白紙の手紙
1.
薄暗い部屋に、ピストルの銃声が響いた。机には白紙の便箋、そして男の冷たくなった身体――東京魔術倶楽部の会員が、また一人命を絶った。
それから三日後。有楽町のバーでは、帝大教授の伊達政弘が、元教え子の橘薫とともにダーツを楽しんでいた。
御曹司の失踪事件以来、伊達は倶楽部から距離を置いた。最近は、橘とこのバーに足を運び、ダーツを投げるのが研究の息抜きである。
ふと伊達がダーツを投げる手を止める。
「名探偵さん」
振り向くと、そこには倶楽部で見かけた給仕の少女が立っていた。倶楽部にいる時と異なりまだ幼さの残る笑顔を浮かべ、暗い雰囲気は微塵もない。
「失踪事件、解決してくれてありがとう。」
彼女の声は、明るく、どこか癒しを感じさせるもので、伊達はその変貌に戸惑いながらも尋ねた。
「あの場所では、本当の君を見せていなかったのかね?」
「ええ。倶楽部は、私たちの別の面を引き出す場所。でも、ここではただの“私”です」
彼女の言葉に、橘はほっとしたような顔で笑い、頼んだばかりのビールを掲げた。
「それなら今は、“本当の君”とゲームを楽しもうぜ」
「倶楽部でお二人が見たのは、私のほんの一部だけ。……“本当の力”、見せてあげましょう」
彼女はダーツを手に取り、軽く力を込めて投げた。彼女の手からかすかに光が放たれたように見え、ダーツはまるで魔法に導かれるかのように的の中心に吸い込まれた。
「これが、私が生まれつき持つ真の力です。だから私は縛られているの」
その力は二人に恐ろしさよりも、美しさと不思議さを感じさせた。
ゲームがひと段落したところで、橘が尋ねた。
「ところで、君の名前は?」
彼女は一瞬、言葉を選ぶように黙り、そして答えた。
「名前を知られることは、運命を握られること。でも……呼び名がないと不便ですね。“マナ”、真奈美ということにいたしましょう。」
店を出ると、真奈美がふと立ち止まり、二人の方を振り返る。
「忘れるところでした。倶楽部の人が、また亡くなりました。支配人が、明日お二人に来てほしいと」
その言葉に、二人は顔を見合わせるのだった。
2.
翌日、東京魔術倶楽部にて、支配人はいつになく険しい表情で二人を迎えた。
「また厄介な事件が起こりました。上級会員の席を巡る争いが、悲劇を招いたのです」
支配人の話によれば、上級会員候補として名を連ねていた二人の男性が、相次いで自殺を図ったという。一人は自室でピストルにより命を絶ち、もう一人は自宅の天井から首を吊っているところを発見された。
「今年の上級会員の席は二つ。その座を巡って、数人の会員が競っておりました。亡くなられたお二人は、死の前日に“手紙を受け取った”と周囲に話していたようです。しかし、遺されたのは、魔術倶楽部の封筒と……中には白紙の便箋が一枚、のみ」
橘が、伊達の方に目を向ける。
「封筒と白紙……?それって、単に遺書を書こうとして思いとどまっただけじゃないのか?」
伊達は軽く目を閉じ、低くつぶやいた。
「白紙の手紙……。何か仕掛けが施されていた可能性がある。インク、あるいは便箋そのものに。自殺ということは何か精神を操るような方法が使われたのかもしれない」
支配人はうなずきながら、静かに言葉を継いだ。
「我々は倶楽部の名誉を守るため、この不可解な死の真相を解明したいと考えています。お二人には、この事件の真実をお調べいただきたく」
橘は、子どもがいたずらをするように、にやりと笑った。
「面白そうだ。乗ったよ」
伊達は一度、言葉を選ぶために黙ったが、橘の様子を見て、渋々うなずいた。
「……科学者として、こうした現象に向き合う義務があるのかもしれません」
支配人は深く頭を下げた。
「感謝申し上げます。ご協力に対して、情報提供は惜しみません。まずはこちらを」
支配人は二人の前に二通の封筒と便箋を置いた。どちらも、亡くなった会員が所持していたものだった。
「これらを手掛かりに、“彼らが何を見たのか”、その精神に何が起こったのかを、探ってくださいませ」
3.
