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吸血鬼(後編)

6.

「河村、しっかりしろ!」

 

 伊達と橘は倶楽部の入り口で倒れている河村を見つけると、急いで中へ運び込んだ。橘が心配そうに顔を覗き込み、伊達は手際よく傷の消毒を始めた。


「……噛み傷か?」

 傷口を見つめながら伊達が低く呟くと、橘の表情が強張った。


 しばらくすると、河村のまぶたがわずかに震え、静かに目が開いた。だが、その瞳には光がなかった。伊達が「大丈夫か?」と声をかけると、河村はゆっくりと上体を起こし、伊達の前にぎこちなく跪く。


「ご命令を……」


 抑揚無く響く声に、伊達と橘は息を呑んだ。河村の様子は、まるで噂に聞いた吸血鬼の眷属のようだった。

 

 伊達は困惑しつつも、学者としての探究心が疼くのを感じた。だがそれ以上に、目の前の友が何かに囚われていることが許せなかった。

「河村……私が分かるか?」

 伊達の問いかけに、河村の瞳が一瞬揺らぐ。


「……採血のセットを……はやく……」

 掠れた声で河村が言った。


 橘が支配人の元に走り注射器などのセットを持ってくると、河村は自ら駆血帯を腕に巻いた。細いゴムの端を口に咥え、ぎゅっと締めあげる。


 その仕草が妙に色っぽいと、橘は思った。血の気の引いた唇、汗で貼りついた黒髪、荒い息――。


「……っ」

 浮き出た静脈に鋭く針が刺さる。注射器に吸い込まれるように血が流れ出すと、河村は苦しげに眉を寄せた。

 それでも、最後まで手技を終わらせ、腕を震わせながら採血管を伊達に差し出す。


「……今は、噛みたい衝動はないですが……念のため、縛っておいてください。」


「分析は私に任せろ。橘、河村のことは頼んだ。」

 伊達は短く言うと、血液サンプルを持って倶楽部を後にした。


6.

 研究室の光学顕微鏡を覗くと、血液の中で何かが蠢いていた。

 

 伊達は一瞬、吐き気を覚えた。

──虫は苦手なんだが……。

 しかし、そんなことを言っている場合ではない。彼は血液サンプルを持って、寄生虫学教室へと足早に向かった。

 

 運良く日本住血吸虫の件で世話になった研究員がまだ残業をしていた。伊達がサンプルの検鏡を頼むとこころよく引き受けてくれた。


「……回虫の一種でしょうね。ただ、見たことがありません。」

 研究員は興味深げに顕微鏡を覗き込む。

「これ、貰えませんか?」

「悪いが、それはできない。」

 伊達はきっぱりと断った。何か嫌な予感がしたからだ。

 研究員は少し残念そうな表情をしたが、

「回虫なら、サントニンかマクリですね。」

 と棚の中を探し、伊達に駆虫薬を渡した。

 

 伊達は自分の研究室に戻り、血液汚染されたプレパラートと採血管を加熱処理して廃棄し、すぐさま倶楽部へと戻った。


7.

 伊達が大学に行っている間、河村は苦しみ続けていた。身体の奥底から湧き上がる熱と、青木大尉の命令に従いたいという衝動。それに抗おうとする理性。


 橘は傍に付き添い、必死に話しかけた。

「河村、大丈夫だ。お前は、お前だ。青木のものじゃない。」河村は荒い息を吐きながら、苦しげに顔を歪める。


「……分かっている。けど……どうしようもない。」

 ふと、彼の指が震えるように動いた。両手を縛っていたはずの縄はいつの間にか外れている。河村は橘の腕に伸びかけた手を、ぎゅっと握りしめる。

  

 自分が何をしようとしているかに気づき、河村は頭を振った。

「……俺を……殺せ……」

 呻くように言う河村を、橘は強く抱きしめた。

「馬鹿なことを言うな。」

 河村の肩が、びくりと震えた。そこへ、伊達が駆け込んできた。


「これを飲め!」

 駆虫薬を伊達が差し出すと、河村は震える手でそれを受け取った。薬が喉を通ると、熱が引いていくような気がした。橘が手を握り力強くはげます。

「大丈夫だ。俺も伊達もここに居る。」

 河村の目に、徐々に光が戻っていく。


 「……橘?」

 声にも僅かに生気が戻り始めている。伊達と橘が安堵の息を吐く。河村がようやく正気を取り戻したのだ。


8.

「虫が全部出るには時間がかかるだろう。」

 伊達は冷静にそう告げたが、河村はすぐにでも職務に戻るつもりでいた。


「いま、私の官舎は横須賀なんですよ。帰らないと終電が。」

 そう言いながら立ち上がろうとした瞬間、河村の体がふらついた。慌てて橘が支える。未だ体内に残る寄生虫の影響か、それとも精神が呪縛から解放されたばかりの衰弱か。


 伊達はため息をつきながら、

「無理をするな。広尾の家に行くか。」

 と提案した。

 タクシーを手配し、橘と三人で伊達の実家へ向かう。東京の夜景が流れる窓の外をぼんやりと眺めながら、河村はようやく自分の意思で体を動かせることに安堵していた。


 広尾の屋敷に到着すると、伊達の弟が眠そうな顔をしながら出迎えた。

「深夜にすまない。」

 伊達が詫びを入れた。


伊達は河村をゲストルームへ案内した。

「念のため、私もここで寝る。」

 伊達がそう言うと、橘もすかさず、

「俺も!」と手を挙げた。


 三人をよく知った女中の恵梨は、深夜にもかかわらず起きてくれ、布団を用意しながら楽しそうに言った。

「本当に仲良しですねぇ。」

 こうして、三人は同じ部屋で一夜を過ごした。


 それからしばらくの間、河村は眠り続けた。時折目を覚ましても、少し何かを口にして、朦朧とした意識のまま再び眠りに落ちた。定職のない橘は「他にやることもないしな。」と河村の横にずっと付き添っていた。


