嵐(前編)
1.
「最近、ツェッペリン号絡みのニュースが人気らしくてさ。ドイツ語の記事の翻訳仕事が入ってね。」
橘が得意げに言ったのは、東京魔術倶楽部に三人が集まった夕方のことだった。
「君が、仕事をするのかね?」
伊達が驚いた顔をして尋ねる。
橘は笑いながら、伊達に反論した。
「失礼なことを言うなよ。」
「こう見えて翻訳だけじゃなくて、記事を書いたりもするんだぜ?」
「ほう、どんな記事だ?」
伊達が少し興味を引かれたように尋ねると、橘はさらに得意そうに答えた。
「銀座の遊び方やギャンブルの記事さ。」
伊達は黙って頷いたものの、もう少し高尚なものを書けと言う目をしていた。それを見て橘は詳しく話すのはやめた。
一方、河村は倶楽部の隅で、新聞をじっと見つめていた。その目線の先には、ニューヨーク市場の大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」に関する記事がある。
「何を読んでいる?」
伊達が声をかけると、河村は新聞を折りたたんでテーブルに置いた。
「ニューヨーク市場が大暴落したようです。」
渋い顔をしながら続けた。
「この影響で、不況がさらにひどくなりそうですね。ひと嵐、来そうだ。」
その言葉に、橘と伊達も思わず神妙な顔つきになった。
しばし静寂が続いたが、やがて河村がふっと表情を緩め、二人に目を向けた。
「……憂さ晴らししませんか?」
橘は驚いたように笑い出した。
「お前がそんなことを言い出すなんて、珍しいな。」
河村は、薄く笑いながら答えた。
「たまには必要ですよ。気が滅入ったままではいけません。」
「それじゃ、たまには気分変えて外で飲まないか?」
橘が提案すると少し考えた後、河村は頷いた。
「そうですね。そうしますか。居酒屋で良いですか?」
いつも河村がお茶やジュースを飲む姿ばかりを見ていたため伊達は驚いて言った。
「お前、飲めたのか?」
河村は淡々と答えた。
「飲めないと言った覚えはありません。」
そして腕時計に目をやり、
「軍服を着替えてきます。少々お待ちください。」
と言って席を立った。
2.
小一時間後、河村は私服姿で戻ってきた。白シャツに薄いグレーのジャケット、黒いズボンというラフな装いである。
「お待たせしました。」
「随分と違う人に見えるな。」
橘が感心したように言うと、河村は軽く頭を下げた。
三人はそのまま銀座の裏路地へ向かい、適当に見つけた居酒屋に入った。狭いが活気のある店内で、カウンター席はぎっしり埋まっている。
「ここでいいですね。」
河村がそう言い、空いていた一卓に腰を下ろした。
居酒屋の雰囲気に慣れていない伊達はどこか落ち着かず、スーツ姿が場違いに見えた。そんな様子を横目に、河村は慣れた手つきでつまみと冷や酒を注文した。
「さてと。」
注文を終えた河村は二人を見渡しながら静かに言った。
「こういう仕事をしていると、訛りは不要なものなのです。」
橘が興味を引かれたように聞き返す。
「訛り?」
河村は頷く。
「方言は身元がバレる原因になりますからね。標準語に矯正するのは、私のような職業では必須なのです。」
そうこうするうちに、日本酒の徳利と煮物が運ばれてきた。河村は手際よく冷酒を注ぎながら、
「まぁ、お二人になら……いいですかね。」
と静かに言って一口酒を煽った。
しばらく飲んでいたが、河村の顔色も口調も変わらない。その様子に、橘が感心したように言った。
「お前、意外と強いんだな。」
だが、何かの拍子に酒をこぼし、小さく
「さい」と呟いた瞬間、二人の視線が一斉に河村に注がれた。
「今の、なんだ?」
橘が聞くと、河村は少し照れくさそうに笑った。
「ああ、今のがお国言葉です。」
「お国言葉?」
伊達が興味を示す。
「出身を聞いてもいいか?」
「秋田の鹿角です。実家はりんご農家で、祖父はマタギもやっていました。」
河村は意外なほど饒舌に語り出した。
二人は初めて聞く河村の故郷話に、思わず耳を傾けた。
「猟犬が三匹いたんですよ。みんな秋田犬で、家に来た日の天気を名前にしたんです。ハレとユキと……アラシです。」
「アラシ……か。」
橘が何かを思い出したように小さくつぶやいた。
そこから三人は言葉を交わさず、黙々と盃を傾けた。酒の静かな流れの中、しばらくして河村がぽつりと口を開いた。
「日本が平和になったら……私は軍をやめて、郷里で医者をやりたいんです。いや、いっそ医者もやめて菓子屋でも楽しいかもしれませんね。」
「菓子屋か?」
橘が面白そうに尋ねると、河村は微笑んだ。
「実家のりんごを使って、パイを焼くんです。香ばしい生地に、甘酸っぱいりんご……うまいですよ。」
「そりゃ美味そうだな。店を開いたら買いに行くよ。」
橘が軽く杯を掲げると、河村は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。いつかお二人に鹿角の雪を見せたいですね。」
その言葉には、遠く故郷を思う切実な願いが込められているようだった。
閉店時間が近づくと、三人はようやく席を立った。冷え込んだ夜の空気に身を震わせながら、河村は別れ際に振り返った。いつもの作り物の笑顔ではなく、どこか解放されたような、柔らかな笑みを浮かべていた。
「へばな。」
そう言って河村は手を振った。秋田弁で「それじゃあね」という意味だと気づいたのは、しばらく歩き始めてからのことだった。
「河村にもあんな顔があるんだな。」
橘がつぶやく。
「ああ、そうだな。」
伊達が短く答えた。
3.
ニューヨーク市場の大暴落は、じわじわと世界中に波及していた。日本でもその影響は避けられず、政府が金の輸出入を再開したタイミングが最悪だったことから、円高が進み、企業の倒産が相次いでいた。倶楽部の会員たちの間でも財産を失う者が現れ、落胆の声が広がり始めていた。
「最近、暗い話ばっかりだよなぁ。」
橘が軽くため息をつきながら酒の入ったグラスを揺らす。
「そうだな。」
伊達が苦々しい表情で相槌を打ちながら、手元のウイスキーを一口飲む。
そんな二人のやり取りを黙って聞きながら、河村は静かにリンゴジュースを口に運んでいた。
三人がくつろいでいるところに、支配人が慌ただしく扉を開けて入ってきた。彼の顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。
「伊達様、橘様、少々お時間をいただけますでしょうか?」
その切迫した様子に、二人は即座に立ち上がる。
「どうしたんだ?」
伊達が声をかけると、支配人は言葉に詰まったように一瞬だけ黙り込んだ。しかし、すぐに
「お二方にだけお伝えしたいことがございまして……」
と小声で告げた。
橘がちらりと河村の方を見て、手招きをした。
「お前も来いよ。」
河村は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、支配人の方を見ると、彼は少し戸惑いながらも、
「ご迷惑でなければ……」
と控えめに言った。
「ご迷惑ですけれど。」
河村はそう言いながら立ち上がり、二人についていった。
河村さん、すっかり馴染んでおります。
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