光石
1.
銀座でビールを飲んでいた伊達政弘と橘薫の前に、東京魔術倶楽部の女給、真奈美が姿を現した。彼女は静かな声で告げた。
「橘様、伊達先生。また依頼でございます。魔術の道具によって体調を崩される方が大勢出ておりますの。」
以前、有楽町のバーでダーツを楽しんだ時の無邪気さは消え、再び倶楽部の空気をまとっていた。
「前回の報酬についてもご検討を、との伝言を支配人から預かっております。」
そう言い添えてから、彼女はひと呼吸おいて微笑んだ。
「ではまた、明日、倶楽部でお会いいたしましょう。」
翌日の夕暮れ、伊達と橘が倶楽部に赴くと、支配人がふたりを迎え、低い声で語り始めた。 その手はわずかに震え、額には薄い汗が滲んでいる。支配人は倶楽部で流行している“光石”の儀式について語り出した。
それは異常な力を宿す物――“光石”を用いる儀式であった。石を身近に置き、折にふれて願いを込めるだけの単純な形式だったが、その起源は欧州の王侯貴族に秘されたもので、怪僧ラスプーチンが暗殺されたのは光石の秘密を知ったからだと噂されるほどだった。
会員たちはその神秘的な光に魅了され、超常的な力の気配を感じていた。青白い光は弱々しくも心を引き寄せ、魅入られた者たちを離さなかった。
「もともとは倶楽部の地下倉庫に、力の源として保管しておりました。ですが“光石”の噂を聞きつけた会員の方々が、ぜひ手元にと希望されまして。世界中から手を尽くし、いくつかを入手して配布いたしました。」
支配人はそう説明した。
「当初は問題なかったのです。しかし、特に光石を肌身離さず持ち歩いていた会員様の中に、次第に体調を崩される方が出始めました。脱毛や皮膚のただれ、中には血を吐かれた方も……」
支配人の声には焦燥と決意が滲んでいた。
「光石は、効能よりも悪しき影響が大きいと判断しました。儀式を止めるために、どうかお力添えいただけませんか?」
伊達と橘は静かに耳を傾け、やがて橘が一歩前へ出て口を開いた。
「その依頼、引き受けよう。ただし、あの石に魅入られた連中をどうやって説得する?」
支配人はしばし黙したのち、言葉を搾り出すように答えた。
「危険性を証明し、封印か廃棄の道を示すしかありません。それが最も確実だと、私は考えております。」
伊達は頷きながら言った。
「その方針でいこう。」
橘が思い出したように口を挟んだ。
「そういえば、前回の報酬は……忘れてたな。今回まとめてもらえるなら、それでいいよ。」
支配人は少し安堵した様子で頷いた。
「では、今回分も含め、まとめてお支払いさせていただきます。どうか、儀式を止めてくださいませ。」
伊達と橘は視線を交わし、無言で頷いた。報酬以上に、光石をめぐる危険な状況の解決こそが、ふたりにとっては優先されるべきことだった。
2.
「せっかくだから、書庫に行ってみないか。」 橘が先日もらった鍵を指でくるくると回しながら伊達に言った。
書庫は薄暗く、古書の匂いに満ちていた。 ふたりは手分けして光石に関連する文献を探したが、光石自体が秘された存在だけに、その記述は乏しかった。名前だけが登場したり、「強い力を宿す」「魔力の源となる」程度の断片的な記述ばかりで、副作用や呪いに関する記載は見当たらなかった。
しばらくして、橘は調べ物に飽きて脱線を始めた。魔術とは無関係の棚を物色しはじめる。
「法学部に美術、医学書まであるんだな。お、花柳病の本があるぞ。」
これは面白そうだと棚の上段にある本を取ろうとしたが、橘の背では届かない。踏み台を持ってくるのも面倒だと判断し、勢いよく跳び上がって手を伸ばした拍子に、数冊の本を床に落としてしまった。
「君は一体何をしているんだ……」
伊達がやや不機嫌な声で言いながら、本を拾い上げた。
床に落ちて開いたそのページには、“放射線被曝による諸症状”が記されていた。伊達はその場でページを繰り、思わず顔を曇らせる。そこにあった症状は、まさに光石を持った会員たちと一致していた。
伊達は散らばった本を慌ただしく片づけ、光石を金属の箱に収めながら橘に声をかけた。
「全く君の運は科学では説明がつかない。とにかく研究室に行くぞ。」
3.
