珈琲
1.
昭和六年十一月。東京・上野の地に新たな学術の殿堂が誕生した。震災復興の一環として建設された東京科学博物館は、鉄筋コンクリート造りの堂々たる建物で、地上三階の一部四階、地下には広々とした展示室が広がっている。
さらに映写設備を備えた講堂も併設されており、科学の最先端を伝える拠点として期待されていた。
その開館記念行事のひとつとして、帝国大学理学部の伊達政弘教授が講演を行うこととなった。演題は「近代化学と文明の進歩──分析化学が拓く未来」。
講堂の客席は満員だった。帝国大学の学生や学者たちに加え、一般の知識層の姿も目立つ。特に、目をひいたのは羽織袴姿の女子学生たちだった。
伊達は壇上に立ち、静かに講演を始める。
「分析化学とは何か。簡単に申し上げれば、物質の成分を明らかにし、その性質を測定する学問です──」
流れるような語り口で、彼は分析化学がいかに医学、工業、さらには社会全体に影響を及ぼしているかを説いた。
近年、ビタミンの研究が進み、分析化学の発展が栄養学を飛躍的に向上させたこと。工業の分野でも新素材の特性を科学的に解明し、日本が科学技術立国として進むためには、こうした研究が不可欠であること。そして、科学者は実験室に閉じこもるだけでなく、広く社会と関わり、その成果を伝えていくべきであると。
彼の言葉は聴衆の心をとらえ、講演が終わると同時に、会場は大きな拍手に包まれた。
2.
質疑応答が終わると、数人の羽織袴の女子学生が演壇へと歩み寄った。
「昨年、先生にご講演いただいた大学の者です。本日も大変感動いたしました。」
そう言いながら、一人の女子学生が花束を差し出した。伊達は少し驚きつつも、丁寧に受け取る。しかし、彼の意識は別の一点に向かっていた。──あの女は来ているのか?
思わず客席を見回す。仮面舞踏会で出会った、あの謎めいた女性。彼女は他の聴衆とは違い、席に座ったまま微笑を浮かべ、伊達をじっと見つめていた。
伊達と目が合った次の瞬間、彼女は声を出さずに、ゆっくりと口を動かした。
「も・て・ま・す・ね」
伊達は思わず「なっ……」と声を漏らし、顔が熱くなるのを感じた。そんな伊達の様子を見て、彼女はくすりと笑い、静かに席を立った。
結局、その日、伊達は彼女と一言も言葉を交わすことはなかった。
3.
翌朝、帝国大学理学部の教授室に一本の電話が入った。
「山下製薬の社長からお話があるそうです。」
秘書の報告に、伊達政弘は一瞬耳を疑った。山下製薬、国内有数の栄養製剤メーカーであり、ビタミン剤の市場を独占する企業である。その創業者である山下重信が、わざわざ自分に話があるとは。
「何の用件か聞いたかね?」
「寄付の申し出だそうです。」
寄付ならば帝大にはしばしばある話だ。とはいえ、わざわざ社長自ら来訪するというのは珍しい。興味を引かれた伊達は、午後に会う約束を取り付けた。
そして約束の時間。教授室の扉を叩く音がした。
「お約束をした、山下でございます。」
「どうぞ、お入りください。」
重厚な扉が開くと、そこには堂々たる体躯を持つ初老の紳士が立っていた。恰幅の良い身体にきちんと仕立てられた和装が映える。その傍らには、昨日、講演会場にいたあの女性がいた。
「伊達教授、お初にお目にかかります。」
山下が軽く頭を下げた後、隣の女性を紹介する。
「こちら、知人の娘さんでして、伊達先生のお話をどうしても聞きたいと申すもので。ご無礼とは思いながらながらも連れて参りました。」
女性は静かに一歩前に出て、微笑を浮かべた。
「稲葉美月と申します。」
昨日、講演の終わりに唇だけで「も・て・ま・す・ね」と囁いた、あの女だ。伊達は不意を突かれたように一瞬固まり、それから慌てて頭を下げる。
「こ、これは、ご丁寧に……」
そのぎこちない反応に、美月の瞳がどこか愉快げに輝いた。
「伊達先生の講義を拝聴し、分析技術の重要性を改めて認識しました。我々製薬会社にとって、正確な成分分析は極めて重要です。特にビタミン剤の品質管理は、これからの国際市場での競争に直結します。ぜひとも先生の研究を支援させていただきたい。」
山下社長はそう語りながら、小切手を取り出した。額面を見ると、一万円──現在の貨幣価値で言えば数千万円に相当する大金だった。
「これを、研究の一助に。」
伊達は驚きつつも、深く頭を下げた。
「山下社長、ありがとうございます。では、せっかくの機会ですし、研究室をご案内いたしましょう。」
だが、社長は穏やかに手を振った。
「案内は他の方にお願いしましょう。先生には、ぜひ美月さんのお相手をお願いしたい。」
伊達は驚きで一瞬言葉を失ったが、助教授に案内を頼み、美月とともに研究室の休憩スペースへと向かった。
4.
「珈琲はお好きですか?」
休憩室のテーブルにつき、伊達はそう問いかけた。美月は少し考え答えた。
「嫌いではありません」
伊達は黙って頷くと、慎重な手つきでフラスコに水を正確に計り入れ、底面の水滴を拭き取る。そしてアルコールランプに火を灯した。
「まるで実験ですわね。」
美月がくすりと笑いながらつぶやく。
「そうですか……」
二人は黙って湯が沸騰する様子をじっと見つめていた。
やがて、フラスコの湯が泡立ちはじめると、伊達はそれを一旦火から下ろし、ロートにコーヒー粉を入れて再び火にかけた。
温められた湯がロートへと登り、珈琲の香りが部屋に満ちる。竹べらでそっと攪拌した後、火を止めると、今度はロートからフラスコへと珈琲が静かに落ちていく。珈琲が落ち切ったところで伊達は温めていたカップにそれを注いだ。
その動きを見つめていた美月が、不意に口を開いた。
「伊達先生、さっきお湯が跳ねましたよ。ここあたり。」
そう言いながら美月は伊達の右手の甲を指差した。
伊達は驚いて手を見た。確かにうっすらと赤くなっている。しかし、熱さを感じた覚えはない。
「……いや、気づかなかった。」
「でしょうね。」
美月は意味ありげに微笑むと、今度は彼の左腕を指差し、そっと指を滑らせるように動かした。
「伊達先生、こちらもです。」
伊達は思わず腕を見る。そこには細く赤い帯状の跡が、約四センチ。まるでそこに何かが触れたかのように。
「……これは。」
「病は気からと申します。あやしい言葉には、ゆめゆめ耳をお貸しになりませぬように。」
美月は静かに微笑み、一言付け加える。
「珈琲が冷めてしまいますよ?」
伊達は何とも言えない表情のまま、湯気の立つ珈琲に視線を戻した。
この女は──何者なのか?
伊達は無言のまま珈琲を口に運んだ。




