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1.

 河村が満州へと旅立った翌日、東京魔術倶楽部のカウンターで洋酒のグラスの氷が静かに音を立てていた。


 橘が琥珀色の液体を傾けながら、ふとつぶやく。

「今頃、洋上かな。」

 伊達はグラスを揺らしながら、短く返した。

「そうだな。」

 


 橘は旅立つ前に、河村に写真と大量の飴を渡したことを思い出していた。

「飴をな、たんまり持たせてやったよ。」

 伊達はポケットから万年筆を取り出し、軽く回してみせる。

「私はこれを渡した。」

 橘はコインを取り出し指で軽く弾いた。

「俺の特製お守りもな。河村はあんまり信じちゃいなかったみたいだけど。」


 かつては二人だったのに、いつの間にか三人になっていた。それが当たり前のようになっていた。だが、橘も伊達もそれを口に出すことはなかった。


2.

 そんな静寂を破るように、クラブの扉が開く。

「お楽しみ中、申し訳ありません。」

 低く落ち着いた声と共に、分厚いコートを羽織った男が現れた。近藤健太郎、大地主の息子であり、橘と伊達にとって馴染みの顔だ。


「近藤さんがこんな時間に来るのは珍しいな。」

 橘がグラスを持ったまま声をかけた。

「飲みに来たのか?」

伊達も続けて聞く。


 近藤は少し暗い顔で二人の横に腰を下ろした。

「いや、実はちょっと相談がありましてね。父のことなんですが……」

 近藤の父は元々大酒家だったが、最近になって肝臓を悪くし、医者から酒を止められたという。


「医者の言うことを素直に聞くような人だったか?」

 橘が皮肉っぽく笑う。近藤の父も以前は倶楽部に顔を出しており一徹者で知られていた。

「ええ、それが……」

 近藤は苦笑いをし頭をかいた。

「父は本当に酒をやめました。でも、それからどんどん具合が悪くなっていって。」


伊達と橘は互いにちらりと視線を交わす。

「禁酒で身体を壊すことがあるのか?」

 伊達が尋ねると、近藤は首を振った。

「最近、父は『毒素を足から抜く』という怪しげな治療法にはまりまして。」

橘はグラスを置き、怪訝そうに近藤を見た。

「毒素を足から抜く?」


「ええ。どうやら温泉か何かの成分を使って、足の裏から毒を排出するらしいんですが……」

 橘は笑ってはいけないと我慢したが、少し声が震える。

「そりゃまた、すごい話だな。」

「問題は、父だけじゃないんです。」

 近藤の声に陰りが差す。

「酒を飲まない母まで、肝臓が悪くなった時の症状が出始めているんです。」

 伊達はしばらく考え込んだ後、静かに言った。

「医者は何と?」

「そこなんです。医者も首をひねっている。父は禁酒しているのに、病状は悪化する一方。そして、酒を飲まない母までが同じ症状を……。」


 橘が腕を組み、呆れたように言った。

「医者が匙を投げてるってことか?しかし、いまウチの医者は満州に行っちまったしな。」

 橘の言葉を無視して、伊達はもう一度問いかけた。

「毒出しをしているのは、お父上だけか?」「いえ、母も一緒に。」


 伊達はグラスを軽く回し、深く考え込むように視線を落とした後、ゆっくりと顔を上げた。

「近藤さん、あなたの家にお伺いしてもよろしいですか?」

 近藤はほっとしたように同意する。

「ええ、ぜひ。」

 伊達は無言で頷き、橘は好奇心に満ちた目で近藤を見ていた。


3.

