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甘味

1.

 夏の終わりを告げる風が、東京の街に少しずつ秋の気配を運んでいた。そんな日曜日の昼下がり、河村は橘と伊達を誘い、新宿へ出かけることにした。目的は映画鑑賞と、その後の甘味巡りである。


「五月のお礼、まだちゃんとできていませんでしたし。」

 そう言う河村の顔には、どこか申し訳なさがにじんでいる。五・一五事件の影響で忙しく、ようやく落ち着いた今になっての誘いとなったのだ。


「お前と行く甘味処は罰ゲームみたいなもんだろ。」

 橘がぼやく。それでも、各自昼食を済ませた後、三人は新宿駅に集合した。


2.

「観たかった映画があるんです。」


 河村が案内した先の映画館で上映されていたのは、アメリカ映画『マタ・ハリ』。第一次世界大戦中に活躍し、最期は処刑された女スパイの物語だった。


 上映が終わると、橘が少し青ざめた顔でぼそりとつぶやいた。

「下手にコメントしたら俺、消されないか?」 

 河村は何も言わず、時計を確認しながらにこにこと微笑むと、二人を連れて歩き出す。向かった先は、高野フルーツパーラーだった。


「資生堂もいいんですけどね、高野は果物問屋が経営しているので、とにかくフルーツが美味しいんですよ。」

 そう言いながら歩く河村の足取りは軽く、まるでおもちゃ屋へ向かう子どものようだった。


3.