 三日が過ぎ、ようやく体調が戻ってきた河村は、寝間着姿のまま、伊達家特製のプリンをスプーンですくい

「ここにずっと居たいですね。」

と満足そうに微笑んだ。


「図々しいな。」

伊達は呆れたように言う。

「いいじゃないか、伊達んち居心地良いもんな。」

橘が楽しそうに笑った。


「橘、伊達。本当に……ありがとう。」

 河村は改めて深々と頭を下げた。 


「やめろよ。」

 橘は気恥ずかしそうに手を振る。伊達は照れたのか、目を合わさずに

「そういえば、吸血鬼伝説は狂犬病ではないかという説があるらしいぞ。」

 と話を逸らした。


 河村はプリンを口に運びながら、考え込むようにつぶやく。


「もしかしたら、今回の件……人を操る寄生虫を開発したか、あるいは元々それを飼っている家系の仕業かもしれませんね。管狐の伝説のように。」


伊達は腕を組みつぶやいた。

「それが事実なら、かなり厄介な相手だな。」

 河村は小さく息を吐き、決意を固めたように言った。

「明日、情報部に報告してきます。信じるか信じないか、情報をどう扱うかは上次第ですけど。」


9.

 翌日、河村は情報部を訪れ、集会での出来事、青木大尉の異様な様子、そして自身の体験を詳細に報告した。


 成田中佐は報告書に目を通しながら、ゆっくりと頷く。

「ご苦労だった。あとはこちらに任せて、医務局に戻れ。」

 成田は手帳をめくり、日付を確認しさらりと付け加える。

「週明けの月曜日、5月16日から復帰とする。それまではゆっくり休め。」


 河村は静かに敬礼し退出した。


10.

 昭和7年 5月15日――休暇最終日。


 河村は久しぶりに軍服に袖を通し、医務局へと向かった。日曜日ではあったが、仕事に使う道具を運び込むためだ。満州への赴任と内偵任務そして少しの療養を経て、明日からようやく日常へ復帰するために。


 昼前には整理を終え、静かになった医務局の部屋でふと考える。甘いものが欲しい。

「……久しぶりに空也最中が食べたい。」

 河村はそう思い立ち、医務局を後にした。


 上野の店で最中を手に入れた河村は、東京魔術倶楽部へと向かった。道すがら、何人かの海軍将校とすれ違う。


──日曜なのに妙に軍服姿の軍人が多いな。


 休日に軍人が集うことは珍しくない。だが、すれ違う者たちの顔色は少し悪く、どことなく重苦しい空気を纏っているように感じた。


 河村は嫌な予感を振り払うように、倶楽部の扉を開いた。


11.

 まだ夜には早い時間だった。伊達と橘の姿は見当たらない。河村は空也最中の包みをほどき、包装紙をポケットにしまいながら独り言を呟く。


「遅いと全部食べてしまいますよ。」

 そう言って、ひとつ、ふたつと最中を頬張る。


その時――

耳元で誰かに呼ばれた気がした。


 何に導かれるように、河村はゆっくりと立ち上がる。地下へと続く階段を降り、書庫の前で足を止め、鍵を外し、重い扉を押し開ける。


 他に誰もいない書庫で、無造作に伸ばした指が一冊の本の背をなぞった。気がつくと河村はそれを手に取って開いていた。そこで、はっと我に返る。

──まだ寄生虫の影響が?いや、違う。


 河村が開いたページには一枚のメモが挟まっている。


『後で読む』


それは間違いなく、自分の筆跡だった。


 河村は鼓動が高まるのを感じた。三人で書庫の整理をした日のことを思い出した河村は、咄嗟にメモを抜き取ると、代わりにポケットにあった空也最中の包装紙を挟み、本を棚へと戻した。


 その瞬間、書庫の扉が音もなく開いた。そこに立っていたのは、伊達と橘、そして、今より少し若い自分だった。


 三人は驚愕の表情を浮かべ、こちらを凝視している。


「……!」


 河村が何か声をかけようとしたその刹那、影のように、三人の姿は消えた。書庫には、ただ静寂だけが残された。


11.

 その同刻。官邸では、時の首相犬飼毅が海軍の青年将校によって銃撃されていた。その夜、犬飼は息を引き取る。この事件をもって、日本の政党政治は終焉を迎え、軍部の力がますます強まっていくこととなる。


 事件の関係者は、同年11月5日までに全員が検挙された。しかし、その中に青木大尉の名は入っていないのだった……。

この話は、イケメンが苦しむ姿が見たいという一点で書きました。

作者の願望が詰まりすぎた回です。

癖が同じ方は感想や⭐︎をぜひ。

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