水曜日の幽霊
1.
未亡人、八木沢和子の住居は高級住宅街に構える瀟洒な邸宅だった。和子はかつて夫と共に華やかな社交界を賑わせた名士で、配偶者の死後もその財産を守りつつ、慈善活動に勤しみ、気丈に日々を送っていた。
しかし二年前、和子にとって心の支えだった一人娘、美由紀が、若くして肺病に倒れた。美由紀は、母の腕に抱かれながら静かに息を引き取った。以来、和子は広すぎる家を一人で管理し、娘の思い出と共に、静かに生きてきた。
そんな和子のもとに“幽霊”が現れるようになったのは、半年前のこと。それも、決まって水曜日の夜だ。
水曜日は、美由紀が亡くなった“忌まわしい曜日”である。その日が来ると和子は娘の気配を強く感じた。冷気が部屋を満たし、ときおり、美由紀がそこに“立っている”こともあったという。
幽霊は何も言わず、ただ佇む。だが、その姿は紛れもなく、生前の美由紀そのもの。和子がまばたきをすると、その姿はふっと消えてしまう。
「娘が、何かを訴えているのではないか……。この世に未練があるのではないかと、心配なのです。」
そう語る和子の声には、母としての深い愛情と、説明のつかぬ恐れが同居していた。
橘は、じっと話を聞きながら思案する。
「水曜日の夜に限定されているのは、何か特別な意味があるのかもしれないな。」
一方の伊達は、冷静に考えを巡らせていた。
「幽霊現象は多くの場合、光の屈折や幻覚、あるいは心理的要因によって説明がつく……」
二人は、和子の案内で“幽霊が現れる”という部屋へ向かった。
そこは、美由紀が生前もっとも愛した場所だった。彼女が描いた絵画や愛読書は、当時のまま丁寧に保存され、部屋全体が静謐な空気に包まれていた。まるで時間だけがそっと止まっているかのように。
「この部屋で、美由紀さんは何をしていたのですか?」
伊達の問いに、和子は懐かしむような口調で答えた。
「絵を描いたり、詩を書いたりしていました。美由紀は芸術が好きで、特に水曜日の夜は、女学校時代の友人たちと創作を楽しんでいたのです。」
机の上には、袴姿で笑う美由紀と仲間たちの写真が飾られていた。
橘は部屋の中をゆっくりと見回しながら言った。
「水曜日の夜……。彼女にとって、創作や友情の記憶が深く刻まれた時間だったのかもしれないな。もしかすると、約束を果たせなかった友人がいるとか、未完成の作品が残されているとか……」
対称的に、伊達は科学的な調査の準備を始めていた。
「まずは、この部屋の物理的条件を確認しよう。温度、湿度、光……。異常があれば、それが何らかの“現象”を引き起こしている可能性がある。」
彼はそう言うと、温度計と湿度計を手に取り、部屋の四隅に設置していった。東京魔術倶楽部の協力を得て、最新式のワイヤーレコーダーと小型録画装置も搬入され、記録と観測の準備は、着々と整えられていった。
2.
橘と伊達は、水曜日の夜ごとに、幽霊の出現を観察すべく、美由紀の部屋で夜を過ごした。
驚くことに、夕方から夜になると温度計の針が静かに下がり始める。空気が肌に触れるたびに冷たさを増し、部屋の空気がどこか張り詰めたように変わっていく。だが美由紀は現れない。
しかし、ついに、ある夜、予兆は現れた。いつもの冷気。しかし、刺さるように冷たい。
「これは来るぞ……」
橘が小さくつぶやいたそのとき、ふと空間の一角が揺れ、ぼんやりとした人影が現れた。ワンピース姿の少女――美由紀だった。
彼女は部屋の隅に立ち、何も言わず、じっとこちらを見つめていた。
映写機が回り、ワイヤーレコーダーが唸りを上げる中、伊達は計測機器の記録を確認した。
冷気は幽霊の“登場”と完全に連動していた。温度は一瞬にして3度下がっていた。
「……これは確かに、科学的には説明のつかない現象だな。」
伊達は記録をじっと見つめる。やがて美由紀の姿は出てきた時とは逆に、次第にぼんやりとかすみ、やがて部屋の空気に溶けて消えた。
伊達は急いでフィルムを外し、投影装置にセットする。壁に映し出された映像には、確かに美由紀の姿がある。
「彼女、部屋の隅を指差しているように見えないか?」
橘が映像を止めるよう伊達に合図を送る。
二人は慎重にその方向へと歩を進め、壁の一部にある通気口のような吹き出し口を発見した。古びた木製の格子が取り付けられている。
橘がそれを慎重に外すと、中には冷気を帯びた仕掛けが隠されていた。
氷室、鏡、天秤のような皿、そして複雑な歯車機構が組み合わされた装置だ。伊達が覗き込み、息を呑む。
鏡の表面には、繊細なタッチで少女の肖像が彫られていた。光を反射することで像を空間に浮かび上がらせる、精密な光学トリックだ。
「……氷が落ちると、その重さで装置が作動し、鏡の角度が微妙に変化する。光の反射で彫られた像が壁に投影され、まるで実体のある幽霊のように見える……」
伊達は仕組みを見抜き、冷静に分析を始めた。
「この装置は氷の質や量、気温にも左右される。ゆえに、毎週確実に作動するわけではない。出現が不安定だったのも納得がいく。」
橘は、鏡の縁に彫られた小さな文字を見つけた。
「大河原製作所、特注品……?」
二人は、そこに記された住所を手がかりに、製作所を訪ねることを決めた。
3.