二人は再び、科学と魔術の境界を探る旅へと踏み出した。
伊達は科学的な調査手法を駆使し、便箋に隠されたインクや仕掛けの痕跡を探る。一方、橘は彼なりの直感と人脈を頼りに、被害者の交友関係や直前の行動を追った。
調査が進むにつれ、被害者たちがある“秘匿されたセレモニー”に参加していたことが明らかとなる。それは、倶楽部内で行われる魔術的な誓約の儀式で、参加者は互いに何らかの約束――あるいは秘密を共有するのが通例であった。
「これは、ただの自殺じゃないな。何か恐ろしい呪いか……あるいは、強制的な命令が隠されていた可能性がある」
橘は集めた話を書きつけたメモを鉛筆の裏で軽く叩いた。
「呪いか命令か……」
伊達はかすかに眉をひそめる。かつての彼であれば、一笑に付しただろう。だが、倶楽部で体験した“あの夜”以降、彼の中には、科学だけでは割り切れない領域が芽生えつつあった。
「私は、あくまで科学的に立証するのみだ」 そう言いながらも、その声には微かな動揺が滲んでいた。
4.
夜も深けきりの東京帝国大学、その敷地には暗闇が支配する静寂が広がっている。そのキャンパスの一隅、伊達政弘教授の研究室。その部屋はまるで知の聖域のように、実験道具の棚囲まれた重厚な空間であった。
今夜、伊達と橘はその部屋で、“科学の枠”を超えた謎に挑もうとしていた。
机の上には、被害者が受け取ったとされる封筒と白紙の便箋。橘は便箋を持ち上げ、光に透かしたり、目を細めたりしながら何かの痕跡を探る。
「触るのは構わんが、汚すなよ」
伊達が声をかける。
「紫外線か、加熱か……あるいは化学反応か」
伊達は独り言のようにつぶやくと、紫外線ランプを取り出し、部屋の照明を落とした。紫色の光が便箋を照らす。だが、何の変化も現れない。白紙は、やはり白紙のまま。
「加熱か、化学反応か……」
伊達がぶつぶつ言いながら迷っていると、橘が明るい調子で声をあげた。
「迷うのは時間の無駄だ。まずは化学反応の線でいってみようぜ」
伊達は頷き、準備していた酸性の溶液――希薄な酢酸を取り出した。ピペットで一滴ずつ、慎重に便箋へと垂らしていく。
「もしも“化学反応型の不可視インク”が使われていれば、酸がそれを顕在化させるはずだ」
伊達の見立てによれば、これは古典的な“鉄ガロ酸インク”──すなわち、硫酸鉄とタンニンの化学反応を応用したもので、犯人はそこにキレート剤を微量添加して、時間と湿度で発色を消す仕掛けを施していたと考えられた。
やがて、酢酸を含んだ液が便箋の繊維に染み渡り、微妙な変色が表面に現れた。どうやら当たりのようである。
「これだけでは不十分だ」
伊達はそう言うと、今度はガロ酸と没食子酸の混合溶液を別のビーカーから取り出し、紙全体に静かに塗布した。
「しばらくすれば隠された文字が再び姿を現すだろう」
その言葉の通り、数分のうちに紙面に黒く、古風な筆致の文字が浮かび始めた。まるで過去が逆巻くように、封じられていた言葉が現実へと帰ってくる。
橘はその様子を、目を丸くして見つめていた。若干頬が赤くなっている。
「これが……秘密の顔か。いや、これは……ちょっと過激だな」
便箋には、故人の社会的信用と名誉を破壊しうる内容が記されていた。逸脱した性癖、政敵を陥れるための違法行為、さらには死者を出した事件の隠蔽工作まで――。どれも、世に知られれば一瞬で人生が崩壊する暴露文であった。
「……倶楽部内の儀式で、こういう恥部を握られたのかもしれないな」
伊達は便箋の内容を読み顔をしかめた。
──しかし、いかに醜聞を突きつけられたとしても、それだけで人は死ぬだろうか。自殺に至った真の動機は、なお霧の中だった。
二人は、その不気味な手紙を支配人に提出した。支配人は黙って便箋を手に取り、目を通した後、ゆっくりと顔を上げた。
「橘様、伊達様。これで充分でございます。きっかけさえあれば、死の支配など容易いものでございますから」
その言葉に込められた真意を、伊達と橘はしばし測りかねた。
5.
