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1.

 伊達がグラスを傾け、琥珀色の液体が静かに揺れる。夜の東京魔術倶楽部には低く響く話し声とグラスの触れ合う音が満ちていた。そこへ、橘がゆっくりと近づいてくる。


「ちょっと良いか?」

 伊達はグラスを置き、橘を見上げた。

「親父が、伊達に相談したいことがあるって。」

「いつまでたっても定職につかない息子についてか?」

 伊達は微かに笑う。橘は苦笑交じりに答えた。


「いや、それはもう諦めてるから。」

「賢明な判断だな。」

「……鳥探しだよ。飼ってたインコ。」

「インコ?」

 伊達が軽く聞き返すと、橘は手を振りながら言った。

「別に断ってもらっても全然構わない。大したことじゃないんだ。」

「他ならぬ橘子爵の頼みだ。」

 伊達は手帳を開き、日付を確認する。

「無下にはできない。……明日の夜、伺おう。」

 橘はふっと笑い、軽く頭を下げた。


2.

 翌晩、伊達が橘家の門をくぐると、すぐに庭の奥から茶色い影が駆けてきた。

「おや……?」

 伊達の足元にまとわりつくように、尻尾を振る犬がいる。キラキラとした瞳でこちらを見つめてくる芝犬——キャンディだ。


「まったく、お前は番犬にはなりそうにないな。」

 伊達はしゃがみ込み、キャンディの頭を軽く撫でる。

「忙しいのに悪いな。」

 玄関先に立つ橘が、申し訳なさそうに言った。

「気にするな。」


 橘の案内で廊下を進むと、途中でひとりの少女と出会った。黒猫を腕に抱えたおかっぱ頭の少女は、くりくりとした目で愛らしい顔立ちをしている。小学校に入るくらいの年齢だろうか。彼女は礼儀正しく伊達におじぎをした。


「こんばんは。」

「こんばんは。」

 少女は伊達をじっと見つめたあと、恥ずかしそうに微笑んだ。

「叔父さまのお客さま?」

「伊達と言います。初めまして。」

「初めまして、伊達さま。」

 少女は黒猫を撫でながら続けた。


「叔父さま、この子、ナハトって名前にしたの。」

「優子が名付けたのか?」

 橘が聞いた。

「うん。夜みたいに真っ黒だから。」

 伊達は黒猫の琥珀色の瞳を見つめながら、

「いい名前だね。」

 と言った。少女は嬉しそうに頷いた。


3.

 伊達が通された応接室は、広くはないが、しかし隅々まで洗練された品々が並んでいた。世界各国の逸品が無造作に置かれているようでいて、その全てが調和し、格式を感じさせる空間だった。


「お待たせしたね。」

 低く穏やかな声が響いた。伊達は立ち上がり、一礼をする。

「ご無沙汰しております。」

 そこに立っていたのは、橘雅之子爵——橘の父であった。


 彼は小柄ながらも堂々とした佇まいで、親しみやすい雰囲気を持ちながら、決して軽く見られることのない人物だった。言葉の端々に知性と温かさを感じさせる、誰とでも対等に話すことのできる人間。そして、伊達が知る限り、息子には少々甘い。


 橘子爵は微笑みながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「さて——本題に入ろうか。」


 橘子爵は静かに口を開いた。その声音には穏やかさがあるものの、微かに困惑が滲んでいる。


「実はな、飼っていたインコが三日前にいなくなってしまったのだ。」

「……籠から逃げたのですか?」

 伊達が尋ねると、橘子爵は首を振った。

「いや、籠ごとだ。」

 伊達は一瞬で考えを巡らせる。単なるペットの逃走ではなく、盗難の可能性があるということか。しかし、なぜインコなのか。


「その鳥は、英国の外務大臣から贈られたものなのだ。」

 橘子爵の説明によると、彼が英国大使を務めていた際の縁で受け取った、特別なインコだった。


 スパングルという珍しい種類で、確かに価値はあるが、それでも盗難の対象としては妙だ。


 金銭目的であれば、書斎にあった美術品や財布を狙うはずだ。しかし、室内には荒らされた形跡が一切なく、鳥籠とインコだけが消えていたと。


「午前中に使用人が掃除をしたときは何も異常はなかった。だが、午後三時過ぎに私が書斎に入った際には、すでに鳥籠がなかったのだよ。」


橘子爵の語る時間の流れを整理しながら、伊達は立ち上がる。

「……書斎を見せていただけますか。」


 橘に案内され、伊達は書斎へと足を踏み入れた。部屋は整然としていた。埃一つない机、壁に整然と並ぶ本棚、そして窓辺のスタンド。そこには、本来鳥籠が掛かっていたはずの空白がぽっかりと残っていた。