その機械製作所は郊外にあった。
「この装置、依頼主の記録は残っていますか?」
伊達が装置の図面を手にそう尋ねると、年配の職人はしばらく帳簿をめくり、やがて一冊を差し出した。
「ええ、ありますよ。依頼は、八木沢和子様。一年程前に、娘さんの姿を模した投影装置を特注されました。」
職人は、少し悲しそうに付け加えた。
「幻でもいいから、もう一度、娘に会いたい。そう言っておられました。」
その言葉を聞き、伊達と橘は、胸の奥に淡く痛むものを感じた。
あれは“仕掛け”ではなく、“祈り”だ。
邸に戻った二人を出迎えたのは、庭の片隅で何やら作業する男だった。
半纏の袖をまくり、捻り鉢巻を締めたその姿は、植木職人のように見える。
「失礼、どなたですか?」
橘が声をかけると、男はにこりともせずに答えた。
「庭師です。八木沢家に出入りしております。今日は、氷の補充に来ました。」
「氷?」
「ええ。奥様に頼まれておりまして。毎週水曜日、氷を桶に詰めて、例の仕掛けに入れております。」
そう言って、男は木桶を指差した。中には削られた氷塊が静かに並んでいる。
「ただ、最近は奥様、ご自分で頼まれたことをお忘れのようで。それでも、数年分の前金をいただいておりますから、毎週欠かさず氷を運んでおります。」
庭師は、淡々とした口調で語ったが、言葉の一つ一つに、和子の深い喪失と未練が滲んでいた。伊達と橘は、ようやく全てを理解した。
和子は、亡き娘の記憶を“水曜日の夜”に再現しようとしていた。
氷の仕掛け、光の反射、彫られた肖像。それらは、現実には触れられない娘との“再会”を叶えるための、母の手による魔術だった。
けれど、装置の作動は不安定で、娘が“現れる”ときと“現れない”ときがある。それが和子の心を揺さぶり、やがて装置を依頼した記憶すら曖昧にしてしまったのだろう。
――愛する者を思うがゆえに、記憶さえ封じた母の祈り。
二人は邸に戻り、和子に真実を語るべきか、しばし言葉を発せず悩んだ。だが伊達は、静かに語り始めた。和子を部屋の隅に連れて行き格子の中の装置を見せる。
「夫人。この装置は、非常に精緻な構造を持っています。これは、あなたの愛情の深さの証です。」
橘もまた、穏やかに続けた。
「この仕掛けは、あなたの娘さんが、この家に今も寄り添っていることを示しています。娘さんの存在は、あなたの心の中に確かに生き続けています。」
和子は、少しの間、目を伏せていた。やがて、その頬を静かに涙が伝った。
「……ありがとう。未練があったのは娘ではなく、私だったのですね。」
和子の声は震えていたが、その目には、かすかな安らぎの光が宿っていた。
4.
屋敷を後にした伊達と橘は、夜の静けさに包まれた東京の道を並んで歩いていた。
街路樹の影が石畳に揺れ、月の光だけが、ふたりの足元をやわらかく照らしている。
「なあ、橘。」
伊達がふと立ち止まり、静かに口を開いた。
「あの鏡に彫られていた写真……君は、美由紀さんが“何かを指差しているように見えた”と言っていたな。」
橘は、しばらく考えるようにしてから頷いた。
「ああ。最初はそう見えた。でも、今思えば、実際の写真で彼女は指など差していなかった。ただ手を静かに下ろして立っているポーズだった。」
伊達は空を見上げ、月明かりに目を細めた。
「あの指差しは、光と鏡が作り出した“錯覚”だったのかもしれない。影のいたずらでな。」
橘も伊達と同じように月を見上げた。
「美由紀さん自身が、母親のために、あの装置の力を借りて──“ここだよ”と、導いたのかもしれない。あの幻のような指差しは、母を救うための最後のメッセージだったんじゃないかって、ふと思うんだ。」
橘の言葉に伊達は応えなかったが、その表情はどこか柔らかかった。
二人は再び歩き出した。靴音が、夜の舗道に小さく響く。
「真実と幻想は紙一重だ。だが、どちらにも確かに意味がある。今回の件は、そう思わせるだけの何かがあった。」
伊達の声には、かすかな余韻が滲んでいた。
夜空に浮かぶ月は、東京の街を静かに見下ろしていた。まるで亡き者たちの記憶を、そっと照らし出すかのように──。
東京魔術倶楽部へお越しいただきありがとうございました。会費はご感想で頂ければ幸いにございます。
さて、この話は『幽霊ではなくトリックだが、ひと匙の違和感』をコンセプトに書きました。
娘を思う母心と母を思う娘の気持ちの交錯です。初期の中では人気のある話です。