「やはり……放射線か。」
研究室の机に手を置きながら、伊達は深いため息をついた。
計器で測定した結果、光石は単なる美しい鉱石ではなく、放射性物質を含んでいた。その微弱な放射線が、時間をかけて人体に悪影響を及ぼしていたのだ。
「こんなものをありがたがっていたなんてな。光石は魔術でもなんでもない、ただの放射性物質だ。」
伊達の言葉に、橘が頷きながら応じた。
「原因が放射線と分かっても、あの石に魅せられた連中には通じないだろうな。あの光に意味を見出してる。」
伊達は煙草を取り出し、ライターに火をつけながらわずかに苛立ちを見せた。
「だが、このままでは確実に体を壊す。だから止めなければならない。」
橘はしばらく黙った後、少し思案顔で言った。
「彼らは儀式にのめり込んでる。科学で説得できる相手じゃない。」
しばしの沈黙のあと、伊達がぽつりと言った。
「……それなら、封印という形を取るしかないな。封じ込めて、加護が続くとでも説明するんだ。」
橘が興味を示したように聞き返した。
「封印?どうやって?」
伊達は、机の上の鉛の箱を指さした。
「放射線を遮断するには鉛が一番確実だ。あの石は微弱ながら放射線を出し続けている。完全に鉛で封じれば、外には漏れないし、害もなくなる。」
橘は疑わしげに眉を上げた。
「その説明で、連中が納得するかどうか……」
伊達は苦笑して言った。
「そこは我々の“演出”次第だ。」
4.
翌日、伊達と橘は、封印儀式の提案のため、再び東京魔術倶楽部を訪れた。
「伊達様、橘様。ご多忙のところ恐れ入ります。」
支配人は深く頭を下げた。
伊達は、光石と鉛の箱を見下ろしながら口を開いた。
「光石が発するエネルギーは、明らかに人体に悪影響を及ぼしている。端的に言えば、放射線による健康被害だ。」
支配人の表情がこわばった。
「……では、伊達様。どのようにして、この問題を解決すればよろしいのでしょうか?」
伊達は一拍おいて、明瞭に告げた。
「まず、この石を封印する。鉛の箱に収めて放射線を遮断すれば、外部への影響はなくなる。」
その言葉に、支配人はわずかに安堵の色を見せた。
「封印すれば、少なくとも健康に害は及ばないと……?」
「その通りだ。」
伊達は自信を持って答えた。
しかし、支配人はなお不安げに眉を寄せた。「ですが、会員たちはこの光石に強く執着しております。封じられた状態では“力”を失ったと感じるかもしれません。」
伊達は苦笑しながら、軽く咳払いをして表情を引き締めた。
「もっともらしい理屈を用意してきました。」
そして、まるで演壇に立つ神秘家のような口調で続けた。
「封印により光石の“光”は失われます。しかし、石の力は消えません。むしろ箱の中に凝縮され、その加護は持ち主の内面に宿るのです。封印は“力”を外から内へと転化させる儀式。従来よりも深く、強く作用するようになる――そう説明すればよい。」
橘は傍らでニヤリと笑い、肩をすくめながら言った。
「“力は失われず、変化する”ってな。伊達先生、詐欺師まがいの口上も板についてきたな。」
伊達は軽く眉間に皺を寄せ、そっけなく返した。
「詐欺師ではない。科学者だ。」
5.
数日後の夜、倶楽部の一室に会員たちが集められた。伊達は神妙な面持ちで彼らの前に立つ。帝大教授という肩書と落ち着いた物腰が、その場に説得力を与えていた。
「この箱は、“光石”の力を完全に封じ込めるためのものです。」
伊達は慎重に鉛の箱を取り出し、机の上に置いた。箱には支配人が手配した彫金師による、いかにも魔術的な模様が彫られていた。
さらに、伊達は工学部の知人から借りたばかりの、最新型のガイガー=ミュラー管を取り出した。
計器は光石のそばで反応を示し、やがて鉛の箱に石を入れると、ぴたりと反応が止んだ。
「確かに、封印によって光は見えなくなります。しかし、その“力”は箱の中に凝縮されます。そして、それは皆さん自身の中に作用し、より強く、より深く、内なる能力を呼び覚ますでしょう。これは、力を高めるための儀式です。」
会員の一人が声を上げた。
「でも、封印したら儀式の効果がなくなるんじゃないのか?」
伊達は揺らぐことなく、静かに答えた。
「信じられないのであれば、試してみるといい。すべては、結果が証明する。」
ざわめきの中、支配人が前に出て場を収めた。
「異議がないようですので、教授の提案に従い、光石を封印いたします。ただし、もし問題が起きた場合は、責任は伊達様と橘様に。」
伊達は静かに頷いた。
やがて儀式が始まり、会員たちは一人ずつ、箱に光石を納めた。橘はそれを黙って見守っていた。
封印が完了すると、支配人の表情には明らかな安堵が浮かんでいた。
伊達と橘は倶楽部を後にし、銀座の街へと戻る。
「さて、今夜はどこで一杯やろうか?」
と橘が言えば、伊達はふと考えてから答えた。
「ダーツでも行くか。」
ふたりは足早に、有楽町のバーへと向かっていった。その道すがら、橘が肩越しに言った。
「しかし伊達先生、あなたの“詐欺師としての才”は大したものだ。」
伊達は苦笑しながら、肩をすくめる。
「詐欺師だと?ただの科学者だよ。」
「まあ、科学者も詐欺師も、紙一重ってことだな。」
橘のその言葉に、ふたりは笑い合いながら、夜の銀座へと消えていった。
5.
