が燃え上がった。
「橘、火だ!」
伊達が即座に背広を脱ぎ、燃え上がる火に覆い被せて消し止めた。煙の臭いが部屋に充満する中、橘は倒れた男の脈を取ったが、無情にもその命は尽きていた。
「……死んでいる。」
橘の声には、驚きと困惑が入り混じっていた。
3.
「橘、この男を知っているのか?」
伊達が冷静な視線を向けると、橘は頷いて答えた。
「ああ、倶楽部で何度かカードゲームをしたことがある。名前は日向直樹――最近、莫大な遺産を相続した資産家の長男だ。」
部屋の中がざわめきに包まれる。助手が術者に駆け寄り、参加者たちは動揺を隠しきれない様子だった。だが、伊達だけは一切動じることなく、状況を冷静に見極めていた。
「橘、君はこの日向という男についてどれほど知っている?」
「遺産相続のことくらいかな。聞くところによると、彼には腹違いの弟がいるそうだ。実は日向、ここ数ヶ月姿を見せてなかったんだ。失踪したとか殺されたとか、噂になっていた。まあ、さっきまでは生きてたみたいだけどね。あとは……ポーカーのいいカモだったくらいか。」
「失踪、ね。」
伊達は顎に手を当て、黙考した後、倒れた男の顔を覗き込み、そっと指先で触れる。眉間にわずかな皺を寄せると、胸元のシャツを開いて脈を測るように手を動かした。
その瞳が鋭さを増した瞬間、橘が声をかける。
「何か分かったのか?」
「紫色の唇、瞳孔は散大、少量の吐物……病死か、あるいは毒殺か。」
伊達はあくまで冷静に告げたが、その目には明らかに毒殺を疑う色が浮かんでいた。
橘は驚いたように周囲を見渡した。
「毒?でも、ここに来てから彼は何も口にしていないはずだ。」
「そこが妙なんだ。」
伊達は立ち上がり、部屋全体を見渡す。
「もし毒殺だとすれば、毒はこの場で投与されたのではない。もっと以前に仕込まれた可能性が高い。だが、症状が出てから死ぬまでが早すぎる。」
術者の老女は椅子にしがみつき、怯えたように震えていた。助手が「警察に連絡を」と慌てふためく中、支配人が地下室に駆け込んできて、伊達に一礼し、短く問うた。
「状況を説明していただけますか。」
伊達が簡潔に経緯を説明すると、支配人は眉をひそめた。
「同席していた他の二人と日向の関係は?」
伊達が問い返すと、支配が参加者について説明をした。部屋の隅に座る二人の会員は、いずれも名の知れた貴族であり、倶楽部でも古くから顔の知られた人物だった。
「このお二方は、日向様とは直接の関係はありません。そもそも身分の高い方々です。頼まれて殺人をするなどは考えにくいかと。」
支配人の言葉に、伊達は軽く頷いたものの、明確な返事はしなかった。その目はなおも鋭く、部屋全体を冷静に見渡していた。
そのとき橘が、ふと何かを思い出したように目を細め、伊達に小声で耳打ちをした。
「伊達、ちょっと気になることが。前に日向とカードをしたとき、彼は左利きだった。けど、さっき儀式前に倶楽部の規約書にサインしたとき、右手でペンを持っていたんだ。」
「ほう、左利きが右手で……それは興味深い。」
伊達は倒れた男の手を改めて観察した。指先にごく薄く残るペンだこが、左手にはなく、右手にだけあるのを確認すると、満足げに頷いた。
「橘、君の観察力は役に立つな。これは重要な手がかりになる。」
4.
倶楽部の面目を守るため、支配人は事件を公にしない方針を固めた。
日向の遺体は、地下室ではなく上階のホテルの一室で発見されたことにされることになった。
迎えに来た日向家の家族は遺体を確認し、「たしかに直樹本人だ」と証言した。
ひと段落ついた後、伊達は橘とともに支配人に近づき、低い声で話しかけた。
「支配人。この死んだ男……日向直樹本人ではない可能性があります。」
支配人は目を見開き、表情を引き締めた。
「それは、どういうことですか?」
「左利きだったはずの男が、儀式前には右手でサインしていた。そして顔立ちにも、僅かながら違和感がある。この男は、日向直樹になりすました偽物かもしれません。」
支配人の顔に、怒りと困惑が交錯する。
「つまり、倶楽部が何者かに利用されたということですか?」
「ええ。そして、日向家の莫大な遺産を巡る争いが動機になっている可能性が高い。倶楽部が、その陰謀の舞台に使われたのかもしれません。」
支配人は拳を握りしめ、低く震える声で言った。
「倶楽部の規約違反どころか、命に関わるような真似が行われるとは……。徹底した内部調査が必要です。」
伊達は変わらぬ表情で答えた。
「私と橘で調べてみます。倶楽部がこの件にどれほど関与していたか、明らかにするためにも。」
支配人は一度だけ頷くと、背筋を伸ばして部屋を去った。その背中には、倶楽部の名誉を守るという覚悟がにじんでいた。
「降霊術に参加するだけのつもりが、ずいぶん面倒なことになったな。」
橘が肩をすくめた。
「……誰のせいだと思っている。」
伊達は橘の肩を急かすように叩いた。それを合図に二人は歩きはじめ、その足音は、倶楽部の廊下に吸い込まれるように消えていった。
だが、この事件の真相が完全に明らかになるのは、まだ少し先の話である。
5.