 伊達は視線を机の上へと移す。そこには高級そうな万年筆が無造作に置かれていた。金銭目的の犯行ならば、なぜこの万年筆や美術品には手をつけなかったのか。どう考えてもインコを狙う理由が見当たらない。


「近頃、欧米への感情が冷えてきているからな。」

橘子爵がぽつりとつぶやいた。

「もしかしたら、反英思想を持つ者の仕業かもしれない。」

 伊達は橘をちらりと見やる。橘は妙におとなしい。普段なら冗談の一つも飛ばしてくるところだが、どうやら父親の前では控えめになるらしい。


「橘。」

 伊達が名を呼ぶと、橘は少し驚いたように顔を上げた。

「あ、お、おう。」


「その日掃除した者に話を聞くぞ。」

 対象者の名前を聞いて橘は即座に反応した。

「タキさんは絶対盗らないって。」

 その声は確信を含んでいた。


「別に疑っているわけではない。」

 伊達は落ち着いた声で答えた。


4.

 タキ——彼女は橘が幼い頃から家に仕えている使用人だった。

「午前十時に掃除を終えましたが、その時点では鳥籠は確かにありました。」


 そう証言するタキの表情は誠実に見えた。タキの話で書斎には普段から鍵をかけていないことも分かった。出入りは自由だが、その日は特に大きな変化はなかったという。


「その日の来客は?」

 伊達が尋ねると、タキは少し考えてから答えた。

「貴族院の若い議員様が一人、お見えになりました。ですが、短時間の滞在でしたし、書斎で一人になるような時間はなかったはずです。」

「そうか……。」


 伊達はしばらく思案に耽った。何かが引っかかる。書斎には侵入の形跡がなく、金目のものには手がつけられていない。犯人の目的は純粋に「インコ」だったのか?


 ふと、伊達が顔を上げる。


「橘……。」

「ん?」

「学生時代に貸した幾何学の本、あったよな。」

「……そんなのあったか?」

 伊達は微かに微笑む。


「一つ調べたいことがある。返してもらっていいか?」

「あるとしたら、俺のアパートだけど……直ぐには見つからないぞ?」

 橘が苦笑混じりに答えると、伊達はすぐさま応じた。

「一緒に探してやる。」


 橘は肩を竦め、軽く笑った。

「……伊達には敵わないな。」



5.

 二人は橘のアパートへ向かいながら、夜の街をゆっくりと歩く。湿った石畳の上に足音が響くたび、街灯が作る影が揺らいだ。 

 

 橘が諦めたようにドアを開ける。


「相変わらず散らかっているな。」

 伊達が呆れた声を上げた。橘の部屋は相変わらず雑然としており、机の上には本と書類が無造作に積み上げられている。


「ほっとけよ。」

 橘は苦笑しながら奥の寝室へと向かう。そして、そこで伊達は予想通りの光景を目にした。

鳥籠の中、問題のインコが何食わぬ顔で止まり木にとまっている。


「……橘。」

 伊達は低い声で名前を呼ぶ。

「いやぁ……こいつが猫を怖がっちまってさ。」

 橘はバツが悪そうに頭をかいた。

「行動を起こす前に、まず考えろ。」

 伊達が静かにため息をつく。


「拾った猫に怯えてるって言ったら、姪っ子が傷つくだろ? だから、とっさにインコを連れてきたんだよ。でも、後から言おうと思ってたら、割と大事になっちまって……。」

 橘はインコを一旦空き部屋に隠した後、家人が寝た夜に鳥籠をアパートに持ち帰ったと。


 橘の話を聞いた伊達は呆れたように目を閉じた。

「……で、どうするんだ?」

「一緒に謝ってくれるか?」

「放校になった時以来だな。」

 伊達は苦笑しながら橘を見やる。橘も気まずそうに笑った。


6.

 橘はインコの入った鳥籠を抱え、伊達と共に再び橘家へと戻った。


「すまん、父さん。」

 インコをそっと机の上に置き、橘は神妙な顔で頭を下げた。

「まったく……お前というやつは。」


 橘子爵は呆れて深いため息をつく。そして、隣に立つ伊達に向かい、軽く頭を下げた。

「迷惑をかけたな、伊達君。」

「いえ、大事にならなくてよかったです。」

 伊達は穏やかに返す。

「書斎には鍵をかけておくことにしよう。猫が入らないようにな。」

 そう言いながら、橘子爵は元の場所に戻ったインコを優しく見つめる。


「……良かったな。」

 橘はそっとインコに話しかけた。

 鳥籠の中のインコは、何もなかったかのように静かに羽を震わせた。

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