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ドイル忌(後編)

6.

 軍医である河村は躊躇なく池に入り篠原の身体を引き上げた。濡れたシャツに水を滴らせ、地面に横たわる篠原の姿に、誰もが言葉を失った。


 河村は、冷静な表情で篠原の様子を確認する。

「死んでいますね……警察に連絡をお願いします。」

 その声に反応し、政道が急いで屋敷に戻る。

「死後硬直は見られませんが……」

 河村が遺体の状態を確かめながらつぶやくと、橘が不安げに問いかける。

「じゃあ、死んだばかり?」

 河村は首を振りながら、遺体の体重の変化を感じ取るように軽く押し上げる動作をする。


「水侵…皮膚に水がかなり侵入しています。死後数時間は経過しているでしょうね。水中では硬直が起こりにくいんです。」

「じゃあ……溺死ってことか?」

 杉浦が身を乗り出すと、河村は遺体の首元を指さした。

「最終的な死因はそうでしょうね。ただ首に線状の跡があります。恐らく首を絞められてから池に落とされたのでしょう。」


 その分析を聞きながら、伊達は池の周りを注意深く見回す。足元の地面に目を落とし、松の枝が折れているのを見つけた。

「ここで争った形跡か……」

 彼はその枝を拾い上げ、じっと観察する。


「死亡時刻が夜中だとしたら、ほぼ全員にアリバイ無いですね。」

 河村は説明をしながら密室を思い返した。


 篠原がここで争って死んだと言うことは、犯人は鍵を持っている伊達兄弟か、実は密室では無かった部屋を密室に変えることができた人物だ。各々が部屋に入った時、何をしたかを考え、河村は犯人の目星をつけた。皆が集まった時にドアには鍵がかかっていたが、窓の鍵はどうか分からない。


「あれ?」

 河村が不意に声を上げる。

「篠原さん右手に何か握ってますね。これはシャツのボタン?」

河村は遺体の右手を調べながら言った。


 その場にいる全員が顔を見合わせる中、黒田は一瞬、自分のシャツのボタンに目を落とした。その仕草を河村は見逃さなかった。

「ボタンなんて握っていませんよ。後は警察にお任せしましょう。」

 河村は静かに遺体から離れた。


 警察が到着し、現場検証と事情聴取が始まると、黒田は次第に追い詰められていった。

「百合子さんを取られたのが、どうしても許せなかったんです……」

 その言葉とともに、黒田は篠原殺害の罪を認めた。

「犯行動機は篠原さんの妻、つまり黒田さんの元恋人ですか……」

 警察の刑事が確認を取ると、黒田は視線を伏せ、うなずいた。


7.

 その夜、銀座のバーで橘と河村はゆっくりとビリヤードを楽しんでいた。彼らは特に事件について口にせず、球を転がしていた。

「遅くなったな。」

 店の扉を開けて伊達が現れると、テーブル席へ移動する。

「色々と事情を聞かれたんだろう?」

 橘が尋ねると、伊達は渋い顔をして答えた。

「ああ、警察はどうにも好きになれん。」

「二度目の留置所じゃなかっただけ、幸運ですよ。」

 河村が皮肉めいた口調で言うと、伊達は苦笑した。


 橘が身を乗り出し、河村に聞いた。

「黒田が怪しいと最初から睨んでいたのか?」

「外の死体を見てからですけどね。あの状況で密室を作れるのは彼だけですから。部屋のカーテンの裏を調べた時に、窓の鍵を閉めることができた。」


「でも鍵穴から見えた人影は?」

 橘の問いに伊達が答えた。

「おそらく着色した写真か絵だろうな。薄暗かったのは、薄い紙に印刷された写真が鍵穴に貼り付けられていたからだ。それをドアを開けた時に回収したんだろう。」

「だから妙に薄暗かったのか……」

橘は納得した様子だった。


「殺人動機は、やはり嫉妬だった。篠原の妻が元恋人だったことが、彼を追い詰めたそうだ。」

 伊達が語ると、河村がジュースのストローをくわえたまま、目を細めた。

「なるほど。そういう背景か……」

「で、密室のトリックについても警察から聞いてきた。」

 伊達は軽く肩をすくめ、テーブルに肘をついた。


「トリックはさっき河村が言った通り、『推理ゲームの続きをしよう』黒田が篠原と誘い、ドアに鍵をかけた後、窓から外に出る。黒田はおそらく、自分の部屋に篠原を泊めて朝に皆を驚かそうとか話したんじゃないか。そして、そのまま庭を二人で散歩して池のところで隙を見て首を絞めたと言うことだ。」


 伊達は視線をテーブルの上に向け、さらに続けた。

「警察の聴取で、恵梨が夜中に庭を歩く黒田を目撃してたことも分かった。……これでほぼ黒田で確定だろうな。」

「しかし黒田さんが殺人なんて。あの人弁護士だし、真面目で几帳面なイメージだったよな。俺なんかと違って誰が見ても品行方正な人間に見えたし。」

 橘が未だに信じられないといった様子で応じた。


 そのとき、河村がジュースを飲み終え、口元に笑みを浮かべて言った。

「人なんて、置かれた状況でどうにでも変わりますよ。」

 2人の視線が河村に集まる。橘が少し眉を寄せて問うた。

「それ、どういう意味だよ?」


 河村はストローを軽く指先で回しながら、どこか遠い目をして口をつぐんだ。数分の静けさの後、河村が立ち上がり、席を離れる準備を始めた。

「さて、話はこれくらいにしましょうか。どのみち、これ以上は警察の仕事ですから。」

 橘が後ろから不満げに言った。

「お前、冷たすぎないか?」


 河村は背を向けたまま、少しだけ振り返って淡々と言った。

「悲劇は日常の中に転がっていますよ、橘さん。ただ、それに慣れるかどうかは人それぞれです。」

 彼の言葉には妙な説得力があった。二人はそれ以上何も言えず、ただ河村の背中を見送るしかなかった。

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