それから数日、内部の調査は支配人に任せ、橘は日向直樹についての調べを進めた。
夜風が冷たい廊下を吹き抜ける中、伊達の研究室を訪れた橘は、苦笑いを浮かべていた。
「だいぶ危ない橋を渡りましたよ。これ以上深入りしたら、命がいくつあっても足りない。」
伊達は橘の軽口を聞き流しながら、黙然と考え込んでいた。
「頑張ったんだから真剣に聞いてくれよ。日向直樹は、もう三ヶ月前に殺されていた。遺体は海に捨てられたらしい。」
その言葉に、伊達の瞳が僅かに動く。しばらくの沈黙の後、低くつぶやくように返した。
「……三ヶ月前、か。」
伊達は長く静かに考え続け、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
「失踪宣言……あれには七年間が必要なんだ。」
「七年間?」
橘は問い返しながら、その意図を探るように伊達の目を見た。
「我が国の法律では、失踪宣告をして財産を処理できるようになるまで七年かかる。継母と弟は、おそらくそのことを知らなかった。日向直樹を殺したあとで、それに気づいたんだ。」
橘の表情に理解の色が浮かぶ。
「つまり、最初は海に捨てて終わりにするつもりだった。けど、それじゃ相続ができない。だから――」
「そうだ。そこで考えたのだろう。よく似た男を用意し、日向直樹として振る舞わせる。そして、事件が“うやむや”になりそうなこの倶楽部の中で死なせる。これが一連の流れだ。」
橘は息を呑み、声を潜めて言った。
「でも、殺し方が問題だ。毒殺だとしたら、あの短時間で確実に殺すにはトリカブトみたいな毒を使うしかない。でも、倶楽部に来てから、日向は何も口にしていないはずだ。」
それから、ふっと冗談めかして付け加えた。
「……よし、伊達が飲んで実験してみろ。」
伊達は静かにため息をつき、低く一言返した。
「その矛盾を解く必要があるな。」
6.
翌日、伊達は信頼できる知人に助けを求めた。薬理学の助教授であり、探偵小説を愛する変わり者でもある男――飯島靖彦である。
大学の研究室を訪れると、実験台に並ぶ試薬や顕微鏡の隙間から、白衣姿の飯島が顔をのぞかせた。
「やあ、伊達先生。珍しいね。どんな謎を持ち込んだんだ?」
「トリカブトのアコニチンを、遅効性にする方法を知りたい。」
飯島の目が輝く。口元に浮かぶのは、研究者特有の悪戯っぽい笑みだった。
「面白いね。その手の話は推理小説で何度か読んだことがあるけど、実際にやる方法となると……調べてみよう。」
数日後、飯島から伊達の元に連絡が入った。薬理学教室に駆けつけると、飯島は得意げに語り始めた。
「アコニチン単体だと、通常は短時間で作用する。でもね、テトロドトキシン――つまりフグ毒を微量に混ぜると、体内での作用時間をずらせることがわかった。これで、毒を飲んだ時間と症状の発現時間を意図的にずらすことができる。」
「テトロドトキシン……か。」
伊達は腕を組み、感心したように小さく頷いた。
「伊達先生。悪用はしないよな?」
飯島は冗談めかして言ったが、その目には一瞬だけ真剣な色が宿っていた。
数日後、倶楽部の支配人室にて―― 伊達と橘は一連の推理を支配人に報告していた。
支配人は険しい顔で黙って話を聞いていたが、伊達の説明が終わると、大きく息を吐いた。
「つまり、こういうことですね。日向直樹様はすでに殺されていた。しかし、殺した者たちはすぐには相続できないことに気づき、別人を仕立て上げた。そして、その偽者を倶楽部で殺すことで、日向様の“死”を確定させようとした……と。」
伊達は頷き、さらに補足した。
「アコニチンとテトロドトキシンを組み合わせた毒が使われた可能性が高い。毒は、倶楽部に来る前にすでに摂取されていたと考えられます。ここに到着してしばらくしてから、毒が作用し、死に至ったのです。」
支配人は額に深い皺を刻み、ゆっくりと手を当てた。
「倶楽部が、こんな形で利用されるとは……。」
「失踪を偽装し、財産相続を成立させるための“舞台”として利用されたのです。」
伊達の声は冷静だったが、その中に確信の響きがあった。
「許されることではありません。倶楽部の名誉に関わる重大な問題です。」
支配人は静かに椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「このあとの対応は私にお任せください。事件のことは、どうかお忘れを。報酬については、お望みのものを。」
7.
静かな夜が更けていく中、伊達政弘と橘薫は、例の席に戻っていた。
その夜、特別な酒が二人に提供された。グラスに注がれた深紅の液体は、香りだけでも何十年にもわたる歴史と職人技を感じさせた。
「こんな高価な酒を出すとは、倶楽部も本気だな。」
伊達はグラスを傾け、わずかに苦笑を浮かべた。
「本当にね。ここまで念を押さなくても、俺たちが口外するわけないのに。」
橘も微笑み、グラスを軽く合わせた。
二人はゆっくりとその酒を味わい、静かに目を見合わせた。その瞳には、事件の真相を共有した者同士の信頼と、決して語られることのない秘密が宿っていた。
この夜、二人はただただ静かに、贅沢な時間を過ごした。東京魔術倶楽部という異世界の一部となった彼らは、その秘密を胸に抱えながら、また次の日々へと歩みを進めていくのだった。
【登場人物紹介】
橘薫
明治32年(1899年)7月21日生まれ。B型。
子爵家の次男として育つも、格式ばった生活や堅苦しい社会的責任には馴染めず定職には就いていない。フリーライター兼探偵まがいの仕事をしながらその日暮らしを続けている。
背が低いが本人はあまり気にしていない。
姉2人、兄1人の四人兄弟の末っ子。
東京帝国大学文学部中退。
趣味は賭け事。
この話は民法読んでて閃きました!
オカルトっぽい話だけど、オカルトではなかったをやりたかったの。あと毒いれとこ。