「とにかくフルーツパフェを食べてみてください。」

 店に入ると、河村は迷いなく注文した。

「フルーツパフェを三つ、紅茶のセットで。それからプリンアラモードとフルーツあんみつも。」


 橘が大量の注文を聞きながら、呆れたように言う。

「なんか、この光景に慣れちまった自分が怖いわ。」

「少なくとも驚かなくなったな。」

 伊達が苦笑いをする。


 注文を終え、メニューを閉じると、河村はふっと真顔になり、二人に向かって静かに頭を下げた。


「五月の件も含めて、本当にありがとうございました。」

 その言葉に、橘と伊達は少し驚く。河村のこうした態度は珍しかった。


「お二人が居なければ、今頃どうなっていたか分かりません。」

 彼はそう言いながら微笑む。細い目がますます細くなる。河村は以前と違ってどこか穏やかな表情をしていた。作り物の笑顔ではなく、心からのものに見える。


「……私の仕事、まあ、お気づきでしょうけど。」

 河村は静かに続ける。

「質問があれば、答えられる範囲でお答えしますよ。」


 ちょうどその時、フルーツパフェと紅茶が運ばれてきた。鮮やかな果物がガラスの器に美しく盛られ、紅茶の香りがふわりと漂う。


「質問か……じゃあ、彼女いるの?」

 橘が唐突に尋ねた。


 河村はパフェをスプーンで口に運びながら、淡々と答えた。

「気になる人はいましたけど、満州に行く前に別れました。」

「えー、結婚とか考えなかったのか?」

 橘がさらに食い下がる。


 河村はパフェを食べながら、やはり淡々とした口調で言った。

「結婚って気軽に言いますけど、軍人の結婚って面倒くさいんですよ?」

 そう前置きをした後、さらりと説明を加える。


「『海軍現役士官現役特務士官候補生及び現役准士官ノ婚姻ニ関スル件』というものがありまして、平たく言うと、士官が結婚するには海軍大臣の許可がいるんです。」


 橘は一瞬ぽかんとした顔をした後、声をあげる。

「なんだそれ……いちいち許可取らなきゃいけないのか?」

「ええ、そうなんです。だから、普通の人と違って気軽に結婚できないんですよ。」

 河村はそう言いながら、フルーツを一口食べ、目を細めた。

「でも、まあ……今はこうして、甘いものを楽しめる時間があるだけでも、十分に幸せですから。」

静かに言った後、彼はクリームを口に運んだ。


「華族様だって似たようなものでしょ?」

 そう言ってから、ゆっくりと視線を橘へ向ける。

「カフェの女給と恋に落ちて、結婚できますか?」


 その瞬間、ちょうど店員があんみつとプリンアラモードを運んできた。河村は会話を区切るように、静かにプリンに手をつける。


 伊達はスプーンを持ったまま、しばらく考え込むように視線を落とし、ぽつりと答えた。

「……そうだな。」

 橘はまだ納得がいかない様子だったが、それ以上の反論はせず、紅茶のカップを持ち上げた。


 ふと、伊達が思い出したように口を開く。

「質問と言えば、河村が満州から送ってきた絵葉書の件だが……」

「……ああ。」

 河村は軽く目を細める。

「簡単でしたでしょ?」


 伊達は短く笑って、葉書に記されていた最後の単語を口にした。

「最後の『KURE』は呉か?広島の。」

 河村は静かに頷く。

「ええ、そうです。同室者が——」

 その時だった。


「とても可愛い後輩で。」

 背後から響いた声に、三人の視線が一斉に向かう。


 振り返ると、そこには二階堂が立っていた。


4.

「——っ!ごほっ」


 河村は驚き、食べていたプリンが気管入り込んで盛大にむせた。

「おやおや、少佐、誤嚥ですか?」

 二階堂は薄っすらと笑みを浮かべ、涼しげな目で河村を見つめていた。


「……店を出ましょうか。」

 河村は、未練なくスプーンを皿に置くと、立ち上がろうとした。まだ手付かずのあんみつ、そして食べかけのプリンアラモードを残して。


「少佐はつれないなぁ……。自分、お邪魔みたいなので帰りますね。」

二階堂はどこか愉快そうな口調で言った。

「ああ、帝大の伊達先生とお話ししてみたかったのになぁ。」


 伊達の名前が出た瞬間、河村はぐっと拳を握りしめた。頭に血が上りそうになるのを必死に抑える。


「そうだ、少佐。」

 二階堂はまるで思い出したかのように続けた。

「木曜日、仕事が終わったら、水交社に行きませんか?」


 水交社——海軍士官専用の旅館や喫茶店などを経営する、海軍省の外郭団体。つまりは、海軍の倶楽部で食事をしようとの誘いである。河村は内心で舌打ちしつつも無表情を保ったまま渋々答える。


「……分かった。」

 満足げに頷いた二階堂は、そのまま踵を返し、軽やかに店を後にした。


 河村はため息をつきながら、ゆっくりと席に戻る。そして、食べかけのプリンアラモードを見下ろし、ぼそりと呟いた。

「……プリンが不味くなる。」


「……あいつが同室のやつ?」

 橘が尋ねる。

「ええ。」

 河村は不機嫌そうに答えた。

「……仲良かったのか?」


 伊達の問いに、河村はプリンを噴き出しそうになり、またしてもむせた。

「仲良く見える要素、ありました?」

「いや、皆無だったが……絵葉書がな。」

 伊達が意味ありげに答えた。


「絵葉書? 嫌いって書いてあったでしょう。計算間違いですか?」

 河村が訝しげに眉をひそめると、橘が気まずそうに視線を逸らしながら言った。

「いや……LOVEになってたぞ。」

「——はぁぁぁぁぁ?」


 河村は細い目を見開いた。


 よくよく聞くと、葉書に書かれた数式の一つ目と二つ目には訂正の跡があったらしい。

「……ふ、ふふふ。」

 河村は肩を震わせ、タチの悪い笑いを漏らす。

「くっ……やってくれたな、あの野郎……!」


 河村が肩を震わせながら笑うのを、伊達は静かに見つめていた。

「随分と表情豊かになったな。」

そう思いながら、伊達は紅茶を口に運んだ。


 初めて会った頃の河村は、感情を押し殺したような男だった。だが今は、目の前で怒り、呆れ、笑い、時にはむせる。どこか吹っ切れたようにも見えるが、果たしてそれがいいことなのかどうか——。


 店を出る前、河村は最後に残ったスイーツを平らげ、伝票を手にレジへ向かった。

「こちらの会計なら、先ほどのお連れの方が済まされましたよ。」


 店員の言葉に、河村は驚いた。

「……え?」

 と、短く言葉を発したのちは、そのまま何も言わず、二人を連れて店を出た。


5.

 その日河村は、東京魔術倶楽部に顔を出す気にはなれなかった。高野を出て二人と別れるとまっすぐ官舎へ戻り、重い足取りで部屋へ入る。扉を閉め、カバンを無造作に置くと、深いため息をついた。


 床の上に座り込み、カバンの中から封筒をとりだす。そこには赤い布と鎖で厳重に封印された鏡が収まっていた。


「……言い出しそびれたな。」

 誰に向けるでもなく、河村はぽつりとつぶやいた。


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