有楽町のバーで、伊達と橘はいつものようにダーツを楽しんでいた。そこへ、真奈美がふいに現れる。以前と変わらぬ無邪気な笑みを浮かべていた。
「報酬、まだ聞いてませんよ。言い忘れたでしょ?」
「来たな、ダーツ娘。」
橘は軽く笑ってダーツを手渡した。真奈美はそれを受け取り、軽く投げる。矢は真っ直ぐ飛び、見事中央に命中した。
「ナイスダーツ。」
伊達が自然に感嘆の声を漏らす。
「それで、おふたりの報酬は?」
真奈美が問い直す。
橘は彼女に一歩近づき、真剣な目で問うた。「君の名は?」
「この間、教えたでしょ。ま・な・み。」
彼女はいたずらっぽく答えた。だが、伊達が改めて言った。
「報酬として、君の“本当の名”が欲しい。」
その一言に、真奈美の顔に一瞬だけ驚きが浮かんだ。彼女はしばらく黙っていたが、やがて唇を震わせた。
「本当に……それでいいの?」
伊達と橘は、黙ってうなずいた。
真奈美――いや、“真奈美でない誰か”は深く息を吸い、静かに名乗った。
「……私の名前は、新庄恵梨。」
その瞬間、どこからともなく、カチャリと鎖が外れるような音が響いた。それは誰にも見えない、何かの結界が解けたような音だった。伊達と橘には、彼女という存在の一部が、ほんの少しだけ露わになったように感じられた。
恵梨は、ほっとしたような表情を浮かべながらつぶやいた。
「これで私は……自由になれるのかもしれない。」
その声音には、長く縛られていたものから解放される安堵と、わずかな不安が混じっていた。
橘はその変化を察し、静かに尋ねた。
「“自由”って、魔術倶楽部から?」
「ええ。私の名前は、魔術倶楽部の“力”で隠されていたの。名を知られれば、相手に支配されるから。――でも、あなたたちが報酬として私の名を求めたことで、その呪縛は消えたの。ありがとう。……それはそうと、行くところがないの。」
自由を得た解放感と、それに伴う現実的な困惑が、真奈美の顔に同時に表れていた。
伊達は仕方なく、ペンを取り出し、メモ帳にさっと走り書きをした。
「実家が、女中を探していた。金が貯まるまでは、住み込みで働くといい。」
恵梨はメモを受け取り、目を見開く。
「……本当に? 私みたいな人間を?」
「条件付きだ。我々の信頼を裏切らないこと。それが守れるなら、君にも居場所はある。」
恵梨はしばらく黙っていたが、やがて静かに笑みを浮かべた。
「ありがとう。……私、頑張ります。」
翌日、恵梨は伊達の実家に同行し、女中として新たな生活を始めた。家族は、彼女の礼儀正しさと素直さにすぐに好感を持った。
彼女は自身の中に眠る力と過去を隠し、ただの勤勉な使用人として、静かに、そして密やかに、新しい日々を歩み始めるのだった。
この話を書いたきっかけは『労働衛生の勉強してたら閃いた(放射線)』です。
知人の労働衛生コンサルタント試験の面談練習に付き合った産物です。仲良し二人は無事に合格いたしました。
後で分かったこと。
この時代の日本、ダーツはまだあまり普及していない(笑)、無視することにしました。
ビリヤードはブームだったようです。