 数日後、伊達と橘は近藤家を訪れた。広い庭を抜け、重厚な門をくぐると、広間には近藤の両親が並んで座っていた。


「お久しぶりですな、伊達先生。」

 正蔵の声は張りがあったが、顔色は優れない。わずかに黄疸が出ているのが分かる。


「ええ、ご無沙汰しております。」

 伊達は軽く会釈しながらも、正蔵の肌の色を観察していた。

「父は酒を断ったのに、どうにも体調が優れなくて。」

 近藤が心配そうに正蔵を見つめる。


「噂の『毒出し』の方は順調なのか?」

 橘が尋ねると、正蔵の妻が微笑みながら答えた。

「ええ、おかげさまで。足の裏から毒が抜けているのを感じますのよ。」


 伊達は「失礼します」と声をかけ、正蔵の足をそっと観察した。足の裏には赤くかぶれた部分があり、炎症を起こしているように見える。


「水は温泉水ですか?」

「いいえ、富士山の裾野にあるマコモの茂る沼の水です。」

 正蔵の妻がそう言いながら、小さな壺に入った水を差し出した。伊達はその水を手に取り、光に透かしてみる。わずかに濁っている。

「……なるほど。」

 伊達はその水を預かり、研究室で詳しく分析することにした。


4.

「重金属は検出されず、放射線も問題なし、毒物もなしか……。」

 机の上に並べられた分析結果を見ながら、伊達は腕を組んだ。


「金属や毒でないとしたら、細菌かとも思ったが……足を浸した程度で肝臓が悪くなるのは妙だな。」


 伊達が考えこんでいると、突然研究室の扉が開いた。

「すげぇ本が出たぞ!」


 興奮した声とともに現れたのは、薬理学の飯島助教授だった。彼はミステリー好きで、新刊が出るたびに伊達のもとへ押し付けにくる。


 飯島の手には、夢野久作の『ドグラ・マグラ』があった。


「伊達、お前これ読んだか?」

「いや、それより……」

 伊達は飯島が小脇に抱えた医学雑誌の見出しに目を止めた。


「ちょっと、それを見せてくれないか?」

「おお、ドグラ・マグラか?」

 飯島がニヤリと笑って差し出す。

「違う、それじゃない。」

 伊達は飯島が持っていた『日本醫事新報』を手に取り、急いで該当ページを開いた。


『日本住血吸虫症──甲府盆地における予防対策』


 伊達は以前に読んだ新聞か雑誌で地方病(日本住血吸虫症)について多少の知識はあったが、特集記事を詳しく読んで、この寄生虫が経皮感染し、肝門脈に巣食って肝硬変を引き起こすことを知り確信に近い手応えを感じた。


「飯島、甲府盆地以外の流行地は分かるか?」

「寄生虫学者に聞けよ。」

 飯島が呆れたように言う。伊達はすぐに雑誌と沼の水を持ち、足早に医学部の寄生虫学教室へと向かった。


 残された飯島は少し残念な顔で『ドグラ・マグラ』を伊達の机に置き、「ちゃんと読むように」とメモを残して部屋を後にした。


5.

 寄生虫学教室では、顕微鏡を覗き込んだ研究員が驚いた声を上げた。

「うじゃうじゃいますねぇ。先生もご覧になります?」

 伊達は一瞬ためらい、顔をしかめた。

「いや、遠慮しておくよ。」


 聞くと、どうやら水の採取地である富士川下流域東方、静岡県浮島沼近辺も日本住血吸虫症の流行地らしい。


 伊達はすぐに近藤に連絡を入れた。

「足浴は直ぐに中止するように。それと、地方衛生事務所と警察にも報告することを忘れずに。」

 近藤は驚きながらも、事の重大さを理解し、急ぎ対応した。


6.

 翌日の夜、東京魔術倶楽部の一角で、伊達は橘に事の顛末を語った。


「つまり、沼の水に寄生虫がいて、それが皮膚から侵入した結果、肝臓をやられてたってことか。」

 橘が酒を飲みながらつぶやく。


「河村だったら、水の採取地と症状だけで気づいたかもしれんな。」

 伊達が言うと、橘は大きな声で笑った。

「そしたら、また甘味祭だぜ?」

 そう言って、グラスを傾ける橘を見ながら、伊達も苦笑する。河村のいない夜は、静かに更けていった。

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