「さて、報酬の件についてですが」
支配人は、落ち着いた低い声で切り出した。「お二方、何かご希望はございますか?」
橘は飄々とした笑みを浮かべて言った。
「特にありませんよ、支配人。好奇心を満たすために動いただけですから」
支配人は次に伊達へと視線を向け、同じように問いかけた。
「伊達様は、いかがでしょう?」
伊達は真剣な面持ちでしばし沈黙したのち、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……望むのは身の安全だ。会員のスキャンダルに触れた以上、もし情報が漏れれば、予期しない事態が生じるかもしれない」
支配人は柔らかく微笑んで応じた。
「ご安心ください、伊達様。亡くなられた方々の件でございます。口外さえされなければ、特段の危険はございません」
伊達と橘は顔を見合わせ、わずかに肩の力を抜いた。
支配人は、ゆっくりと机の引き出しを開けながら、静かに続けた。
「もし特別なご希望がなければ、こちらを」
彼が取り出したのは、二つ古びた鍵だった。それぞれ重厚な装飾が施され、いずれも長い時を経た手触りを持っていた。
「これは地下書庫の鍵でございます。本来は、上級会員に昇格された方のみに授けられるもの。ですが、最有力候補だったお二人が亡くなったため、今年の昇格は見送られることとなりました。これをお二人にお渡ししたいのです」
支配人の声には、古の儀式にも似た厳かな響きがあった。
「書庫には、長き時の中で封じられた知識、古文書、禁断の記録が保管されております。探求心をお持ちの方であれば、きっと心惹かれる何かがあることでしょう」
橘は鍵を受け取ると、指の上でくるりと回し、にやりと笑った。
「なるほど。これは面白いな。死んだ二人が持つはずだった鍵か。とりあえず、ありがとう」
その口ぶりは軽かったが、目の奥には好奇と警戒の色が揺れていた。
伊達も鍵を手に取り、指で重みを確かめるように転がした。
「我々の探求心を満たす何かが、ここに眠っている……。知識の宝庫、というわけですか」
彼は一瞬だけ口を引き結び、言葉を飲み込んだ。
――その宝庫が、どれほどの闇を抱えているかは、まだわからない。
6.
報酬の話がひと段落し、橘と伊達が席を立とうとしたそのとき、支配人が再び声をかけた。
「連続でのお願いとなり恐縮ですが……次の依頼がございます」
二人が振り返ると、支配人は静かに言葉を継いだ。
「ある未亡人のご自宅で、亡き娘が“幽霊”となって現れるというのです。夫人は深く心を痛めておられ、娘にはこの世に未練があるのではないかと……。ご依頼は、その未練を解き、娘を安らかにしてほしい、というものです」
橘は目を輝かせた。
「幽霊か……それは面白そうだ。乗ったよ。」
伊達もまた、ゆっくりとうなずいた。
「幽霊という現象は、科学的には説明の難しい事象です。しかし、夫人の心に寄り添う形で、原因を探ってみる価値はあるでしょう」
支配人は満足げに微笑み、一枚の小さな紙片を差し出した。
「ご依頼主の連絡先でございます。詳細は直接お聞きくださいませ。」
伊達と橘は紙片を受け取り、支配人室を後にした。
次なる舞台は、未亡人の屋敷。そして、そこに現れるという亡霊。
科学と魔術の狭間に立つ彼らに、新たな夜が待っていた。
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この作品が生まれた理由は『なんか化学っぽいことやりたかった。』です。せっかくインテリ眼鏡の教授がいるんですもの。
実を言いますと、最初、伊達教授は工学部の設定でした。……理学部の方が使い勝手が良いためしれっと変更して今に至ります。ちなみに専門は分析化学です。